第7話「罰妻の覚悟」
「殿下が、お二人を引き離すように、と」
エレナの声が、朝食の間に落ちた。
テーブルの上には手つかずの焼き林檎が湯気を立てている。エレナは椅子の端に浅く腰掛け、膝の上で両手を握り締めていた。顔色が白い。目の下に隈があり、唇の色が薄い。前回訪ねてきた時とは別人のようだった。
「公爵夫妻の不仲を演出して、契約違反を理由に離縁させる——それが、殿下のお考えです」
リリアンは焼き林檎のスプーンを置いた。音を立てないように。
「あの噂も?」
「はい。殿下の側近の方が、社交界に流すよう手配されました。わたしには、公爵様に近づいて不満を聞き出すよう命じられて……」
エレナの声が途切れた。肩が震えている。目の縁が赤く、涙がこぼれ落ちた。頬を伝い、顎の先から膝の上の手に落ちる。拭おうとしない。拭う余裕がないのだろう。
「これ以上、嘘をつけません」
リリアンは椅子から立ち上がった。テーブルを回り、エレナの隣に立った。ハンカチを差し出す。エレナが顔を上げた。泣き腫らした目が、怯えと覚悟の間で揺れている。
「エレナさん」
呼び方が変わったことに、エレナが息を呑んだ。
「あなたは勇気がある」
エレナの唇が震えた。何か言おうとして、声にならなかった。ハンカチを受け取る手が、小さな子供のように頼りなかった。
書斎にオスカーを呼んだ。
ハンスがエレナを客間に案内している間に、リリアンは書斎でオスカーと向き合った。暖炉の火は落としてあり、窓から差し込む朝の光だけが室内を照らしている。空気がひんやりと澄んでいた。
リリアンがエレナの密告の内容を伝え終えると、オスカーは机の上で指を組んだまま、しばらく動かなかった。
沈黙が長い。暖炉の灰が崩れる音がした。
「殿下が、俺の妻に手を出すと?」
声が低かった。低く、静かで、だからこそ底に沈んだ怒りの重さが伝わった。指を組んだ手の関節が白くなっている。
リリアンは一拍置いて、口を開いた。
「"俺の妻"って自覚あったんですか」
オスカーの目がこちらを向いた。表情は変わらない。耳が赤い。
「——黙れ」
「いつもそれですね」
「黙れと言っている」
リリアンは笑いを噛み殺した。けれどその奥で、胸の内側が不規則に脈打っていた。罰妻だ。契約の妻だ。それなのに「俺の妻」と、この人は言った。深く考えずに口にしたのだろう。だからこそ、余計に——。
今はそれを考えている場合ではない。
「対策を立てましょう、公爵様」
リリアンは机の端に手をつき、身を乗り出した。オスカーが椅子の背にわずかに体を引いた。近づかれると身構える癖は変わらない。
「王太子を政治的に追い詰める」
オスカーが指を解き、机の引き出しから書類の束を取り出した。枢密院の紋章が押された文書。そして別の束——帳簿の写しのように見えた。
「枢密院の財務担当、ヴァイス卿とは旧知だ。非公式に国庫の記録を閲覧させてもらっている」
リリアンの目が書類に吸い寄せられた。数字の列。支出の項目。王太子の名が何箇所かに記されている。
「断罪の手続き違反。国庫からの不正な支出。そしてエレナを使った工作。三つ揃えば、枢密院は動く」
オスカーの声には怒りの熱が消え、代わりに冷徹な計算が乗っていた。この人は有能な領主だ。感情を燃料にしない。感情を抑え込み、最も効果的な手を打つ。その切り替えの速さに、リリアンは背筋が伸びる思いだった。
「私にも仕事をください」
オスカーが顔を上げた。
「社交界の空気は、私の方が読めます。枢密院の根回しは公爵様が。社交界の世論は、私が」
沈黙。オスカーがリリアンの目を見た。読めない目。けれど否定の色はなかった。
「……好きにしろ」
許可ではなく、信頼だった。少なくともリリアンにはそう聞こえた。
エレナの処遇を話し合ったのは、その直後だった。
客間に戻ると、エレナは椅子に座ったまま背中を丸めていた。窓の外の光が横顔を照らし、涙の跡が乾いて肌に筋を残している。
リリアンはエレナの正面に座った。
「エレナさん。王太子の元に戻れば、密告のことは遅かれ早かれ知られます」
エレナが頷いた。小さく、けれどはっきりと。
「公爵家の庇護下に入りなさい。ここにいれば、殿下の手は届きません」
エレナの目が見開かれた。リリアンを見て、それから後ろに立つオスカーを見た。オスカーは壁際に腕を組んで立っている。何も言わない。だがリリアンの提案を否定もしなかった。承認している、ということだ。
「わたし……殿下の婚約者候補という立場を、失うことになります」
「それでも?」
エレナの手が膝の上で震えた。唇を噛み、目を閉じた。数秒の沈黙。窓の外で鳥が鳴いた。
「もう、あの方の道具にはなりたくありません」
声は小さかった。けれど震えていなかった。
日が傾き始めた頃、リリアンは一人で廊下を歩いていた。
対策の方針は決まった。オスカーは書斎で証拠の整理に入り、エレナは客間で休んでいる。ハンスが付き添っているはずだ。
石畳の廊下に、自分の足音だけが響く。窓から差し込む夕日が長い影を作っていた。
背後から、足音が聞こえた。
速い。長い歩幅の、重い足音。オスカーのものだ。
「——リリアン」
足が止まった。
名前だった。「お前」でも「公爵夫人」でもない。リリアン、と。
振り返った。廊下の向こうにオスカーが立っていた。夕日が逆光になって表情は見えない。大きな体が影になっている。
何か言おうとしていた。口が動いたのが見えた。けれど、声にならなかった。唇を引き結び、顎を引き、そのまま踵を返した。長い歩幅で書斎の方へ戻っていく。
リリアンは廊下に立ち尽くした。
心臓が跳ねていた。肋骨の内側で、うるさいほど鳴っている。手を胸に当てた。指先が冷たい。頬が熱い。
名前を呼ばれた。それだけのことだ。それだけのことで、こんなにも——。
夕日が廊下の奥まで伸びて、オスカーの背中が書斎の扉の向こうに消えた。




