第9話「冷酷公爵の正体」
オスカーが枢密院の大扉を押し開けた。
蝋燭の灯りが高い天井から降り注ぎ、半円形の議場を琥珀色に染めている。重い空気だった。古い石壁と革張りの椅子と、何百年も積み重ねられた政治の残り香。議員たちの衣擦れが微かに響く中、オスカーの靴音が石の床を打った。
王太子の申し立てを受けて、オスカーとリリアンは三日をかけて王都に入っていた。証拠の書類一式を携え、エレナを伴って。
議場の中央に歩み出る。その背を、左右の階段席から何十もの目が追っていた。
上座に国王が座している。その右手に、王太子レオンハルトがいた。金髪を整え、正装に身を包み、自信に満ちた姿勢で椅子に腰掛けている。だがその自信がどこまで本物か、今日この場で明らかになる。
リリアンは議場にいない。枢密院に入れるのは議員と王族と、召喚された当事者だけだ。今頃は王都の宿で待っているはずだった。
レオンハルトが口を開いた。
「ヴェルディア公爵家の契約婚に、違反がある。恋愛禁止条項への抵触の疑い、および公爵夫人の意に反する拘束の嫌疑。枢密院による査察を求める」
声は堂々としていた。慇懃な口調。議場に向かって語りかけるような仕草。周囲の議員たちがざわめく。
オスカーは黙って立っていた。腕を組まず、拳も握らず。ただ正面を見据えて、王太子の言葉が終わるのを待った。
レオンハルトが言い終えたとき、議場が静まった。全員の視線がオスカーに向く。
「殿下」
オスカーの声は低く、平坦だった。感情を殺した声——ではなかった。感情を載せる必要がないほど、準備が整っている人間の声だった。
「契約婚の違反を問うのであれば、まずその契約の根拠を確認すべきだ」
机の上に、書類の束を置いた。音が議場に響く。
「この婚姻は、殿下の断罪に付随する国王陛下の裁定により命じられたもの。しかし、断罪そのものが国王陛下の承認を経ずに行われた事実がある。議事録を確認されたい。承認の記録は存在しない」
レオンハルトの表情が初めて動いた。眉が寄り、口元が引き締まる。
オスカーは二つ目の書類を出した。
「加えて、国庫からの支出記録。王太子殿下の名義で、過去二年間に正規の手続きを経ない支出が複数確認されている。財務担当のヴァイス卿に照会済みだ」
議場がざわめいた。ヴァイス卿が階段席で小さく頷くのが見えた。議員たちの視線がレオンハルトと書類の間を行き来する。
レオンハルトが椅子から身を乗り出した。顔色が変わっている。
「それは——公爵、何を根拠に」
「もう一つ」
オスカーは遮った。静かに、しかし隙を与えない速さで。
「殿下がミルフィ嬢に命じた工作について。公爵夫妻の不仲を演出し、契約違反を理由に離縁させる計画。本人の証言を求める」
議場の空気が一変した。囁きが波のように広がる。レオンハルトが立ち上がった。椅子が軋む音がした。
「ミルフィ嬢は嘘をついている! あの女は——」
「嘘ではありません」
別の声が、議場の入口から響いた。
エレナ・ミルフィが歩み入ってきた。顔色は白かったが、背筋は伸びていた。両手を体の前で組み、視線をまっすぐ前に向けている。あの震えていた手は、今日は静かだった。
「わたしは殿下に命じられ、公爵様と奥様の関係を探るよう指示されました。夫妻の不仲を作り出し、契約違反の口実を作るためです」
エレナの声は細かったが、議場の隅まで届いた。天井の高い石の部屋は、小さな声もよく通る。
レオンハルトの顔が歪んだ。
「黙れ、エレナ。お前は私が——」
「殿下」
国王の声だった。低く、重い。それだけで議場が静まり返った。レオンハルトの口が閉じる。
国王が上座から見下ろしていた。その目に、息子への失望が滲んでいるように見えた。
「反論があるなら述べよ。だが、証人を黙らせることは許さぬ」
レオンハルトは立ったまま動けなかった。議場を見回す。助けを求めるように——だが、側近たちの席が空いていた。ひとり、またひとりと視線を逸らしていく。支えてくれる者がいない。
列席の中に、ブランシェ伯爵の姿があった。壁際の末席に、顔を伏せて座っている。断罪の夜会で王太子に同調し、娘を見捨てた男。今この場で、その事実が衆目の前に晒されていた。弁明の機会があったのだろう。伯爵が何か口にしたが、周囲の議員たちの視線は冷ややかだった。保身のために実の娘を切り捨てた父親——その評価が、石の議場に沈殿していく。
国王が裁定を下した。
王太子レオンハルトの継承順位を降格し、無期限の謹慎を命じる。罪状は三つ。婚約破棄の独断、国庫の不正使用、臣下への不当な工作。
「待て」
レオンハルトの声が裂けた。椅子を掴み、身を乗り出す。
「私は次の国王だ! こんなことが——」
誰も応えなかった。議場の沈黙がレオンハルトを包み、その叫びを吸い込んだ。国王が目を閉じ、小さく首を振った。護衛が歩み出て、王太子の腕に手をかけた。
レオンハルトが議場から連れ出されていく足音が、石の壁に反響して消えた。
枢密院の回廊は、午後の光で白く輝いていた。
オスカーが大扉をくぐって出てきた。書類の束を脇に抱え、靴音を鳴らして歩く。長い回廊を進み、正面玄関の階段を降りる。
階段の下に、リリアンが立っていた。
宿から来たのだろう。枢密院の石壁に背を預け、こちらを見上げている。午後の日差しが髪を透かし、目元に小さな影を落としていた。
「お疲れ様でした、公爵様」
リリアンの声が、回廊の石壁に吸い込まれた。いつもの軽い口調。だがその目は笑っていなかった。笑おうとして、笑えずに、そのまま素の顔でこちらを見ている。
「……ああ」
オスカーはそれだけ返した。階段を降り、リリアンの隣に立った。いつもなら一歩分の距離を空ける。今日はその距離が、半歩分だけ狭かった。
二人とも動かなかった。枢密院の建物を背に、石段の上に並んで立っている。風が吹いて、リリアンの髪が揺れた。
帰りの馬車の中。
石畳の振動が座席越しに伝わる。窓の外を王都の街並みが流れていく。公爵領への帰路は長い。オスカーは向かいの席で、いつものように窓の外を見ていた。
「リリアン」
名前を呼ばれることには、もう驚かない。けれど心臓は正直だった。
「話がある」
オスカーが窓から視線を戻した。こちらを見ている。口を開きかけた。
馬車が止まった。
王都を出る前に立ち寄った宿の前だった。荷を積み替えるために一度停まる手筈になっていたのだろう。御者が扉を開ける音がして、外の空気が車内に流れ込む。オスカーの言葉は途切れた。
宿の前に、見覚えのない紋章の馬車が停まっていた。白地に金の獅子。王家の紋章だった。
ハンスが宿の入口から駆け寄ってきた。足音が速い。
「旦那様、奥様——国王陛下より勅使が参っております」
リリアンの手が、馬車の縁を握り締めた。




