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断章第一話 鉄色の景色


鼻の奥に、土の匂いがした。


ドルクは、ゆっくりと目を開いた。


濡れた落ち葉。苔。岩の冷気。


上を見上げると、木漏れ日が、眩しく、瞼を焼いた。


……ここは、どこだ。


体を起こそうとして、だるさに気づいた。


寝ていた時間が長かったのか。

体の節々が重く、関節が固まっている。


違う。これは起き抜けの体の重さではない。


何かがあった。俺は、何かと戦った気がする。


体が、それを伝えている。上半身の打撲。右手首の腱の違和感。

肩と腰の、筋肉の張り。


傭兵時代に、何度も味わったこの感覚。


まさしく、戦った後の体だった。


だが、意識を失う直前の記憶が、ない。


ドルクは周囲を、ゆっくりと見渡した。


木漏れ日の岩場。滝壺と水飛沫の音。


ドルクの近くに、五人の男が、同じように転がっている。


全員、規則的な寝息を立てている。


赤毛のコル。弓使いのフェイ。

双子のアンディとランディ。投網のブラン。


そして、自分。


全員、生きているのか。


武器も、鎧も、財布も、身に着けたままだ。何も奪われていない。


誰も殺されていない。


――何が、あった。


ドルクは、森に入る前、いやもっと前、この仕事が一体どういう依頼だったのか。


そこから、記憶を手繰っていく。


三日前、グラザの町、南区画。俺の雇い主、ガドラからの依頼。


「『浄化』から逃げ延びてる魔族の娘を、生きたままここに連れてきなさい」


穏やかな声。机を叩く指輪の音。手元に広げられた、粗い紙の人相書き。


――――覚えている。ガドラに標的の人相書きを見せられた。


だが、人相書きに書かれた顔が全く思い出せない。

魔族の娘である。ということしか記憶にない。


ガドラは、人相書きを指輪のついた指で、こつ、と叩いた。


「北の山脈付近の『浄化』から逃れた、魔族の生き残りだ。

我々で捕獲した場合、身柄は好きにしていい、とのことだ。

―――――実に良い、話だ」


「報告によれば、騎士官の部隊が取り逃がしたとの事だ。

獲物は既に騎士団管轄から離れ、『我々』の案件になっている」


「中央回廊の北西部から、南東に逃げているらしい。獲物からこちらに向かってきている状況だ。一人で逃げ続けるのもそろそろ限界だろう。

君たちが向かいなさい」


「傷をつけるな。殺すな。だが、どうしても抵抗するなら、殺してもよい。

その場合の報酬は、生け捕りの半分だ。ドルク君。高値のつく上物だ。頼んだよ」


覚えている。だが、人相書きに書かれた魔族の娘の顔だけは未だ靄がかかっている。


三日前に追跡業者が北西の街道沿いで、娘の痕跡を見つけた。

そして一昨日から実行部隊の俺達が引き継いだ。


そして昨日の朝、六人で森に入った。


――そこから先、いくら記憶を辿っても、靄の中だ。晴れる気配がない。


だが全員、生きている。誰一人、死んでいない。殺されていない。


立ち上がって、手足を順に動かしてみる。


右手首に鈍い痛みが走る。切り傷のような痛み。そこには布が巻かれていた。


衣服の切れ端か。血は、既に止まっている。


自分で巻いた布ではない。コルたちの巻き方でもない。


慣れた手つきでもない。だが、悪意のある巻き方でもない。


――誰かが、俺に応急手当をした。


ドルクは、近くの岩に腰を下ろした。


俺達は「処理された」のか。


そう呼ぶしかない。仕事が失敗したのは明らかだった。


胃の底が、冷たくなる。


さて、ガドラになんと報告するか。


---


まずはコルを揺り起こした。


「あ?あぁ…ドルクさん……あれ、俺、何を……」


