世界の終りと夜明け前
ネットサーフィンをしていた私は、「ひとりずもう」というブログを見つけた。
「ひとりずもう」は、大学生のブロガーが大学生活になじめず孤独でいることの苦しさを、
ブログ上に書き記していた。
その日の日記には、
3月10日
僕は今日も一人だった。誰とも僕は話していない。
僕は道端の石ころと同じだ。
亜紀
亜紀はかなり孤独な人物らしい。
だが当時、私も、なかなか「大学」というものに馴染めず、不器用なキャンパスライフを送っていたのでなんとなく親近感が湧いた。
それ以降、ブログが更新するたびに、私は、「ひとりずもう」の日記を見ることが習慣となった。
やがて、私は二回生に進級した。
キャンパスは都心に移り、通学がつらくなった。
満員電車の人の塊。
都心は人の波であふれている。
そんな都会の雰囲気と、「大学」という集団に私は未だ馴染めずにいた。
友人が増えることもなく、ただ淡々と大学に行っては帰り、と単調な作業を繰り返していた。
じめじめとした雨が降り続く6月の半ば、大教室で教養の授業を受けていた私は、どこかで見たことのある男を見かけた。
誰だっけ?
普段男子との接点が少ない私が記憶している男は限られている。
授業終了のチャイムが鳴る頃、私はようやく思い出した。
上野アキヒロ――
彼は私と中学校時代の同級生で同じクラス、委員会役員の片割れだった。
授業が終わると、人見知りの私から、珍しく彼に話しかけてみた。
「アキヒロ君…。だよね?」
アキヒロと思わしき男は、驚きながらこちらをを振り返った。
「はっ…。そうだけど。き、君は…。誰だっけ」
とアキヒロは落ち着かない様子で答えた。どうやら私のことは覚えていないらしい。
「ほら、旭川中で一緒のクラスだった井上…」
「もしかして、あおい?図書委員会で同じだった井上あおいか」
「そう。図書委員会のあおいです。久しぶり。元気だった?」
「それなりに。すごい久しぶりだね。中学を卒業して以来かな」
私とアキヒロは違う高校だったのだ。
「そうだね。同じ大学に通っているなんてビックリしたよ。何学科?」
「法律だよ。あおいは?」
「私は政治。あぁ、ほんと懐かしいなぁ」
「あおいも栃木から上京してきたんだ」
私たちの地元は栃木の足利市だ。
「そう。今は高島平から通ってる。アキヒロ君は?」
「僕は川崎から。まだ引っ越してなくて」
1回生の校舎は川崎市内にある。
アキヒロとの会話。久々に人と話す喜びを感じた気がする。
10分も話した後、次の授業があるから、と私たちはそれぞれ授業へ向かった。
2限目の社会学の授業中、私はアキヒロのことをぼんやりと思い出していた。
確か…
アキヒロは、中学2年の時、不登校だった。その原因は、たぶん、いじめ。
私がアキヒロと同じクラスだったのが1年の時。
2年に進級し、夏休み以降、アキヒロは図書委員会の会合も、
バスケ部も、
さらには学校にも、姿を現さなかった。
大学2年のアキヒロは、図書室のカウンターで見た背の低い、色白のアキヒロとは違う、
「男性」として見えた。きっと、大学に出てきたということは不登校時代の傷も癒えたのだろう。
大教室での出会い以来、キャンパス内でアキヒロと会ったら話をする仲となった。
アキヒロの中学時代は、地味だが明るい、そしてはっきりとした「何か」を持っているイメージだった。
しかし、大学生になった今は、明るさは消えうせ、言いようのない影を持ち歩いていた。
ただ、私と話す時は、闇をうまく消し、明るい、中学生のアキヒロのままでいた。
夏の気配がすぐそこまで来ていた深夜2時、飲食店でのアルバイトを終えた私は、
いつものように「ひとりずもう」のページを開いた。
今日の亜紀の日記は、どこか引っかかる点があった。
7月12日
僕の大学は東京にある。
オフィス街の中心にあるせいか、人がたくさん通る。
これだけの人がいるのに僕は孤独だ。
大学の屋上の14階から人を見下ろしていると僕が神様になったように思えた。
みんな消えてしまえ。そして僕も死ぬ。僕は屋上の壁にそう書いた。
亜紀
私の大学も、14階が屋上で、神保町のオフィス街中心に位置している。
まさか…。
亜紀は同じ大学にいるのだろうか。
そんな疑問を抱きつつ、あくる日の朝、なんとなく屋上まで上ってみようと思った。
