第4話「二つ名の夫婦」
さて、修羅場かもしれないけど。前世で芸人のスキャンダル記者会見を仕切ったことを思えば、舞踏会くらい。
馬車の中は薄暗かった。窓から差し込む街灯の光が、向かいの席に座るオスカーの横顔を照らしては消す。王都に入って空気が変わった。石畳の匂い。香水と煤と人いきれが混じった、重い夜の気配。
リリアンは手袋を整えながら口を開いた。
「公爵様。何か言われても無視してください。私が全部捌きます」
オスカーは窓の外を見たまま答えなかった。沈黙が数秒。馬車の車輪が石畳の継ぎ目を拾って揺れる。
「……俺が守る」
低い声だった。ぼそりと、独り言のように。
リリアンは一瞬、息が止まった。それから、わざと軽い声を作った。
「それ、誰に言ってます?」
オスカーが黙った。窓の外を向いたまま、顎を引く。耳の先に目をやりたかったが、暗くて見えない。
馬車が止まった。
王宮舞踏会の大広間は、蝋燭の熱気で満ちていた。
シャンデリアが天井から幾つも下がり、磨かれた大理石の床に光の粒を散らしている。楽団の弦の音が壁に反響し、絹のドレスが擦れる衣擦れと、低い囁き声が波のように漂う。
リリアンがオスカーの隣に立って広間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
視線が集まる。数百の目が、二人に向けられた。
ざわめきが波紋のように広がる。「毒蛇令嬢」と「冷酷公爵」。その二つ名の夫婦が、並んで現れた。貴族たちが扇の陰で囁き合い、一歩、また一歩と距離を取る。誰もこちらに近づかない。
リリアンは背筋を伸ばし、堂々と歩いた。
誰にも目を逸らさない。誰にも媚びない。前世の記者会見場と同じだ。空気が敵意に染まっている時、怯えた素振りは血の匂いになる。堂々としていれば、少なくとも相手に主導権は渡さない。
「まあ、公爵夫人。断罪されてもお元気そうで何よりですこと」
最初に声をかけてきたのは、中年の伯爵夫人だった。扇で口元を隠しているが、目が笑っていない。周囲の令嬢たちが遠巻きにこちらを窺っている。
リリアンは微笑んだ。
「ええ、おかげさまで。公爵領の空気がよろしいんですの。お肌にも効きますわよ、ぜひいらしてくださいまし」
伯爵夫人の目が泳いだ。切り返しの速さに追いつけなかったのだろう。さらに何か言おうとした口が、途中で閉じた。
リリアンの隣で、オスカーが無言のまま立っていた。何も言わない。ただ、そこにいる。腕を組み、感情の読めない目で周囲を見据えている。あの体躯、あの沈黙。それだけで、令嬢たちの囁きが止まった。
「冷酷公爵」が隣にいるというだけで、嫌味を続ける勇気を持てる人間はいなかったようだ。
伯爵夫人が会釈して離れていく。次に近づいてくる者はいなかった。リリアンはちらりとオスカーを見上げた。無表情。だが、さっきから視線がずっとリリアンの周囲を巡回していることには気づいていた。
守ると言ったのは、こういう意味か。
言葉ではなく、隣に立つことで。
広間の奥から、足音が近づいた。
周囲の貴族たちが道を空ける。楽団の音がふっと遠くなった気がした。
レオンハルト・アル・レギウスが、杯を手に歩いてきた。
金髪に青い目。整った顔立ち。王太子の衣装は広間の誰よりも華やかだったが、リリアンの目には薄く見えた。あの断罪の夜と同じ自信に満ちた足取り。自分が間違っているとは微塵も思っていない人間の歩き方だ。
「やあ、ヴェルディア公爵。そしてリリアン嬢」
レオンハルトは微笑んでいた。慇懃な口調。だが目の奥に光るものを、リリアンは見逃さなかった。あれは品定めだ。私がどれだけ不幸か、確かめに来ている。
「幸せそうで何よりだ」
皮肉だった。隠す気もない。周囲の貴族たちがこちらを窺っている。王太子が何を言い、「毒蛇」がどう返すか。広間全体が息を詰めていた。
リリアンは深く一礼した。優雅に、完璧に。そして顔を上げ、にこりと笑った。
「ええ、殿下のおかげで素敵な方と出会えました。感謝しております」
沈黙が落ちた。
レオンハルトの笑みが固まった。頬の筋肉が引きつり、杯を持つ手が白くなる。リリアンの言葉は皮肉ではなかった。少なくとも表面上は。感謝だ。あなたが断罪してくれたおかげで、今の幸せがある——そう聞こえるように設計した一言。
王太子の「正義の断罪」が、結果として相手を幸福にしたのなら。断罪は何だったのか。
周囲の貴族たちの視線が、わずかに揺れた。王太子への視線に、疑問の色が混じり始めていた。
レオンハルトは何か言おうとして、口を開き、閉じた。杯に口をつけ、背を向けた。足音が遠ざかる。
オスカーが横で、ごく小さく息を吐いた。
リリアンの心臓が速く打っていた。表情には出さない。この場の空気を読んでいた。今この瞬間、広間の貴族たちの何割かが「毒蛇令嬢」ではなく「王太子」の方を奇妙な目で見ている。この一手は効いた。
帰りの馬車は、行きよりも暗かった。
街灯の間隔が広がり、車内にはほとんど光が届かない。石畳の振動が座席越しに伝わる。リリアンは手袋を外しながら、張り詰めていた肩の力を抜いた。
沈黙が続いた。オスカーは向かいの席で、いつものように窓の外を見ている。
「……お前は、怖くないのか」
不意に、声が落ちてきた。
リリアンは手袋を畳む手を止めた。
「何がです?」
「俺が」
その一語で、声が止まった。暗がりの中、オスカーの輪郭だけが見える。目の色は読めない。ただ、声に含まれていたものは聞き取れた。あれは問いかけではない。確認だ。今まで何度も確認して、そのたびに「怖い」と言われてきた人間の声。
リリアンは膝の上で手袋を畳み終えた。
「全然」
間を置いて、笑った。
「だって公爵様、耳真っ赤ですし」
暗くて見えないはずだった。でも言い切った。
オスカーが窓の外を向いた。それきり何も言わなかった。けれど沈黙の質が変わっていた。硬さが抜けて、馬車の揺れだけが二人の間を満たしている。
翌日の午後、ハンスが応接間にやってきた。
「奥様、来客のお取り次ぎでございます」
「どなた?」
ハンスが一枚の名刺を銀の盆に載せて差し出した。リリアンはそれを手に取り、目を落とした。
「エレナ・ミルフィ嬢が、ご挨拶に参りたいと」
リリアンの目が、細くなった。