赤毛のコルが、寝ぼけた目でこちらを見た。数秒、焦点が合わない顔をした。それから、ゆっくりと目が合った。


「起きたか。コル、昨日、俺達は何をしていた」


「昨日……魔族の娘を、追って……森の縁まで行って……」


コルの言葉が、止まった。


「森に、入った、はずだ。入った気が、する。どこで入った?いつだ?」


「森の中のことは、覚えているか」


「覚えて、ない。思い出せないです。頭に霧がかかってるみたいで……」


コルが、顔を青ざめさせた。


「ドルクさん、これ俺達、何か変な魔法とかでやられたんじゃ……」


「その可能性は、ある」


「娘が、魔導士だった?」


「わからん。だが魔族だからな。何かしら魔法は使えるだろう」


ドルクは、静かに答えた。


「でもそんな魔法…あるんですかね…」


「俺もそんな魔法は聞いたことはない。魔法じゃないのかもしれん。

そして娘は、一人ではなかった可能性もある」


だが今それを考えても仕方ない。


俺達は失敗した。それが一番の問題だ。


「他の四人を起こせ。グラザへ帰るぞ」


「は、はい…」


ドルクは岩の上で曲刀の鞘に触れたまま動かなかった。


指先で柄革の擦り減った凹凸を確かめる。

十年近く、手入れしながら使ってきた唯一信用できる。俺の相棒だ。


この刃は、きっと見ただろう。一体、何を見たのか。


そして体も知っている。だが、頭だけは何も覚えていない。


---


グラザまでは半日と少し。全員、無言で歩いていた。


フェイは喋るのも辛そうだが、口を開いた。


「ドルクさん……頬、いてぇ…たぶん骨…殴られ……ぐぅう」


ブランも足を引きずっている。アンディとランディが交代で肩を貸している。


「俺は、足を何かに嚙まれてる。いてぇよ…」


「一体、何がどうなってやがるんだ…」


コルは頭を掻きむしりながら呟いた。


ドルクの右手首の布に、指先が触れた。


確かに俺達は、戦っていた。この傷だけが現実であったことの証明だ。

誰に、どこで、どうやって。それはわからない。


ただ、切られた、という事実だけが、右手首の違和感として残っている。


「この森でのことは、誰にも話すな。俺が、ガドラに報告する」


「……了解です」


六人は、それ以上、喋らなかった。

傭兵上がりの男達は、黙ることの大事さを、知っている。


---


グラザの南門が見えた。

町に到着したのは、二つの太陽が西へ下り始める頃だった。


入町税、一人銅貨二枚。

ドルクはさらに、小銅貨を一枚、さりげなく余分に滑り込ませる。


門の衛兵は、何も聞かず、黙って通した。


ガドラの息がかかった衛兵だ。三人のうち二人が、そうだった。


この町には、こういう南側の者たちの目と耳が、そこかしこに潜んでいる。


グラザの町は、北、中央、南で雰囲気が違う。住んでいる者たちも違う。

誰かが意図的にそう区画したわけではない。

なるべくして、そうなった。


北は、商人や旅人、住宅が多い地区。中央は、ギルドと商業地区、町の役所機関。

そして南はアルセイド王国の色が年々濃くなっていく。


南側は、ドルク達のような。

――――何者にもなれない者たちが溢れる地区だった。


北側が陽光の地区だとすれば、南は影の地区だ。


レンガの色が、北より一段、くすんでいる。

道は狭く、曲がりくねり、路地が迷路のように分岐している。


張り出した二階の庇が、通りの上で重なり合って、空が細切れに見える。


人通りは、北と変わらないほど多い。


だが南では、誰も、互いの心を見ようとしない。未来も過去も見ない。

そこには誰も、関わらない。


男たちは、金と刺激を求めて彷徨い歩く。

女たちは、男の腕に指を絡めて、値段交渉の声を小さく漏らす。


