第5話「柔らかい罠」
この子が、あの断罪の夜に王太子の隣にいた少女?
応接間の扉が開き、エレナ・ミルフィが入ってきた。
小柄だった。淡い亜麻色の髪を肩の下で揃え、飾り気のない薄青のドレスを着ている。化粧もほとんどしていないようだった。目を伏せがちに歩き、リリアンの前で深く頭を下げた。
「お時間をいただきまして、ありがとうございます。リリアン様」
声が細い。けれど、作った声ではなかった。緊張で喉が絞まっている音だ。リリアンは椅子に座ったまま、エレナの所作を観察した。手の組み方、視線の落とし方、肩の角度。男爵家の令嬢にしては立ち居振る舞いが整っている。誰かに教え込まれたのだろうか。
「わざわざ遠いところを。どうぞお掛けになって、エレナ嬢」
リリアンは笑顔を作った。穏やかに、隙なく。相手の出方を見る時の笑顔だ。スポンサーの機嫌取りに来た広告代理店の若手を迎える時と同じ構え。善意か演技か、それは会話の中で見極める。
エレナが椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばしているが、膝の上で組んだ指が白い。
「本日は……罪滅ぼしと申しますか、ご挨拶をと思いまして」
「罪滅ぼし?」
「あの夜会の場に、わたしもおりました。殿下のお隣に。何もできず、ただ見ていただけですが……あの時からずっと、お詫びしたいと」
声が震えている。目の縁が赤い。泣くのを堪えているようだった。
本物か偽物か。リリアンは笑顔を崩さないまま、エレナの目を見た。瞳孔の開き方、瞬きの頻度。泣きそうな顔は作れる。けれど、指先の震えまでは演技しにくい。あの手の震えは本物だろう。
では、本物の善意で来ている。ただし——善意であることと、裏がないことは別だ。
ハンスが茶を運んできた。白い陶器のカップから、薄荷の香りが立ち昇る。
エレナが両手でカップを包むように持った。その仕草が幼く見えた。十九歳、とハンスから聞いている。リリアンより一つ下。あの夜会の時はまだ十八だったのか。
「旦那様がお見えになりました」
ハンスの声に続いて、応接間の扉が開いた。オスカーが入ってくる。エレナがすぐに立ち上がり、深く一礼した。
「お初にお目にかかります、公爵閣下。エレナ・ミルフィと申します」
オスカーは扉の脇に立ったまま、エレナを一瞥した。表情は動かない。あの断罪の夜会に同席していたはずだが、直接会話はなかった。今日が初めてまともに向き合う場になる。
「座っていろ」
それだけ言って、壁際の椅子に腰を下ろした。リリアンとエレナの会話に加わるつもりはなさそうだったが、出ていく気配もない。監視しているのか、それとも——。
エレナが座り直した。オスカーの存在に萎縮しているのが見て取れた。肩が内側に入り、声がさらに小さくなる。
「公爵様は、お寂しくないですか。こちら、広いお屋敷ですのに」
不自然な質問だった。
リリアンの笑顔の奥で、何かが引っかかった。「お寂しくないですか」。初対面の公爵に向ける言葉としては、踏み込みすぎている。男爵令嬢が公爵に対して、まず聞くべき内容ではない。
オスカーは顔を動かさなかった。
「別に」
一語で切って、リリアンの方を見た。ほんの一瞬。無表情のまま、ちらりと。それから窓の外に視線を戻す。
エレナの目がわずかに揺れた。何かを確認しようとして、できなかった——そういう目だった。
「奥様と仲良くされていますか?」
二つ目の不自然な質問。リリアンは薄荷茶に口をつけながら、エレナの横顔を見ていた。カップを持つ指が、また震えている。最初とは違う震え方だ。最初は緊張。今は——怯え。
この子は、聞きたくて聞いているのではない。聞かなければならないから聞いている。
オスカーは答えなかった。沈黙が重くなりかけたところで、リリアンが口を開いた。
「仲良くと言いますか、公爵様が私に振り回されているのが正確ですわね」
エレナが小さく息を呑んだ。オスカーの眉がわずかに動いたが、否定はしなかった。
エレナとの二人きりの茶会は、オスカーが退室した後に始まった。
庭に面したテラスに席を移した。午後の日差しが白いテーブルクロスを温め、風が花壇の香りを運んでくる。
エレナがカップを置いた。指先がテーブルの上で落ち着かなさげに動く。何かを言おうとして、何度か口を開いては閉じた。
「リリアン様は……お幸せですか?」
来た。
リリアンは背もたれに体を預け、微笑んだ。
「ええ。殿下に感謝していると、お伝えくださいな」
エレナの手がカップの上で止まった。指が白くなるほど強く握り込んでいる。目が揺れた。唇が震えた。
そのまま数秒、エレナは動かなかった。リリアンはその震えを見ていた。あの手は「演技をしている人間」の手ではない。「やりたくないことをやらされている人間」の手だ。
この子は、自分の意志で来ていない。
確信した。エレナの背後には王太子がいる。舞踏会でリリアンに切り返された後、今度は別の手を打ってきた。エレナを使って公爵夫妻の内情を探る——そういう筋書きだろう。
だが、エレナ自身はその役を嫌がっている。あの震えが何よりの証拠だった。
「エレナ嬢」
「は、はい」
「お茶のおかわり、いかが? ハンスさんの淹れる薄荷茶、美味しいんですのよ」
エレナが目を丸くした。それから、こくりと頷いた。その瞬間だけ、年相応の顔をしていた。
玄関先でエレナを見送った。
馬車が門を出ていくのを見届けてから、リリアンは呟いた。
「……あの子、王太子に言わされてる。でも——嫌がってる」
弱い子だ。権力に逆らえず、けれど嘘をつき通す胆力もない。あの震えは、いずれ限界を迎える。切り崩すなら、今ではない。もう少し待てば、向こうから崩れてくる。
踵を返して廊下に入ると、オスカーが壁に背を預けて立っていた。いつからいたのか。腕を組み、リリアンを見下ろす。
「あの女、何者だ」
「さあ。善意の訪問者、のはずですけど」
「信用するのか」
「しませんよ。まだ」
リリアンはオスカーの横を通り過ぎようとして、足を止めた。さっき応接間で、オスカーがエレナを素っ気なく扱い、リリアンの方に視線を向けた瞬間のこと。エレナが公爵に話しかけた時、自分の中に走った小さな棘のこと。
あれは何だったのだろう。
「……まさか、ね」
小声で笑って、歩き出した。オスカーが何か言おうとして、やめた。足音が二つ、廊下に離れていく。
三日後、エレナからの礼状が届いた。
便箋は安い紙だったが、文字は丁寧に整えられていた。お茶の礼、公爵夫妻の温かさへの感謝。どの言葉も控えめで、過不足がない。
リリアンはその便箋を窓の光に翳した。文面の最後、署名の近く。インクが一箇所、不自然に滲んでいた。文字の上ではなく、余白の部分。水滴が落ちたような丸い跡。
同じ日の夕方、ハンスが書斎に現れた。
「奥様、一件ご報告がございます」
「何かしら、ハンスさん」
ハンスの声がいつもよりわずかに低い。
「王都で妙な噂が流れております。"公爵夫人は公爵に虐げられている"と」
リリアンの背筋が、ほんの少し伸びた。




