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「禅とヨーガ 」 要するに同じものです。私の禅仏教 試論

作者: 舜風人

禅とは禅定の略語であり、要するに、仏教の瞑想法です。

梵語ではディヤーナと言います。

つまり古代インドのヨーガを仏教が取り入れたということです。


ヨーガは古代インドで始まられた瞑想法で

心の作用の「止滅」を追求することです。

それによって空性を実現して

ニルバーナに至る、という修行法です。


ニルバーナとは涅槃と訳されて、つまり涅槃寂静の境地への

瞑想法、修行法が、ヨーガです。


これを取り入れたのが、AD2世紀ごろから隆盛してきた、いわゆる大乗仏教諸派であり

大乗仏教の根本原理である「般若思想」の体現として修行者が

空性を会得するために、取り入れたのがヨーガです。


ヨーガは古代ヒンズー教の瞑想法でそれは古典ヨガと呼ばれるものです。

その根本経典としてまとまられたのが「ヨーガスートラ」です。


大乗仏教の論理をまとめて論理化したのが「竜樹」です。

彼は大乗仏教の般若思想を論理化して「中観派」の祖となりました。

竜樹の説く、空の論理とは、言葉の脱構築であり、言葉の否定です。

言葉に依る限り般若の知恵は完成されない。

言葉の先にあるもの、すなわち、空性こそ涅槃であるという論理ですね。

こうした竜樹の思想はヨガではないですが、言葉の先の三昧境を目指したという点では

ヨーガスートラが説くところの、「無種子三昧」と相通じるところもあるのでしょう。


さて仏教諸派ではヨーガをより深く取り入れたのが

唯識派、、つまり瑜伽行派です。

唯識派は8つの意識で世界を認識するとして

その意識の根底には「阿頼耶識」というつまり現代風にいうなら

潜在意識の底層があることを世界で初めて発見した、いわば心理学の元祖です。

「無意識」という世界を初めて発見したのがこの唯識学派です。

阿頼耶識の土台の上には、さらにより顕在意識化された「末那識」が横たわり、その上にいわゆる顕在意識である、五感とか直観が形成されるというまさに今の心理学?ですよね?

これを2000年前にすでに発見していたのです。

ただし唯識派は大乗仏教ですから、こうした意識界の先には空性しかないという

般若思想です。ヨガ行派の瞑想法では有想三昧であり、ヨガの観想によっても止滅されない種子が残るのであり、竜樹のような徹底して止観行法で、空性を喝破するのではなく意識の種子が残って清浄化されるという、清浄観法が求められたのであろう。


竜樹の空論はそのあまりの徹底的な脱構築が高邁すぎて、一般的な支持は得られなかったようである。

変わって伸張したのが瑜伽行派である。

ここから後に、ヒンズーのタントリズムを取り入れた「密教」が成立するのである。

タントリズムとヨーガを取り入れて独自の修行法として確立したのが密教である。

ただここでいう「ヨーガ」は古典的な瞑想ヨーガではなくて

より実習法を体術・呼吸法として確立した「ハタヨーガ」である。

今、一般的にヨガ教室などで行われているのが「ハタヨ-ガ」ですね。

こうして密教は呪文・儀式・瞑想・真言・修法としての仏教の百貨店?を構築したのである。

ある意味、これが仏教の最終形態でしょうね。

余談?ですが、、ヨーガには、昔から「性ヨーガ」の一派もありまして、

これが性タントラとして、性神信仰や性エネルギーのクンダリーニの周天法として取り入れられて

来たという流れもあります。

確かに性エネルギーというのはおそらく人間に限らず生物全般にとっても最も強大なエネルギーでしょうからね。これに着目したというのは、フロイトよりも、1000年前ですから、先見の明?があった?ということでもあるのでしょうね?

まあ一般に、性タントラ派は淫祀邪教に堕しやすい、、ですから、性エネルギーの取り扱いは

宗教では、、やらないほうが良いのかもしれませんがね。

宗教で性を善用?するのは、至難の業です。

カルト宗教で、、信者の性儀式?なんてのがよく、見られますが、まあ、宗教と性は、難しいです。

タントリズムはそういう意味で、危うい選択であるのです。


それにしてもヨーガの修行法では、まず性エネルギーを、チャクラに集中させてクンダリーニとして

脊髄に沿ってあげてゆくのが常道ですから、これがいわゆる房中術化してしまうと、

性タントラの堕落、、という俗化で、おしまいなんでしょうけどね。


淫祀邪教でしかないですものね。


横道にそれすぎましたね。


本題に戻ります。


さてヨーガと禅宗ですが

北宋時代にボディダーマ(菩提達磨)が中国に来て禅を伝えたということになっています。

根本はヨガですが、元来中国人はインド的な言葉を尽くして営々と数万言で悟りを説明し尽くそうという

のが苦手?です。インド人は、言葉はむなしい、言葉で究極の真理は伝えられないと悟っていてもそれでも、ぎりぎりのところまでは言語で論理的に説明し尽くそうとするのです。

印度に数学や論理学が発展した理由ですね。

ところが中国人は、最初から、言葉は真理を伝えられないと達観して言葉で説明しようとはしませんね。

それがつまり「禅」です。

瞑想法としてサトリを求める心は同じでも、禅とヨーガが違うという点です。

禅宗の修行法を見ると、

いわゆる禅問答です。


百尺竿頭をさらに一歩を進むとは、これいかん?

説破。

なお、涼風のたもとを吹くがごとし。


これはもうヨガのように情理を尽くして修行の階梯をこんこんと説明し尽くそうとするのとは

真逆ですよね。ここが論理嫌いの中国人なのです。中国に論理学が皆無の理由でしょう。

日本にも論理学って皆無ですけどね。

禅宗ではこのように禅問答や

或いは猫を袋叩きにしたり

骸骨を杖の先に掲げて新年祝いに出かけたり

修行僧にいきなり水をぶっかけたり

花をねじって微笑したり

片手で拍手しろっていったり、

いきなり月を指差して、この意味は如何?


まあそういう、論理無視の即物修行ですよね。

これが論理嫌いの中国人にいたく気に入って広まったのです。

そうして同じく論理嫌いの日本にも伝わったという次第です。


こんこんと悟りの階梯を条理を尽くして千万言を費やして説明するのがいいのか?


それとも、禅のように論理無視、言葉無視で、修行僧にいきなり、水でもぶっかけて


『さあ、悟れ』


というのがいいのか?


どっちがいいとはこの際、即断できませんよね



しかし



ヨーガ


求めるところは同一です。


瞑想法であり、


知識の止滅であり、


般若ハラミツであり


意識の清浄化です・。


サマーディであり


ニルヴァーナです。








護法童子よ。


廻せ


廻せ



運命のかざぐるま。















㊟あくまでも私的見解です。

なお文中には、誤字・脱字などあるでしょうが面倒なので訂正はしません。

あしからず。

































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