非常階段を上り、ドアを開けると、夏の風が私の全身を通り過ぎて行った。
屋上の壁際まで行き、落書きを探してみた。
壁面には多種多様なな落書きが書かれていたが、私は見つけてしまった。
みんな消えてしまえ――
私の近くに亜紀がいる。見かけたことがあるかもしれない。
すれ違ったことがあるかもしれない。
交友関係の少ない私でも、話したことがあるかもしれない。
そう考えると、いてもたってもいられなくなった。
亜紀を助けてあげたい――。
「ひとりずもう」のコメント欄に、私は初めて書き込みをした。
はじめまして。私は亜紀さんと同じ大学に通うものです。
突然だけど、あなたは一人じゃないよ。
私があなたの友達になりますから…。
だからそんなに思いつめないで。
だが、何日経っても、私のコメントに返信はなかった。
コメント書き込んでから二週間後の夜明け前、試験勉強の追い込みの傍ら
私は、ふと気になって「ひとりずもう」を覗いてみた。
久々に日記が更新されていたため、私はほっとした。
亜紀は死んでいない―――
しかし、日記の内容をみて私は愕然とした。
7月26日
今、僕は大学の屋上の14階にいる。
飛び降りようと思えばすぐにでも死ぬことが出来る。
命って作るのは難しいけど、消えるのはすごく簡単だ。
こんなにも人の命は小さいのか。今になってそう思えた。
思い返せば今日までの20年間、いいことなんてひとつとしてなかった。
ただ、歩いてるだけ。息をしてるだけ。生物の、無機質な動作を淡々と続けているだけ。
僕は、生きている本当の意味を、ついに見つけることは出来なかった。
人間にとって、生きている本当の意味を見つけることが最大の目標だと、僕は考えている。
そんな目標を失った僕に、生きる資格はもうない。
自分の人生を変えた中学生活。僕はイジメに耐えられず不登校だった。
親友だと思っていた奴に裏切られ、僕はクラスで孤立していった。
誰も助けてはくれない。みんな、僕と同じように、孤独にはなりたくなかったから。
そのころからだ。人を信じるのが恐くなったのは。
高校時代はなんとかやっていけた。
少ないながら「友人」とよべる人にも出会えた。
イジメの恐怖も、忘れ欠けていた。
その後、僕は上京し、東京の大学に通った。
初めのうちは、人付き合いもそこそこできていた、と思う。
サークルにも入り、ある程度の付き合いもできていた。
しかしサークルで言われたひと言が、すべてを破壊させた。
「お前と話していてもおもしろくない」
このひと言で僕の心はズタズタにされた。
あの中学の暗黒時代を思い出してしまった。
僕は面白くもない。話していてもつまらない。
僕は他人からそういう評価をされているのだ。
他人の目が恐い。何を考えているのかわからない。
もう誰も信用することはできない――。
そんな風に思っている人間は一人でしか生きられない、と悟った。
それ以来、サークルに顔を出すことはなくなった。
それから僕は、常に一人で広いキャンパスをすごした。
孤独な時間が続く講義を一番前で聞く。
「友達」という、くだらない掛け合い。休み時間中の孤独な時間。
それらを馬鹿にして、下にみることでなんとか「自分」を保っていた。
大学へ通う意味を見いだせない自分。一人で食べるメシの時間。
食堂は使わない。一人でいるところが、誰かに見られるのが恐いから。
人が誰もいない場所は、トイレしかなかった。
個室便所で一人、コンビニの飯を食う自分。とても情けなくなる。
でも、自分でどうすることもできない。
そのことでまた、自分に腹が立つ。
東京の家で一人、ネットでの、心のないなれ合いを支えにし、
無意味だと、わかっていながらそれでも時は過ぎ、やがて朝がやってくる。
朝焼けは、僕を失望させる。また苦しい一日がやってくるのか、と。
大学で言葉を発することはなくなった。
喋る機会もない。
話す相手もない。
僕はなにもない。
機械的な日常の繰り返しに嫌気が差し、それでも自分なりにもがいてみた。
でも――
もうこんな生活は嫌だ。だから僕は死ぬ。
僕が死んでもこの世界は変わらないだろうし、地球はなにごともなかったように回る。
そのことに気が付いたから。
僕が死んだら誰が悲しんでくれるだろうか?