子供たちは、ちょろちょろと大人の間を駆け抜けていく。

その手に、掏り取ったものを握って笑い合っている。


ここは、そういう場所だ。


血と、鉄と、安酒の匂い。


それが南側の空気の匂いだった。


「ドルクさん、飯行きませんか」


コルが後ろから声をかけた。


「俺はいらん。行くならお前達だけで行け。俺はガドラに報告に行く」


「怪我をしてるやつはパメラに診て貰ってこい。元気なやつはそのまま休んどけ。

行くのは俺一人でいい」


コルが、言葉を飲んだ。


「……わかりました。すいません」


ドルクは五人と別れて南区画の中心へ向かった。


---


ガドラの店は、南側の中央通りから一本奥に入った路地にあった。


看板は小さい。


『ガドラ商会』


木の板に、素朴な彫り文字。それだけだ。


だがこの路地に出入りする者たちは、

この看板の奥に何があるかを、知っている。


グラザ南区画の博打場の四割。娼館の二割。

安宿のほぼ半分。荷運び仕事の七割。そして「裏の商売」。


それらをガドラ商会が掌握している。


そして――あくまで噂だが。

北の商会、中央区画の役人、衛兵隊の副長、グラザ町長補佐官。

彼らもガドラに掌握された人々だという。


だが、南側の人間達は皆、その噂を事実として扱っていた。


その店の扉の前には、革鎧の用心棒が二人立っていた。


一人は元アルセイド南部軍の下士官崩れ。もう一人は元傭兵。


ドルクの顔を見て、二人は黙って中へ通す。


表向きの店舗は、毛皮と薬草、日用品等で埋まっている。

買い物客が店内には二組いた。


ドルクは帳場を素通りし、奥の革のカーテンで仕切られた通路に向かった。


通路の先、鉄の金具で補強された重い木の扉。


扉の横の用心棒は、ドルクより明らかに格上の目をしていた。


「ドルクか。お疲れさん」


「ああ」


そして用心棒が、扉を開けた。


---


ガドラ商店の応接室は、広くはない。だが、狭くもない。


壁は厚いレンガで、外の音が一切届かない。床には、厚い絨毯。

南から運ばれた、手織りの品。


格子窓から、午後の光が斜めに差し込んでいた。


革張りの大きな椅子。低い木の机。


机の上には、赤い液体の入ったグラス。銀の水差し。羊皮紙の束。


ガドラ商会会頭ガドラが、奥の椅子に座っていた。


五十代半ば。肥満体。脂の乗った頰に、少し垂れた瞼。

細く整えた口髭。両手の指には、金と銀の指輪が、合わせて七つ。


見た目は、人の良さそうな、村の寄り合いで世話役をしているような、

そんな商人だった。


だが瞼の奥の目だけは、冷たい。


生命の値段を、量ってきた目だった。


「おや、ドルク君。お帰り」


穏やかな声で、ガドラが言った。


「首尾は、どうかね」


ドルクは、部屋の中央で立ち止まり、頭を下げた。


「失敗しました」


「ほう」


ガドラの顔から、表情が、すっと引いた。


穏やかだった空気が、一瞬で別の色に変わった。


怒声ではない。表情の変化でもない。

ただ、ガドラの瞼の奥の目が、商人の目から、別の目に切り替わる。


それだけで、部屋の空気が変わる。


「ドルク君。全て、聞かせてもらおうか」


ドルクは状況を平坦に報告した。


森の縁まで追い詰めたこと。朝、森に入ったこと。

そこから先の記憶が、一切ないこと。

六人全員が気を失い、滝の前で目覚めたこと。

誰も死なず、何も奪われず、怪我人には手当てまでされていたこと。

おそらく娘の他に誰かいたということ。


ガドラは黙って聞いていた。


聞き終えてもしばらく黙っていた。


革張りの椅子の肘掛けを指輪のついた指で、こつ、こつ、こつ、と三度、叩いた。


「全員、記憶がない」


