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浮浪鈴の視力検査

 視力検査をしていると、首をかしげる事態になっていた。列に並び、他人の検査の様子を見ていたときはなんの違和感も感じなかったのに、自分の順番が来た途端にランドルト環の向きが一切分からなくなっていた。

 うまく対象の像が結ばれず、それはまるでカメラのピントが合わないみたいにすべての輪郭が曖昧にぼやけだしたのだ。かろうじて見えるのは彼らがどんな姿勢でいるのかということと、スカートとズボンどちらを穿いているかということ。彼らの顔がつぶれ、いつも気にしている彼らの目が見えなかったことは不幸中の幸いだった。

 視力検査の爺医師が何かを指し示した。きっと「この輪っかはどちらの方向を向いていますか?」と言っているのだろう。浮浪鈴ふろうべるは怪しまれないように少し悩んだ素振りを見せた後、どもりながら答えていった。

 検査が終わる頃、目がいっそう悪くなっているような気がした。目の前数センチに手をかざしても、きめ細かな皺が見えなかった。検査室から出るとき、後ろに控えていた生徒がクスクスと笑いあっていた。狐みたいに吊り上がった目で浮浪鈴を見てくる。浮浪鈴は笑われないように気をつけたはずなのに、彼らは一ミリも彼のミスを見逃さなかった。浮いた存在、浮浪鈴はいつだってその単語の意味することを恐れていた。

 嘲笑という人をコケにした笑いを彼らはよくする。彼らはいつだって他人の失敗を待ち、人が悲しみうらぶれているところに追い打ちをかけるように、馬鹿にした笑いを耳奥に響かせてくる。

 教室に誰も居ない今なら、彼らの弁当に笑いが止まらなくなる毒を入れることができる。彼らはもう一生笑うことができなくなるだろう。いい気味だった。浮浪鈴は腹を抱えて彼らを笑い返したい気分になったが、そんな度胸はなくおずおずと彼らの横を通って廊下に出た。

 たまたま今日、彼らの餌食にされただけだ。別に悔しいとは思わない。彼らの中にも「可哀想、わたしはあなたのことを悪く思わないからね」と思ってくれる子がいるに違いないのだから。きっと彼らの中で本当に悪ふざけをしている気になっている者は一人だけのはずだから。浮浪鈴は一人で昼食を食べた。誰も苦しむことはなかった。放課後、視力検査の警告通知書を先生に手渡された。先生は職員室に浮浪鈴を連れ、話をしようと言った。

「目が悪いのおまえだけだぞ。おれも長年教師生活をやってきてるが、こんなことは初めてだ。どこかにぶつけたのか?」

「いえ、そんなこと、ないと思います。ただ・・・」浮浪鈴は言葉に詰まった。

「何だ?」

「た、ただ! 目が悪くなったんです。別に暴力とか事故とかなくて。そういうことはないんで、大丈夫です」先生を圧縮機で押しつぶし、身長を低くしてみることも検討しようかなと浮浪鈴は思った。その時は本気で思ったことだった。

「おまえひどく動揺してるんだな。まあ、無理もない。あまり深くは聞かないから。クラスにも伝えない方がいいかもしれないな」と先生は言った。

「はい」と返事をするが、先生は聞こえなかったようだ。先生は訝しむ顔をした後「もう帰って良いぞ。じゃあ、気をつけて。さよなら」と言い、デスクと向き合い、書類に目を通しはじめた。浮浪鈴は目を凝らして、ようやく先生を見ることができた。もうこれから先、先生を見ることもなくなるかもしれない。いい気味だった。

 目が悪くなったことは、人生において初めてのことだった。一度瞬きをするたびに、世界の透明度が失われていくようだった。

 家路につき、真っ先に親に視力の低下を伝えると、母親は当然のごとく驚きの表情を隠せない様子だった。「あんたどこかに目をぶつけたんじゃないの?」浮浪鈴はぶっきらぼうに言った。「そんなことしてたら普通に気づくよ」

「でも、だったら、どうしてよ。今日の朝まで平気だったんでしょう?」と母は心配と困惑の入り混じった顔をして言った。

「視力検査してるときに突然見えなくなった」と言うと、さすがに母親は呆れた表情をした。

「原因は何なの?」と母親はクローゼットから埃を被った眼鏡を取り出し、レンズを拭きながら言った。

「分からない。おれ、眼鏡はかけたくないんだけど」

「いいから、かけてみて」と差し出された眼鏡を渋々受け取った。なかなか眼鏡がうまくフィットしなかった。「気持ち悪い」眼鏡などなくともいつも顔色を伺ってきた母親の表情を読み取ることは容易だったので、今おもしろおかしそうに息子の眼鏡顔を眺めているのは十分に理解できた。

「どう?」正直、頭はくらくらするし世界は歪んで見え、最悪だった。だが、眼鏡をかけても尚良くはならない自分の視力の低下に恐れおののき、本当のことを言うのが怖くなった。

「あんまり変わらないけど、なんとなく良くなってるのかな。分からないけど」

「ま、老眼用だしね」そう言うと母親は無造作に浮浪鈴の手から老眼用眼鏡をとると、また埃を被るように汚れたケースにしまった。「なんだよそれ」浮浪鈴はまだこの時気楽なほうだった。


 病院に行って眼鏡を試すことになったが、視力はよくならなかった。それでも学校には行った。ずっと目が見えるものとして学生生活を送っていたが、段々と限界が迫ってくる。睫ににゴミが引っかかっても気づくことができなかった。

 治療をしたのだが、よくはならなかった。もはや打つ手なしの状況に追い込まれ、最後には失明してしまった。家族の姿を見ることはかなわなかったが、父親も母親も悲しんでいたと思う。

 目が壊死していたので両目はくりぬかれ、そこに義眼がはめ込まれた。「義眼にしても目が見えるようになるわけじゃないけど、周りの目がずいぶんとマシなものになると思うよ」と妹に言われた。義眼になった日、人生において初めて周りの目が望んでいた色を帯びはじめた気がした。誰もが自分を理解しようと努めてくれるようになった気がした。クラスが一丸となって浮浪鈴に花束や寄せ書きも贈られたが、その真意は底知れなかった。家族は忙しくて来ることはできないそうだ。看護師が微笑みながら、浮浪鈴をいたわりつつも同情していた。「今日も家族は来られないね」と何度も同じ台詞を言っていた。

 浮浪鈴が退院し、家に帰ると母親が病死したことを父親の遺言書で告げられた。誰も浮浪鈴を待ってくれている人はいなかった。病院で一人浮世離れした生活を送るうちに、世界は一変していた。まるで自分だけが過去に置き去りにされたようだった。これからの人生これ以上に悲しいことなんてないだろうと思うと、気が楽になった。

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