鶴の舞う川辺
長い、長い勤めが終わった後のその後の話。
サラサラと流れる川の音を聞きながらいつもと変わらぬ一日を過ごしている中、トントントンと扉が叩かれる。外は真っ暗で、そもそもここは人があまり寄り付かないような場所だった。だから家の中の女は誰が来たのかと不思議に思う。
「ちょいとばかし、この扉を開けてくれんかね。お前さんの落とし物を届けに来たんだ」
女は一人考える。はて、落とし物などしただろうかと。今日は一日家のことをしていて、畑に行ったりもしていない。何かを落とすなら家の周りしかなく、けれど落とすようなものを身に着けていた覚えもない。母からもらった御守りの鈴、毎日使っている櫛、色の褪せた着物。女の持ち物は少なく、数えてみても減っていない。
そこで女は思い至る。外の男は入れてもらいたくて嘘をついているのだと。女房と喧嘩でもして追い出され、どこかで道に迷って帰るに帰れないのかもしれない。そうならば同情はするが、女としては男を入れてやる理由もない。
「開けないよ。とっとと戻りな」
だからすげなく言葉を返した。
「まま、そう言わずにさ。お前さんは気づいてない大切な落とし物があるんだよ。開けてくれないかい? 渡したらすぐに帰るさ」
しつこいな、と女は内心、舌打ちをした。
「あたしには亭主がいるんだ。帰っておくんな!」
「おお、そうだそうだ。その亭主にも関わりのある大切な落とし物なんだよ。後生だから扉を開けてくれねぇか」
語気も強く返せば男は取ってつけたように亭主にも関係があると言う。どうにも胡散臭かった。ぐらぐらと煮立っている鉄瓶を投げつけてやろうかとも考える。
「落としていっただろう? 鶴が彫られた簪だ」
女は形の良い眉をピクリと上げる。その簪には、たしかに心当たりがあったからだ。昔、まだ遊女として働いていたころに、馴染みの客に貰ったものだった。鶴雅という源氏名にちなんで選んだと言っていた。だが、その簪は落としたわけではない。
「その簪は落とし物じゃないよ。廓を出る時に置いていったんだ。今になって届けてもらっても困るよ」
「はは、相変わらず手厳しいなあ。だがな、さっきも言ったが後生だ。受け取ってくれ」
「そんなことを言ってるお前は誰なんだい?」
声だけで老いさらばえているのだとわかる嗄れ声。廓に来るような客にこんな老いぼれはいない。なのに言葉は若いのがなにか奇妙だった。
「おいおい、馴染みの客を忘れたのか? 俺だよ。七之介だ」
「……七之介さん? 馬鹿言いなさんな。旦那さんはとっくに死んだだろ。あっちに帰りな」
「さすがに手厳しすぎるぞ……。そんなことを言われたら俺は泣いてしまう」
「女々しいねぇ! 勝手に泣いてな!」
「おお……、懐かしいなぁ……。このやりとりを何度したか……」
「……」
死人は帰れと切り捨てはしたが、こうも郷愁に浸るような反応をされると鶴雅としても、どう言い返したものかと困ってしまう。 外の男の言う通り、何度もしたやりとりなのは事実なのだ。こんなやり取りが、廓の苦しい生活の中で楽しくなかった等と言えば、それは嘘になる。鶴雅としては、ささやかで呑気なやり取りに救われてもいたのだ。気持ちの良い客も胸糞の悪い客もいたが、七之介は気持ちの良い客に分類される。
「それにな、俺は別に死んだわけじゃない。勝手に殺してくれるな」
「何言ってんだい。長いこと顔を見せない客なんて死んだのと同じだよ。あたしが廓を出るまでずっと来なかったじゃないか」
鶴雅が言えば、ぐぅ、と喉に何かを詰まらせたような声の後に沈んだ声で謝罪された。そんな返し方をされると毒気が抜けてしまうような心地がしてくる。
「俺だって逢いに行きたかったんだ……。だが、吉原の大火事でお前は……」
「逃げ出して行方知れず。だから会いにもこられなかったってわけかい」
「ああ、そうだ……。その程度で諦めるなんて情けないと、お前は言うかもしれないが……」
「全くその通りのことを思ってたよ」
「はは……」
扉の向こうで力なく笑う声は、たしかに馴染みの客と似た響きを持っていた。
「諦めたのに、なんで今更あたしのとこに来たんだい」
「やっと俺のお勤めが終わったからだよ。今日まで長かった。だが、鶴雅。お前に逢うために俺なりに努力してきたんだ」
「……ああ、そういや今日から彼岸だったねぇ」
「そうだよ。これから寒くなるだろう。簪と一緒に綿の入った掛物も持ってきたんだ」
「あんた、死んだのかい」
「そうだよ」
「女房もいないのかい」
「そうだとも」
「……馬鹿だねぇ」
「ああ、俺は大馬鹿者さ」
「焼け爛れた遊女なんて魅力もないだろうに」
「お前の魅力は外見にはないよ。俺は鶴のように美しくしなやかに舞う、その姿に惚れたんだ」
「あたしみたいな遊女に惚れるなんて本当に馬鹿だよ」
「そうかもしれないな……。……鶴雅、この扉を開けてくれるか」
「……」
「鶴雅」
「……仕方ないねぇ」
鶴雅は諦めたようにため息を吐いてガラガラと扉を開ける。その向こうには死に装束を着た、白髪で皺だらけの老人が腰を曲げて立っていた。やせ細り関節の目立つ手には鶴の簪と、綿の入った掛物ひとつ。そんな男の姿を見て、顔の左側が焼け爛れて少しばかり骨が見える顔を笑みの形に変えて鶴雅は言う。
「似合わない白装束なんて着ちまって。老けたね、七之介さん」
「お前は相変わらず美しいな、鶴雅」
「本気で言ってんのかい?」
「本気だとも」
「やっぱり馬鹿だねぇ。でも、火事に巻き込まれて死んだあたしには似合いの人かもしれないね」
「あれは不幸な事故だった」
「過去のことはいいよ。それよりそんな白装束脱いでこっちの着物を着ないかい?」
「おお、目の覚めるような紺の着物だな。俺にはちょいと若すぎる気もするが」
「何言ってんだい。あたしの亭主になる気だろ? だったら似合うよ」
「ははは、じゃあ着てみるか」
二人は笑いあいながら軋んだ音をたてて扉を閉めた。近くの大きな川は変わらず静かに、穏やかに流れていた。
終
死後に成就する恋というのも中々ロマンチックでいいですね。