そう思った時に頭に浮かぶ人はいなかった。
もし、もしどこかの誰かが僕のために泣いてくれるとしても、
一年後か、はたまた十年後には、僕が生きていたことすらも忘れてしまうだろう。
人間の「死」ってに誰からも忘れ去られて初めて死ぬんだと思う。
きっと僕の死はすぐ訪れるだろう。
よく「命を大切に」なんていってるけど、そんなのウソだ。
偽善でしかない。この世の中は偽善だらけだ。
世界には、生きたくても生きられない人だっているんだよ、という人が輩がいるが、
そんなこと励ましを言われても、僕はもう生きたくないんだからしょうがない。
こんな腐った命でもあげることができたらな、なんて思う。
飢餓で苦しむ人。戦争で不本意な死を遂げようとしている人。
こんな僕を許してほしい。
僕には生きる資格はもうないのだから・・・・・・。
死ねば一人になることなんてない。
だって、存在すら、消えてなくなるのだから。
だから、僕はここから落ちて死ぬ。
空を眺めると、真っ暗な空から朝日が差し込もうとしている。もうすぐ夜明けだ。
日が昇るとともに僕は飛び降りる。
光がこの世界を差し込む時、僕は何を考えているのだろう。
死ぬことを後悔しているのか。
それとも、やっぱりこのくだらない人生に絶望しているのか。
たぶん、その瞬間に、本当の生きる意味が見つかる。
そんな予感がする。
では、さようなら。
亜紀はこんなにも思いつめていたのか。
頬に伝わる滴をすら感じられないほど、私は放心していた。
ふと窓の外を覗くと、オレンジの光が、闇の中から生れ出ようとしているところだった。
私は決心した。まだ間に合うかもしれない。
更新された時間は4時5分。今は4時30分だ。
始発で大学に向かえば…。
急いで洋服に着替え、家を飛び出した。
下宿先のアパートからは少なくとも大学まで三十分はかかる。自転車に飛び乗り、駅までの道のりを全速力で駆け抜け、始発の電車に飛び乗った。
がらがらの始発電車の中で、私は亜紀の正体のことを考えていた。
亜紀は誰なのか…。
自然と私の頭の中にある人物の顔が浮かんだ。
アキヒロ――
アキヒロの中学時代、特に不登校時代の頃を、私はあまり覚えていない。
アキヒロがいじめられたとき、私は止められただろうか。
私は大学二年生の闇のアキヒロを思い出さずにはいられなかった。
キャンパスで、アキヒロが私以外の人と喋っている姿を見ていない。
アキヒロの
人がいない電車の中で、私の心臓の音が電車の振動と合わせて聞こえた。
絶対に死なせない。
電車から飛び出した私は走ってキャンパスまで向かった。
「ひとりずもう」の更新は、やはり途絶えていた。
そして、私は確信した。
亜紀はやはりアキヒロだったのだ、と。
アキヒロの死には遺書がなかった。
しかし「ひとりずもう」の日記は、アキヒロの遺書そのものに間違いなかった。
アキヒロの死から数日がたち、私のパソコンにメールがきていることに気がついた。
それはアキヒロから来たものだった。
僕はこれまでの自分のふがいなさを捨てるため、屋上に上ってきた。
もう、僕には何もいらない。
生きている意味などない。そう確信している。
しかし、死の瀬戸際になって僕は死ぬことを後悔し始めた。
なぜなら、あおいのことが気になるからだ。
僕はあおいのことが好きだ。
いままで恐くていえなかったひと言。
メールという形でも言えてほっとしている。
僕はあおいと釣り合わない。
そんな気がしてどうしても言えなかった一言。
あおいとしゃべっている時のあおいの笑顔が好きだった。
あと、ブログに書き込んでくれたのはあおいだよな?
今更だけど、ありがとう。
もう、どうしようもないんだ。
あまりにも自分が嫌いすぎるんだ。しょうがない。
さようなら。
アキヒロは、もうこの世界にない。
アキヒロの最後に見た光景、飛び降りた時の気持は、私にはわからない。
けどそれは、どこかにある世界の終りの中で、永遠に繰り返されているに違いない。
私は、アキヒロが死んだ、と聞いたとき、泣かなかった。
アキヒロが死ぬ前、一人の人が死ぬことで変わるものはない、と言っていた。
しかしそれは間違いだ。私の心は穴が開いたようにすっぽりしている。
アキヒロの死は確実に私の世界を変えさせた。
私はアキヒロを忘れない。
アキヒロは、私の思い出の中で生きていくのだ。
アキヒロ・・・・・・。アキヒロはもう、一人じゃないよ。