第2話「赤面公爵の朝食」
鳥の声が、やけに近かった。
王都の屋敷では聞いたことのない種類の囀りだ。窓の向こうが白み始めている。リリアンは天蓋の布越しにぼんやりとした光を見つめ、ここが公爵邸であることを思い出した。
身体を起こすと、広すぎる寝室が目に入る。昨晩の夕食を思い返した。
長いテーブルの両端に座り、オスカーは黙々とスープを飲んでいた。リリアンが一方的に話した。公爵領の気候のこと、馬車の揺れがひどかったこと、屋敷の廊下が長すぎて迷いそうだということ。オスカーは「うるさい」と二度言った。だが席を立たなかった。スープが冷めるまで、ずっとそこにいた。
あれを「冷酷」と呼ぶ人間は、人を見る目がない。
朝食の間に足を踏み入れて、リリアンは立ち止まった。
テーブルの上に並んだ皿。蜂蜜漬けの焼き林檎、胡桃を散らした白パン、薄切りのチーズに干し葡萄を添えたもの。そして温かい牛乳に香辛料を落とした飲み物。
どれも、好きなものだった。
伯爵家の食卓で、母が存命だった頃に出ていた献立に近い。偶然にしてはできすぎている。リリアンはすでに着席しているオスカーを見た。彼は黙ってパンを千切っている。目を合わせない。
「公爵様」
「何だ」
「このお食事、私の好みをお調べになったんですか」
オスカーの手が止まった。パンを持ったまま、暖炉の方を向く。
「……執事が勝手にやった」
背後に控えていたハンスが、音もなく首を横に振った。
リリアンはそれを見て、口の端を噛んだ。笑ってはいけない。ここで笑ったらこの人は二度とやらなくなる。だから真顔を保って、焼き林檎を一口含んだ。蜂蜜の甘さが舌の上でほどける。
「とても美味しいです。ハンスさん、ありがとうございます」
ハンスが深々と頭を下げる。「旦那様にお伝えいたします」
オスカーの顎がわずかに引かれた。パンを千切る手が、さっきより少し荒い。
食後、リリアンは屋敷の中を歩いた。
公爵邸は広い。廊下が幾筋にも枝分かれし、どの部屋も天井が高く、足音が反響する。壁に掛かった歴代当主の肖像画が、こちらを見下ろしていた。
使用人たちとすれ違うたびに、空気が変わった。メイドが目を伏せ、足早に通り過ぎる。厨房の入口で立ち話をしていた下男たちが、リリアンの姿を認めると口を閉ざして壁際に寄った。
「毒蛇令嬢」の噂は、ここまで届いている。
リリアンは足を止めなかった。すれ違うメイドに声をかけた。
「おはようございます。お名前、教えていただけますか」
メイドが目を見開いた。小柄な、まだ若い娘だった。
「マ、マリーでございます、奥様」
「マリーさん。この廊下の突き当たりは何の部屋です?」
「お、奥の書庫でございます」
「ありがとう。迷子になったら助けてくださいね」
マリーが呆気にとられた顔をしていた。リリアンはそのまま歩き続けた。次にすれ違った下男にも名を聞き、その次の庭番にも声をかけた。
怖がられるのは慣れている。だが慣れているのと、放置するのは違う。名前を覚えて、顔を見て話す。それだけで人の壁は薄くなる。タレントの現場で学んだことだ。新しい現場に入ったら、まずスタッフの名前を覚えろ。それが自分の居場所を作る最短の道だった。
中庭に出ると、風が変わった。
土と草と、鉄の匂い。
石畳の広場で、オスカーが剣を振っていた。
上着を脱ぎ、シャツの袖を肘まで捲り上げている。木の柱に向かって、同じ軌道の斬撃を繰り返していた。無駄のない動作。呼吸の乱れもない。振り下ろすたびに風を切る音が鳴り、木の表面に深い筋が刻まれていく。
リリアンは庭の隅の石段に腰を下ろし、黙って見ていた。
しばらくして、オスカーの剣が止まった。こちらを見ないまま、低い声が飛んでくる。
「見るな」
「別に見てませんよ。景色を眺めていただけです」
「嘘をつくな。ずっとこちらを見ていた」
「観察です。公爵様の剣筋がきれいだったので、つい」
オスカーが剣を下ろした。振り向かないが、構えが崩れている。足の位置が微妙にずれた。
リリアンは頬杖をついた。
「緊張してます?」
返事はなかった。代わりに、オスカーが剣を大きく振りかぶり、横薙ぎに一閃した。
木の柱が根元から断ち切れ、乾いた音を立てて石畳に転がった。
鳥が一斉に飛び立つ。リリアンの髪を風が揺らした。
「……違う」
オスカーが剣を鞘に戻しながら、ぼそりと言った。何が「違う」のか、説明はなかった。ただ視線を遠くの木立に逃がしているのが、ここからでも見えた。
リリアンは石段に座ったまま、声を出さずに笑った。
不器用なだけだ。この人は、徹底的に不器用なだけだ。好物を調べて食卓に並べておきながら「執事がやった」と嘘をつく。見られると剣を振り損ねる。怒っているように見えるのは、照れ方を知らないからだ。
この人を読み解くのは、存外、面白い仕事かもしれない。
夕方、部屋に戻ると、ノックの音がした。
扉を開けると、ハンスが廊下に立っていた。いつもの端正な姿勢だが、声にわずかな重みがあった。
「奥様、お時間をいただけますでしょうか。お見せしたいものがございます」
「ハンスさんが見せたいもの?」
「はい。旦那様には——まだお伝えしておりません」
リリアンの指先が、扉の縁で止まった。ハンスの目は穏やかだったが、その奥に迷いの翳が見えた。長く仕えた人間が、主人に黙って客人を案内する。それは、軽い判断ではないはずだ。
「案内してください」
ハンスに続いて廊下を進む。屋敷の奥へ、さらに奥へ。昼間の探索では辿り着かなかった一画だった。人の気配がない。窓の光も薄い。空気がひんやりと湿り、長く開けられていない場所特有の淀みがあった。
ハンスが足を止めた。その先に、埃をかぶった扉があった。




