木の実がつないだ寝物語 3
いつの間にかまた結構な時間が経ってしまっていたらしい。
わたしがバスケットを閉めようと伸ばした手をそのままに、顔だけあげてこの犬を真正面から見上げたとき、周辺の大きな木の間から覗いた空は茜色に染まっていた。もう日が落ちつつあるのだろう。
「今の声はあなたからですか?なかなかいい声をしてますね。」
いろいろ思うところはあったが、とりあえずそんなことを言ってみた。
(そもそも動物が話しているけれど、私が知らないだけで普通なのでしょうか?
犬の声帯が人間の言葉が話せる構造になっているとは思いませんでした。
「美味」なんて話しことばで聴くのは初めてです。私も「こどものくせに話すことばが可愛くない」とか言われるけどこの子はそれ以上じゃないでしょうか。)
「ふむ、それはほめてくれているのか?数十年前もそう言ってくれた人の子がいたが、面映ゆいな。
それにしてもそなたもなかなか愛らしい声をしている。一人でこの森を散策したり、自分よりも大きな獣に近づいていまだに逃げるそぶりもなかったからな。その見かけにそぐわずなかなか豪胆なものだと思っていたが、声は可愛らしいのだな。それに賢そうな瞳をしている。」
件の犬は先ほど受け取った木の実を足でいじりつつ、大きな体を横たえ、まるで「伏せ」のような体勢で私を見上げる。
その大きな眼を細ませながら続けたのは、やはり時代がかったことばである。
声だけ聴いているとその低い声も相まってかなり年上の大人の男性と話しているような気になる。
犬の年齢はわからないけれど、この子はかなりの時を過ごしてきたのだろうか。
前足やしっぽまで持ち出して木の実らをもてあそぶ様子はまるで仔犬のようだが。
「そんなこと言っていただけるのは光栄です。けれど私はおそらくあなたが思ってくれるほど度胸があるわけでも賢いわけでもないでしょう。
今も家までの帰り道などわからないですから。」
(声が可愛いなんて初めて言われました。
それにさっきは魔の森とかいう単語が出たけど、本当でしょうか?
自宅の庭があの有名な森につながっているとは恥ずかしながら初耳です。
それにあのリスの子が目の前の犬と同じ子とは驚きです。
なるほど世の中には不思議な動物がいるものです。)
いつの間にか会話が続いているが、やはり思ったことの半分も口に出せてはいない。自宅にどうすれば帰れるか知らないが、帰ったその時にはもう少し見知らぬ人と話す練習が必要だろうか。
「いや、そんなことはない。この森は自らが認めないものは誰であろうと受け入れないからな。
王族だろうと高名な学者だろうと、たとえ話すことのできない幼子であろうと、気に障る言動をしたものは追い出したり、同じところを何度も回らせていつまでも変わらぬ景色に気がおかしくなるように放置したりしているのだ。
そなたは見たところ、だんだんと森の奥のほうまで進まされていたようだ。きっと森に気に入られたのだろう。」
それなりに遊んで満足したのか、つまんだ木の実を口にはさんでその犬は言葉を続ける。
自分が魔の森に気に入られるような行動をしたとは思えないが、この犬がいうのならそうなのかもしれない。
良いことなのかどうかはわからないが、やはり相手がどのような存在であれ、自分に興味を持って好意をよせてくれるのはありがたいことだろう。
ついつい心の中で森に感謝を述べていると、思わぬ言葉をもらってしまった。
その犬は、顔を心持ちあげて私の来た方向と私の顔を交互に見やると、何かためらっているようにも聞こえる声色で言った。
「ところで帰り道が分からないとのことだが、大丈夫か?そなたと初めに会った場所までなら案内してやれるが、おそらくすでに、そなたの家とつながった森の入口はとじられているはずだ。
魔の森は複数の入口があるが、それらは日が沈むか、月が沈むかしてしまうと、何も通さなくなるからな。
きっと次にそなたの家へ続く入り口が開くのは、明日の日が昇るころになろう。」
予想もしなかったことを聞かされて少しの間言葉が出てこない。
確かに私は今日一日外で時間をつぶすつもりだったが、さすがに夜になる前に家に戻るつもりだったからだ。
庭にあった、初めてみる木や草花(今ではそれらは魔の森に自生しているものだと分かったわけだが)に夢中になっていてかなりの時間が経ってしまったのだろう。
見上げた空は茜色を通り越して薄闇色になっている。
この犬の言葉が本当だという確証があるわけではないが、この森の生態の不思議さや人の言葉を話す動物の存在、それにこの犬の語る様子を見て、とりあえず今日のうちは我が家に帰れないということにすんなり納得してしまった。
ではどうやって夜を過ごせばよいだろうか。
夜の間だけであるから、少しぐらい飲み食いしなくても死にはしないだろう。それにまだ昼食の残りがたくさんある。
しかし真夜中の時間に森の奥深くで無防備に過ごすこともためらわれる。
目の前の犬が自分を傷つけることは想像できないが、他に危険な動物がいないとは限らないだろう。
私は何も身を守る手段はない。
それに、本来これほど大きな動物ならば、人間は怖くてこんなに近距離で向かい合うことさえ難しいだろうというのは自分でも想像できる。
日が昇るまで、ある程度姿を隠せる場所に潜んだほうがよいだろうか。
まあ、どこにそのような場所があるか見当もつかないが。
しかし、明日の朝には森の入口というところにたどり着かなくてはならない。
いくら私が一人で暮らしているとは言え、あまり長い間家を空けることは望ましくはないだろう。
それなら、夜の間に少しでも元来た道をたどっていたほうがよいのだろうか?
ああ、けれど私はすでにその道がわからないじゃないか。
考えるとあまりよい状況ではないことに気がついた。
普段は一人できちんと生活していると思っていたけれど、こんな時は何をすればよいか全くだ。
おそらく私の顔も不安そうな頼り無いものになっていたかもしれない。
私がいろいろ思いめぐらしているあいだ、黒犬はずっと私を見ていたようだ。
不意にそれまで伏せていた体を起こすと、私のほうまで近づいてきた。
私が接近に気付いて黒犬をみると、その犬は心持ち顔を傾けていってくれた。
「そんな顔をするでないよ。今夜は私とともに来ないか?
人の身には不十分かもしれないが、雨風をしのげる場所に案内しよう。帰りのことも大丈夫だ。そなたは明日私が入口まで乗せていこう。」