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悪役令嬢の夫、煽り耐性が低すぎる件  作者: 月雅


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第3話「閉ざされた部屋」

リリアンはハンスに導かれ、埃をかぶった扉を開けた。


蝶番が軋む。長く閉じられていた空気が頬に触れた。乾いた紙と、かすかに残る花の匂い。陽の光が薄い窓越しに差し込み、室内の埃を白く浮かび上がらせていた。


小さな部屋だった。化粧台、揺り椅子、壁際の書棚。どれも質の良い調度品だが、時間に置き去りにされている。化粧台の鏡は曇り、揺り椅子の布地は色褪せていた。


「こちらは、先代公爵夫人のお部屋でございます」


ハンスの声が静かに響いた。


「旦那様のお母上です。旦那様が六つの年にお亡くなりになりました」


リリアンは部屋の中を見回した。書棚に目が止まる。革表紙の本に混じって、紙の束が紐で括られていた。手を伸ばし、一番上の一枚を取る。


手紙だった。


拙い字。インクが滲み、文字の大きさが揃わない。子供の手だ。


「かあさま、きょうもだれもあそんでくれませんでした」


喉の奥が詰まった。


次の一枚を取る。


「かあさま、ちちうえはぼくをみてくれません。あたらしいおかあさまはこわいです」


もう一枚。


「かあさま、なかないようにがんばります」


リリアンは手紙を束に戻した。指先が冷えている。振り返ると、ハンスが扉の脇に立っていた。その目が、いつもの穏やかさとは違う色を帯びている。


「奥様にお見せすべきか、長く迷いました」


「……教えてください、ハンスさん」


ハンスは一拍置いて、語り始めた。


先代公爵夫人が亡くなった後、先代公爵はすぐに後妻を迎えた。後妻には連れ子がいた。家の中の空気が変わり、幼いオスカーは居場所を失った。後妻はオスカーに冷たく、父である先代公爵もオスカーに関心を払わなかった。オスカーは感情を出すことをやめた。泣けば嘲られ、怒れば疎まれる。黙っていれば、少なくとも攻撃されない。そうして十四歳で父が亡くなり、家督を継いだ。


「有能な領主になられました。しかし——人をお近づけにならない」


ハンスの声が途切れた。


「あの手紙は、旦那様がお母上の部屋にお忍びで通われていた頃のものです。返事が来ないとわかっていて、何年も書き続けておられました」


リリアンは窓の方を向いた。曇った硝子の向こうに、公爵領の夕暮れが滲んでいる。


あの無表情。あの短い言葉。あの、人に近づかれると身構える癖。


仮面だ。この人も、かぶっている。


私と同じものを。


口を開きかけて、やめた。ここで同情を見せるのは違う。泣いている人間に必要なのは涙ではない。前世で学んだことだ。落ち込んでいるタレントに「大丈夫?」と聞いても何も変わらない。代わりに仕事を振る。動く理由を作る。そうすれば人は立っていられる。


「ハンスさん、ありがとうございました」


頭を下げ、部屋を出た。扉を閉める手が、わずかに震えていた。


夕食の席。


いつもどおり、長いテーブルの向かいにオスカーが座っている。今夜は鹿肉の煮込みだった。ローズマリーの香りが湯気とともに立ち昇る。


リリアンはスプーンを取りながら、口を開いた。


「公爵様」


「何だ」


「明日、領地を案内してくださいません?」


オスカーの手が止まった。スプーンが皿の縁に当たって小さな音を立てる。


「……なぜだ」


「せっかく嫁いできたのに、まだお屋敷の外を知りません。罰妻でも領地くらい見ておきたいんです」


頼みごとだった。煽りでも皮肉でもない、初めてのお願い。リリアン自身、自分の声が普段と違うことに気づいていた。トーンが少し低い。柔らかい。あの手紙を読んだ後では、いつものように尖った言葉を投げる気になれなかった。


オスカーは黙ったまま、煮込みに目を落とした。沈黙が長い。暖炉の薪が崩れる音がした。


「……勝手にしろ」


それだけ言って、食事を再開した。


翌朝、玄関前に馬車が用意されていた。


御者がリリアンに一礼し、扉を開ける。中にはすでにオスカーが座っていた。窓の外を見ている。リリアンが乗り込んでも視線を動かさない。


馬車が走り出した。石畳を離れると揺れが穏やかになり、車窓に公爵領の景色が広がった。麦畑が丘陵に沿って波打ち、遠くに川が光っている。農家の屋根が点在し、道端では荷を運ぶ人々が行き交っていた。


最初に降りたのは、小さな市場だった。


オスカーが馬車を降りた途端、空気が張り詰めた。果物を並べていた商人の手が止まり、布を選んでいた女たちが顔を伏せる。子供の声がぴたりとやんだ。


恐れられている。領主としての敬意ではなく、もっと原始的な怯え。あの体躯、あの無表情、あの沈黙。噂が先行し、実像が追いつかない。


オスカーは何も言わなかった。ただ市場の通りを歩いた。人々が道を開ける。リリアンはその半歩後ろを歩きながら、周囲を観察していた。


市場の外れに差しかかったとき、小さな影が飛び出してきた。


五つか六つの子供だった。走ってきて、オスカーの脚にぶつかり、尻餅をついた。周囲の大人たちが息を呑む。母親らしき女が真っ青な顔で駆け寄ろうとした。


オスカーが膝を折った。


大きな手が、子供の頭にそっと載った。乱暴でも、ぎこちなくもない。子供の髪をひと撫でして、立ち上がる。何も言わない。子供は目を丸くして見上げた後、けろりとした顔で母親の元に駆けていった。


誰も何も言わなかった。


リリアンだけが、見ていた。


「ほら、あなたちゃんと優しいじゃないですか」


オスカーが歩き出していた足を止めた。こちらを見ない。


「……うるさい」


声が低い。けれど、さっきまでと何かが違っていた。子供はもう母親の腕の中で笑っている。オスカーはそれを横目で見て、すぐに顔を逸らした。


リリアンは黙って隣に並んだ。


この人も仮面をかぶっている。だったら——私が剥がす。同情ではなく。一緒にいる時間を、増やすことで。


領地から馬車で戻ると、日が傾いていた。


玄関にハンスが立っている。いつもの出迎えとは違う気配があった。背筋はいつもどおり伸びているが、手に封書を持っている。蝋の封印が、夕日を受けて赤く光った。


「奥様、王都から招待状が届いております」


リリアンが封を受け取る。厚い紙。紋章入り。表書きにはヴェルディア公爵夫妻宛と記されていた。


「王宮舞踏会への出席要請です」


ハンスが静かに言い添えた。


「差出人は——王太子殿下の侍従でございます」


リリアンの指が、封書の縁で止まった。

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