ガドラが、繰り返した。


「はい」


ドルクは目を反らさず答える。


「面白いね」


面白い、と言いながらもガドラの顔は一切、笑っていなかった。


「君たちを一人も殺さず、我々の仕事だけを、完璧に潰した。

そして記憶も奪った。そんな芸当ができる者は、そう多くない」


ガドラは、机の上のグラスを持ち上げ、ひと口だけ舐めるように飲んだ。


「はい」


「君たちは記憶を奪われただけじゃない可能性もある。

―――ドルク君、その可能性は考えたかね?」


ガドラが、グラスを机に戻した。


かちり、と小さな音が、部屋に響いた。


ドルクは背筋に冷たい汗を感じる。


記憶を奪われて生きて帰された。その理由。

仮に、俺達に探知、もしくは追跡魔法もかけられていたとしたら…


「ここにすぐに報告に来たのは軽率だったかもしれません」


「そうだね、ドルク君」


「記憶を奪うような非常識で想定外な魔法の被害にあったと自覚しているならば、

もっと想定外なことが起きている可能性も同時に考えなさい」


「申し訳ありません」


ガドラは、しばらく、黙った。


そして目だけが、動いていた。

ドルクの後ろの壁、天井の隅、机の上の羊皮紙、そしてまたドルクの顔。


何かを、頭の中で並べ替えている目だった。


その間もドルクは、動かずにじっと立っていた。


やがて、ガドラが口を開いた。


「君の腕を買ってこの仕事を任せた。だが失敗した。

『この案件』を失敗することは、私にとっては商品をひとつ失う以上の損失になる。わかるかね」


「……はい」


「なら、良い」


ガドラの声が、少しだけ、柔らかくなった。


「君は言い訳をしなかった。そして反省点もすぐに理解した。

それは評価しよう。君は失敗はしたが報告の仕方としては正しかった」


「だが…」


「君たちへの報酬は、なし。これはわかるね」


「当然です」


「君はしばらく、南側には出てきてはいけない。これもさっき理解したね」


ガドラが、グラスから指先を離した。


「私が調べさせよう。あの森の中に娘と他に、誰かいたのか。いたならその目的も」


「私の商売の邪魔をする者はこの町には今は、いないはずだ。

少なくとも、ここ十年は、いなかった」


ガドラの声に、一瞬、冷たい鉄のような響きが混じった。


「今回の件がその例外になるのなら私は知っておく必要がある。

それがわかるまで君は南側から離れていなさい」


「わかりました」


「君は冒険者ギルドでも登録はしているね」


「はい。たまにですが顔を出しています」


「しばらくは北に顔を出しておきなさい。

君の方でも何かわかればヴォスを通して報告しなさい」


「……わかりました」


「うむ。頭を上げなさい、ドルク君。

失敗は誰にでもある。一度したからといって君をどうこうはしない」


ガドラの声が、完全に穏やかに戻った。


だがドルクは、その穏やかさの下にあるものを知っていた。


二度目はないぞ、という声だった。


「ありがとうございます」


「うむ。行っていい」


ドルクは、もう一度深く頭を下げて、部屋を出た。


店を出て路地に出た。


ドルクは息を、吐いた。


今日も生きて出られたか。

この部屋を出るたびに、そう思っている。


---


ドルクは南区画を足早に歩いた。


歩きながら、ガドラの元に来た時のことを思い出していた。


所属していた傭兵団の壊滅から数ヶ月後。

ドルクは中央回廊を彷徨っていた。


金も、仕事もなかった。何より、何かをやる気が、そもそも湧かなかった。


団長が死んだ。毎日、飯を一緒に食った仲間達も、ほとんど死んだ。

生き延びた仲間達も、あの夜を境に皆、別々の方向に散った。


あれから仲間達の姿は、まだ一度も見ていない。

