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悪役令嬢の夫、煽り耐性が低すぎる件  作者: 月雅


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第8話「煽れない夜」

雨の音が、屋敷を包んでいた。


公爵邸の暖炉で火が揺れている。窓の外は灰色に煙り、庭の木々が風に叩かれてしなっていた。この季節にしては冷える夜だった。


リリアンは暖炉の前の長椅子に座り、膝の上に広げた便箋に目を落としていた。王都の貴族夫人たちへ宛てた茶会の招待状。文面は丁寧で、当たり障りがない。けれどその裏に仕込んだ意図は、丁寧とは程遠かった。


社交界の空気に、方向をつける。噂を「作る」のではない。すでに存在する不満に、出口を与える。


王太子レオンハルトの断罪が、国王の正式な承認を経ていなかったこと。あの夜会で独断的に婚約を破棄したこと。それは事実だ。事実は噂よりも強い。ただし事実だけでは広まらない。事実を「話題にしやすい空気」を作るのが、リリアンの仕事だった。


茶会の場で、さりげなく話を振る。「断罪の手続きってどうだったのかしら」「国王陛下はご承認されていたの?」。自分が言うのではなく、誰かに言わせる。疑問の種を蒔いて、あとは社交界の風に任せる。前世で学んだ技術だった。世論は操作するものではない。水路を引いて、流れる方向を整えるものだ。


同じ日の午後、オスカーは書斎にこもっていた。


リリアンがノックして入ると、机の上に書類が積まれていた。ヴァイス卿経由で入手した国庫の支出記録。王太子の散財の跡が数字の列に刻まれている。それに加えて、断罪の手続きに関する枢密院の議事録の写し。承認の記録がないことを示す空白。


「枢密院の有力者に、非公式で接触した」


オスカーは書類から目を上げずに言った。ペンを置き、指先でこめかみを押さえる。根回しの疲労がその仕草に滲んでいた。


「ヴァイス卿が動いてくれる。散財の記録と手続き違反の証拠を揃えれば、"継承者としての資質"に疑義を呈する議題を枢密院に上げられる」


「社交界の方も、少しずつ風が変わってきています」


リリアンは机の端に手をついた。オスカーがちらりとその手を見て、すぐに書類に視線を戻す。


「あとは、エレナさんの証言。これが揃えば三つの柱になります」


オスカーが頷いた。短く、一度だけ。


夜が深まっていた。


雨は止まず、屋敷の窓を叩き続けている。リリアンは暖炉の前の長椅子に戻り、残りの招待状を書き終えた。インクの匂いが指先に染みついている。


ペンを置いたとき、書斎の方から足音が聞こえた。重い足音。廊下を渡って、こちらに近づいてくる。


オスカーが居間の入口に現れた。上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げている。いつもの執務の姿だったが、髪が少し乱れていた。長時間、書類と格闘していたのだろう。


「まだ起きていたのか」


「お互い様でしょう」


オスカーは暖炉の反対側の椅子に腰を下ろした。二人の間に暖炉の火がある。炎が揺れるたびに、影が壁の上で伸び縮みした。


沈黙が流れた。雨音と、薪の爆ぜる音だけが部屋を満たしている。


リリアンは膝の上の便箋を片付けながら、口を開いた。


「公爵様」


「何だ」


「私はあなたの罰妻ですよ? 本当にここまでする必要がありますか」


オスカーの手が、椅子の肘掛けの上で止まった。


リリアンは暖炉の火を見ていた。オスカーの方を見る勇気がなかった。聞かなければよかった、と口にした瞬間に思った。けれど聞かずにはいられなかった。この人がここまで動く理由が、契約の義務なのか、公爵家の体面なのか、それとも——。


「……罰なら一生受ける」


息が止まった。


暖炉の火が大きく揺れた。薪が崩れる音がした。リリアンの視界の端が歪んだ。呼吸を忘れている。指先が冷たくなり、代わりに胸の奥が灼けるように熱い。


顔を上げた。オスカーは暖炉の火を見ていた。こちらを見ていない。横顔に炎の光が当たって、頬の線が浮かび上がっている。表情は読めない。けれど、声に嘘はなかった。言い慣れない言葉を、不器用に、一度だけ口にした——そういう声だった。


「ずるい」


リリアンの口から、声が漏れた。


煽りではなかった。皮肉でもなかった。仮面を通さない、素の声。自分でも驚くほど小さくて、かすれていた。


「そういうこと言われたら——信じたくなるじゃないですか」


オスカーが初めてこちらを向いた。暖炉の火を背に、目がこちらを捉えている。


「信じろ」


短かった。飾りがなかった。それだけだった。


リリアンの目の奥が熱くなった。瞬きをすると、睫毛の先が濡れた。涙をこらえようとしたが、一粒だけ頬を伝った。慌てて袖で拭う。笑おうとした。いつものように笑い飛ばそうとした。


できなかった。


唇が震えて、笑顔の形を作れない。仮面が、嵌まらない。


オスカーは何も言わなかった。立ち上がりもしなかった。ただ暖炉の反対側の椅子に座ったまま、リリアンが泣くのを見ていた。近づかず、離れず。この人はいつもそうだ。距離の取り方が不器用で、けれどその不器用さが、今はちょうどよかった。


雨の音が、少しだけ穏やかになった気がした。


翌朝、リリアンが朝食の間に降りると、オスカーがすでに席についていた。いつもどおりの無表情。いつもどおりの沈黙。昨夜のことは何もなかったかのように、パンを千切っている。


けれど、テーブルの上の焼き林檎の隣に、また小さな花が一輪あった。


リリアンは何も言わず、椅子に座った。焼き林檎を口に運ぶ。甘さが舌に広がる。目は、もう赤くなかった。


そのとき、廊下をハンスの足音が近づいてきた。いつもより速く、いつもより硬い足音。


「旦那様、奥様。緊急のご報告でございます」


ハンスの声が、朝食の間の空気を切り裂いた。


「王太子殿下が、枢密院に公爵家への査察を申し立てたとのことです。名目は——"契約婚の条件違反の調査"」


リリアンのスプーンが、皿の縁に当たって小さな音を立てた。

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