第6話「怖い女の独白」
「毒蛇令嬢」。その二つ名を、私は自分でつけたようなものだ。
幼い頃から、思ったことを口にする子供だった。転生者の記憶が邪魔をして、同年代の令嬢たちと噛み合わない。大人びた物言いは「生意気」と取られ、率直な指摘は「毒舌」と呼ばれた。社交界に出るようになってからは、もっとひどかった。愛想笑いができない。お世辞が言えない。気がつけば周囲に誰もいなくなっていた。
怖がられる方が楽だと気づいたのは、いつだったか。
仮面をかぶった。笑顔で毒を吐く女。近づけば刺される女。それなら少なくとも、自分の意志で人を遠ざけられる。遠ざけられるのと、遠ざけるのは違う。後者の方がずっと息がしやすかった。
そんな私が、今——。
リリアンは窓の外に目をやった。公爵領の朝は穏やかだ。鳥が鳴き、畑が光り、風が草を撫でている。この景色にも慣れてきた。
噂の影響は、じわりと広がっていた。
「公爵に虐げられている」という話だけではない。「毒蛇だから当然」「嫁いだ先でも嫌われている」。ハンスが集めた情報によると、王都の社交界で複数の筋から同時に流れ始めたらしい。自然発生ではない。誰かが意図的に撒いている。
リリアンは笑い飛ばした。いつものように。
「ご心配なく、ハンスさん。この手の噂は私の持病みたいなものですわ」
ハンスは何も言わなかったが、目の奥に何か言いたそうな光があった。
変化が出始めたのは、屋敷の中だった。名前を覚え、声をかけ、少しずつ壁を薄くしてきた使用人たちの態度が、微かに後退していた。廊下ですれ違ったメイドのマリーが、以前のようによそよそしく目を伏せた。厨房の入口で下男たちが声を潜めた。
噂は外から来て、内側を蝕む。
リリアンは気づかないふりをした。気にしていない顔で、いつもどおりの声で廊下を歩いた。
夕刻、書斎への呼び出しがあった。
ハンスに案内され、重い扉を開ける。書斎は暖炉の火が低く燃え、インクと古い紙の匂いが漂っていた。オスカーが執務机の向こうに座っている。書類から目を上げ、リリアンを見た。
「座れ」
リリアンは向かいの椅子に腰を下ろした。オスカーの机の上には、数通の書簡が広げられている。封蝋の色が王都のものだった。
「噂の件だ。手は打つ」
「お気になさらず、慣れていますから」
笑った。いつもの笑顔。武器であり、盾であり、もう何年もかぶり続けた仮面。
オスカーがリリアンを見ていた。じっと、動かず。机を挟んだ距離。暖炉の火が二人の間に影を落としている。
「——慣れている、と言った」
「ええ」
「慣れるな」
リリアンの笑顔が止まった。
口元に力を入れようとしたが、うまくいかなかった。笑い返すべきだ。「何を言っているんですか」と軽くあしらうべきだ。それがいつもの自分だ。それが、私の仮面だ。
けれど、動かない。
オスカーは机に肘をつき、指を組んだまま言葉を探しているようだった。視線がリリアンから外れない。この人にしては異例のことだった。いつもは目を逸らす。いつもは窓の外を見る。今日は、逸らさない。
「お前は……嫌われることに慣れすぎている」
沈黙が落ちた。暖炉の薪が小さく爆ぜた。
「それは、お前が平気だということではない」
空気が肺に入ってこなかった。
違う、と言いたかった。平気ですよ、と笑い飛ばしたかった。いつもならできる。あの断罪の夜会でも、社交界の嫌味の中でも、実家に見捨てられた時でも、笑えた。笑って、立っていられた。
なのに今、この人の前で、笑えない。
「……あなたに言われたくない」
声が揺れた。自分でもわかった。喉の奥が熱い。目の奥が痛い。手が膝の上で拳を作っていた。
オスカーは席を立った。書斎の扉に歩み寄り、鍵をかけた。小さな金属の音が室内に響く。そのまま戻ってきて、窓際に立った。リリアンより少し離れた位置。近づきすぎず、けれど出ていかない。
「ここでは——仮面を外していい」
低い声だった。命令のように聞こえて、そうではなかった。言い慣れていない言葉を、ひとつずつ選んで並べたような不格好な響き。
リリアンは俯いた。膝の上の拳が白い。爪が掌に食い込んでいる。
涙は流さなかった。流せば仮面が完全に壊れる。まだそこまでは——まだ、無理だ。
でも。
「……公爵様は、ずるい人ですね」
声がかすれていた。顔を上げると、オスカーが窓の外を見ていた。横顔には何の表情もない。けれど耳が赤いことを、リリアンは知っている。この人がそうなる時の意味も、もう知っている。
しばらく、二人とも動かなかった。暖炉の火が揺れ、書斎の影が壁を這った。窓の外が暮れていく。
リリアンは息を整えて、椅子から立ち上がった。
「……ありがとうございます。少し、部屋に戻りますね」
オスカーは何も言わなかった。ただ、リリアンが扉の鍵を開けて出ていくまで、窓際に立ち続けていた。
翌朝、リリアンがいつもの時間に朝食の間に降りると、テーブルの上にいつもの焼き林檎があった。隣に、見慣れない小さな花が一輪、水差しに挿してある。
誰が置いたのか、聞くまでもなかった。
リリアンは花に触れず、ただ見て、椅子に座った。焼き林檎を口に運ぶ。甘さがいつもより鮮明だった。
そのとき、廊下からハンスの足音が聞こえた。いつもより速い。
「奥様。エレナ・ミルフィ嬢がお見えです。お顔の色が悪く——」
ハンスが言葉を切った。扉の向こうから、もうひとつの声が聞こえた。
「リリアン様——私、お伝えしなければならないことがあります」
エレナの声は震えていた。