無事に逃げ延びたのかどうかもわからない。


ドルクは南に向かって歩いていた。たいした理由も目的もなかった。

北に行っても何もないだろう。だから南へ歩く。それだけだ。


金目のものは一切なかった。木の実を齧り、動物を狩り、川の水を飲み、

集落を見かけたら納屋で食料を盗んだ。


何を食べても、鉄の味しかしなかった。


そしてドルクは、グラザにたどり着いていた。

グラザの南区画に吸い込まれるように。場末の酒場の隅にドルクは座った。


金のない客は放置されるのが南の流儀だった。

ドルクは酒は飲まない。ただ扉近くの暗い席に座って客達を見ていた。


誰を見ても同じだった。何者でもない者たち。自分と変わらない。


夜、奥の席に座っていた男が、立ち上がってドルクの向かいに、黙って座った。


革鎧。鉄の肩当て。腰に両刃の剣。顔に、古い傷が三本。年は四十前か。

強いのだろう。それはわかる。血と修羅場が日常のような目をしている。


「お前、目が死んでるな」


男は低い声で、言った。


ドルクは何も答えなかった。


「だが、それがいい。ここではその目をしている人間は、使える。

体はちゃんと生きてる。むしろ体の方が、生きたがっているぞ」


この男も同じなのだろう。だからわかる。


「お前は傭兵だな」


「……元、だ」


声を出したのは久しぶりのような気がした。

声は少し掠れていた。


「団はどうなった」


「無くなった」


「団長はどうだった」


「逃げなかった」


男はうなずいた。わかった、という顔をした。


「よくある話だ」


わかったからこそ、言う。本当に、よくある話だ。


男は、懐から銀貨を二枚、机に置いた。


「俺の名前は、ヴォス。この町のある男に使われている。

その男は、お前に会いたがるだろう」


「……なぜわかる」


「俺の目に留まったからだ」


ヴォスは、硬貨をドルクの方に指で押して言う。


「飯を食って、寝ろ。それから明日の朝、またこの店に来い。

会うだけでいい。嫌ならそのまま帰ればいい。

――――その時はこの銀貨二枚は、ただの手切れ金だ」


ヴォスはそれだけ言って、店を出ていった。


翌朝、ドルクはあの酒場に戻った。


そしてヴォスに連れられて小さな看板が掛かったあの店に着いた。


店の奥の小さな応接室で、初めてガドラに会った。


当時のガドラは、今よりは少し痩せていた。

だが、目は、今と全く変わらない。


「君は、仕事はあるかい」


「ない」


「この町に住む場所はあるかい」


「ない」


「なるほど。では、君に提案をしよう」


ガドラは穏やかに、淡々と言った。


「住処、飯、仕事、金。私が全部、用意しよう。

君はその代わりに、私の言った仕事を言われた通りにやる。それだけの関係だ」


「……どんな仕事だ」


「いろいろだな。何かを運ぶ、何かを守る。何かを探すこともある。

そして時には人を殴る。たまに殺すこともある」


ガドラの声に変化はない。穏やかに淡々と続ける。


「私は損が嫌いだ。無駄も嫌いだ。殴れ、殺せと言う場合にもちゃんと理由はある。

それだけは覚えておきなさい」


ドルクはしばらく黙って、目の前の男を見ていた。


嘘はついていないんだろう。それはわかった。


だがそれは、あくまで自分に対してだ。相手がどう捉えるかは気にしていない。

そういう男なのだろう。


ガドラは、正義も、感謝も、理由も、求めていなかった。

ドルクにただ、腕と、従順さのみ、求めた。


実にわかりやすかった。


ただ彷徨い、ただ歩き続けた。

歩きながら、いろいろ考えてはみたが、結局自分には何もわからなかった。


だからドルクはわかりやすい何かを、求めていた。


