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悪役令嬢の夫、煽り耐性が低すぎる件  作者: 月雅


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第10話「契約書の行方」

私はいつから、この人の隣が「居場所」になったのだろう。


勅使は応接間に通されていた。王家の紋章を胸に付けた初老の男で、姿勢がよく、声に無駄がなかった。オスカーとリリアンが並んで椅子に座り、勅使が向かいに立つ。ハンスが扉の脇に控えていた。


「国王陛下のお言葉を伝えます」


勅使が巻紙を開いた。蝋の匂いがかすかに漂う。


「王太子レオンハルトの断罪は、手続きにおいて瑕疵があったと裁定された。従って、断罪に付随する罰としての契約婚は、その根拠を失った。罰としての契約は取り消す。今後の婚姻関係は両者の意思に委ねる。離縁を望むならば認める」


巻紙が閉じられた。勅使が一礼し、返答は急がないと告げて退室した。靴音が廊下に遠ざかり、玄関の扉が閉まる音がした。


応接間に、二人だけが残った。


暖炉の火が低く燃えている。窓の外では、午後の光が庭の木々を照らしていた。鳥の声が遠い。


自由になれる。


その言葉が頭の中を巡った。契約は消える。罰妻ではなくなる。ここにいる理由が、なくなる。


胸の奥が、ぎゅうと縮んだ。


「お前の自由にしろ」


オスカーの声だった。無表情。いつもの低い声。けれど、椅子の肘掛けを握る手の指が白くなっていた。


それだけ言って、オスカーは立ち上がった。背を向け、書斎の方へ歩いていく。足音が廊下に響き、書斎の扉が閉まった。


リリアンは椅子に座ったまま動けなかった。膝の上で手を組んでいる。指先が冷たい。暖炉の火が目の前にあるのに、体の芯が冷えていた。


自由にしろ、と言った。突き放したのではない。あれは——失うことを覚悟した人間の声だ。自分から手放すことで、拒絶される前に退こうとしている。


あの人の癖だ。傷つく前に、自分から扉を閉める。


私と、同じ。


どれだけ座っていたのかわからない。


窓の外の光が傾き始めた頃、リリアンは立ち上がった。


廊下を歩く。書斎の前で足を止めた。重い樫の扉。この向こうに、あの人がいる。


拳で叩いた。


返事がない。


「公爵様、開けてください」


沈黙。扉の向こうから物音ひとつしない。けれど、中にいることはわかっていた。この人は書斎にいる時、椅子に座ったまま動かないことがある。言葉を探している時の癖だ。


「——オスカー様」


初めて、名前で呼んだ。


声が廊下に響いた。自分の声が、思ったより小さくて、震えていて、それでも届くように祈るような響きだった。


鍵の回る音がした。


扉が開く。オスカーが立っていた。表情は無い。いつもの顔。けれど、右手が扉の縁を掴んでいて、指が微かに震えていた。


リリアンは笑った。


「煽り耐性、最後まで低いですね」


「……黙れ」


「耳、赤いですよ」


「わかっている」


オスカーが顎を引いた。目を逸らさない。逸らそうとして、逸らせないでいるように見えた。


リリアンは懐から紙を取り出した。折り畳まれた契約書。婚姻期間五年、生活費の支給、双方の義務。そして——恋愛感情に基づく関係の禁止。あの条項。


指で、その一行を示した。


「これ、破っていいですか」


オスカーの目が契約書に落ちた。そこから、リリアンの目に戻った。


「……俺はとうに破っている」


声がかすれていた。この人にしては珍しいことだった。いつも短く、硬く、感情を載せない声。それが今、ほんの少しだけ割れていた。


リリアンは契約書の端を掴んだ。オスカーの手が反対側を持った。二人の手が紙の上で近い。指先の距離が数寸。


同時に引いた。紙が裂ける音が、静かな書斎に響いた。


破れた契約書が、二人の手からひらりと床に落ちた。


リリアンの視界が滲んだ。


目の奥が熱くなり、瞬きをすると涙が頬を伝った。笑っていた。泣きながら笑っていた。口元が歪んで、眉が下がって、ひどい顔になっているだろうと思った。


「ずっと怖かった」


声が震えた。止められなかった。


「怖い女だと思われるのは平気だったのに。あなたに"怖くない"と言われるのが、一番怖かった」


仮面を外した自分に価値があると、信じられなかった。笑顔で毒を吐く女でいれば、少なくとも自分の意志で人を遠ざけられた。けれどこの人の前では、その仮面が剥がれる。剥がれた後の自分を見られるのが、何より怖かった。


オスカーは黙って聞いていた。腕を組まず、目を逸らさず。唇が一度動いて、止まって、もう一度動いた。


「怖くない」


低い声だった。不器用で、飾りがなくて、それだけだった。


それだけで、充分だった。


リリアンは袖で涙を拭った。何度拭っても新しい涙が出てくる。笑いながら泣くのは、前世を含めても初めてだった。


オスカーが一歩、距離を詰めた。いつもなら離れる人が、近づいてきた。大きな手が迷うようにリリアンの頭の近くで止まり、そっと髪に触れた。ぎこちなく、けれど温かかった。


夕暮れ時の公爵邸。


ハンスが新しく入った使用人を連れて廊下を歩いていた。若い女中が、緊張した面持ちで筆頭執事の背中を追う。


「ハンス様、旦那様はどのようなお方なのですか。あの、噂では冷酷な……」


ハンスは足を止めなかった。いつもの端正な姿勢のまま、穏やかに答えた。


「旦那様はね——奥様が来てから、よく笑うようになったのですよ」


庭に面した窓の向こうから、声が聞こえた。リリアンの笑い声。何か言っている。煽っているのだろう。続いてオスカーの低い声。「黙れ」と言っているように聞こえたが、声に怒気はなかった。


若い女中が窓の外を覗こうとして、ハンスに軽く肩を引かれた。


「最近、ブランシェ伯爵家から復縁の打診がございましたが、奥様がお断りになりまして」


ハンスの声に感情はなかったが、口元にかすかな光があった。


「それと、王都から社交界への出席要請が増えておりまして……」


ハンスは若い女中に目配せをした。仕事に戻るぞ、という合図。二人は廊下を歩き出した。


庭からまたリリアンの声が響いた。今度は少し大きい。オスカーの声が短く返す。鳥が驚いて飛び立つ羽音。それから、二人分の笑い声が、夕暮れの空気に溶けていった。


(完)


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