「……わかった」


「ありがとう、ドルク君」


ガドラが商人の笑顔で言った。瞼の奥の目は最初から最後まで、冷たいままだ。


それから、三年は経った。


ドルクはさまざまな仕事をこなした。

ガドラが最初に言った通りだ。


何かを運び、何かを守った。そして何かを探すこともあった。

時には人を殴った。そしてたまに…殺した。


その何かに興味は無かった。ただ仕事をしただけだ。

そして飯を食い、寝る。


それが、ドルクの日々だった。


---


ドルクの住処は南区画の西側、安宿の四階の端にあった。


廊下の壁紙は湿気で剥がれかけている。

どこかの部屋からは子供の泣き声。別の部屋からは男女の言い争う声。


何も変わらない日常だ。


四階突き当たりの部屋。六畳ほどの広さ。鎧戸で閉じられた窓が一つ。

寝台、机、椅子。それ以外は何もない。


壁際には曲刀の手入れ道具。鞘の油、砥石、布、柄革を巻き直す革紐。

曲刀はこの部屋で、一番大事にされている存在だった。


酒は、ない。一本もない。


傭兵が酒で死ぬのを、何度も見てきた。

酒は、死を早める。判断を鈍らせる。


ドルクは、革鎧を脱ぎ、曲刀を壁に立てかけ、椅子に腰を下ろした。


右手首の布を、ゆっくりと解いた。傷はほぼ塞がっている。

腱の違和感はあるが、曲刀を握る分には支障なさそうだ。


見知らぬ手が巻いた、布。


「……覚えていないことを、考え続けても、仕方ない」


低く、呟いた。


記憶を奪われた以上、次に会ったとしても、自分は気づけない。


ドルクは共同の水場で顔を洗った。


鏡に自分の顔が映った。


鉄色の目。深い灰色にわずかに濁った鋼の色。


昔、団長が言った。


――お前は目も鉄の色をしている。

俺の故郷では『ドルク』は古い鉄。そういう意味がある。

その目は打たれて、叩かれて、それでも折れない鉄の色だ。


その日から、自分の名前に、人生に、意味を持たすことができた。


それ以前の自分の名前に、人生に、意味を感じることはできなかった。


教会の前に捨てられていた。だが拾われた。

その時にドルクと言う名前は貰ったが、それだけだった。

ただ生きていた。


今もそれ自体は変わらないが、生き続ける理由は、ある。


それは俺がドルク。『古い鉄』だからだ。


自分にできることは打たれて、叩かれても、折れない。


生き続ける。


それが、ドルクという人間の生き方だった。


ドルクは宿を出て、南側の通りで雑穀スープと硬パンを買った。


道端の石に腰を下ろして食べた。


向かいの博打場から若い男が転がり出てきた。

殴られたのか口から血を流している。だが誰も助けはしない。

男はよろよろと立ち上がって、路地の奥へ消えていく。


その光景は、野良犬が彷徨っている姿と何も変わらない。

カラスがゴミを漁る姿と変わらない。


ドルクはただ、スープを飲んで食事を済ます。


---


ドルクは食事を終えて部屋に戻った。


油ランプを灯し、曲刀の手入れを、始める。


仕事終わりのいつもの過ごし方。


鞘から抜き、刃の状態を、指で確かめる。小さな刃こぼれが、三箇所。

昨日の「何か」と戦った時のものか。


砥石を取り出し、布を敷く。曲刀を置き、ゆっくり、研ぎ始めた。


この作業の間は曲刀のことだけを考える。それ以外は何も考えなくていい。

刃の角度。砥石との摩擦音。指先に伝わる振動。それだけに集中する。


団長は言っていた。


――曲刀を、研げ。研いでいる間は、迷わない。迷わない時間を作れ。


その言葉通りに、ドルクは今日も研いでいる。


三つの刃こぼれがゆっくりと消えていく。

刃が、元の滑らかな曲線を取り戻していく。


指先で刃の縁を撫でる。

冷たい鉄の感触。自分の目の色と同じ色。


この曲刀だけは信用できる。研げば、握れば、応えてくれる。


刃を布で拭き、鞘に静かに収めた。


かしゃり、と、乾いた金属の音がした。


---


そして夜。鎧戸を閉めたまま油ランプを消した。


部屋は真っ暗になる。


寝台の上に横になった。硬い寝台。薄い毛布。

これが一番落ち着く。


目を、閉じた。


そして――夢に入った。


---


そこは知らない場所だった。木々の間。苔と、湿った土の匂い。


森の中。


向かいにあいつが、立っていた。


顔は見えない。輪郭だけがある。背丈は自分と同じくらい。


夢の中の自分の手が鞘から刃を、滑らかに抜く。


一撃目、横薙ぎ。相手が跳ねて避けた。


二撃目、振り上げ。頬を掠めた。


三撃目、四撃目。低い重心を維持したまま、体軸の回転で斬る。

団長仕込みの研ぎ澄まされた斬撃。


あいつは死ななかった。


だが木に追い詰めた。決まったと思った。


その瞬間――四つの魔法が同時に来た。


土が盛り上がり、氷が顔の前に放たれ、風が右手首を撫で、炎が足元に弾けた。


処理できない。


右手首の腱が切れた。


曲刀が、落ちた。


あいつが踏み込んで肩からぶつかってきた。


激しく倒された。そして馬乗りになってくる。


右手には、黒紫の炎。


俺を殺せる距離。


こちらも左手でブーツのナイフを抜いていた。脇腹に押し当てる。


あいつを殺せる距離。


目が、合った。


顔は見えない。輪郭しかない。


だが、その目だけは、夢の中で、はっきり見えた。


紅と、琥珀の、オッドアイ。


左が、紅。右が、琥珀。


あいつが口を開いた。声は聞こえない。


だが、唇が動いているのは見える。


ドルクは夢の中でその唇を、読もうとした。


だがわからない。


ただ、紅と琥珀のオッドアイだけが、じっとドルクを見ている。


---


そこでドルクは目が、覚めた。


汗をかいていた。呼吸が荒かった。筋肉が張っていた。


体は、また戦った後の状態だった。


――嫌な感じは、ない。むしろ、穏やかだった。


「…………夢、か」


低く、呟いた。


何の夢、だったのか?


それはわからない。だが確かに誰かと戦っていた。


また体が、そう告げている。


夢の中で戦った相手は誰なのか。また思い出せない。


ただ、体が知っている。曲刀は見ていた。


間合い。踏み込み方。魔法の撃ち方。


右手首の傷の跡に、触れた。


ドルクは立ち上がった。


そして鎧戸を開けた。


南側の朝の濁った光が、部屋に差し込んだ。


朝霧に包まれた路地。屋台の準備を始める男の足音。どこかで、鶏が鳴いている。


ごく普通の、南側の朝だった。


ギルドに、行くか。


曲刀を鞘ごと、腰に差した。冷たい鉄の重さが、腰骨に馴染んだ。


---


ドルクは、ギルドへ向かう。


ガドラの依頼がない時はギルドへも顔を出していた。


何人かは顔も知っている。


これもガドラの仕事の一つといえばそうかもしれない。


ギルドの扉を開けて、中へ入る。


受付の奥に、禿げ頭の男が立っていた。ゲルツだな。


このギルドの番頭のような役割だ。


冒険者達がテーブルで飯を食い、依頼書を広げ笑い声を上げていた。


南区画の酒場とは、空気が違った。


血と鉄と安酒の匂いではなく、

汗と、革と、焼きたてのパンの匂いがした。


ドルクは、その匂いにほんの一瞬だけ、立ち止まった。


そして受付に向かって、歩き始めた。


腰の曲刀が歩くたびに、かすかに鳴った。


いつもと変わらない冷たい、鉄の音だった。


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