第1話「罰妻の交渉術」
「ご自由に」
広間が静まった。
シャンデリアの蝋燭が何百と灯る夜会の大広間で、リリアン・フォン・ブランシェはまっすぐ立っていた。目の前の王太子レオンハルトが何を言ったか、周囲の貴族たちが何を囁いているか、すべて聞こえている。聞こえた上で、口元に薄く笑みを乗せた。
「婚約の破棄、お好きになさいませ、殿下」
レオンハルトの頬が引きつるのが見えた。怒り、ではない。あれは予想を外された人間の顔だ。泣き崩れるか、許しを乞うか——そういう絵を描いていたのだろう。十年も人の顔色を読む仕事をしていれば、その程度は瞬きの間にわかる。
ざわめきが波のように広がった。「毒蛇令嬢が動じない」「あの余裕は何だ」。視線が刺さる。だが、どの目も自分を助けようとはしていない。
リリアンはちらりと後方を見た。ブランシェ伯爵——父は、顔を伏せて沈黙していた。口を開くことも、一歩を踏み出すこともなく、ただ壁際に立っている。
ああ、やっぱり。
胸の奥が冷たくなるのを感じたが、それは驚きではなかった。期待していなかった、と言えば嘘になる。けれど、覚悟はしていた。
リリアンは前を向き直した。背筋を伸ばしたまま、一礼して広間を出た。足音だけが、高い天井に反響した。
馬車に揺られて三日。
公爵領に踏み入れた瞬間、空気が変わった。王都の石畳と香水と陰口の匂いではない。土と、緑と、遠くの川の湿気。馬車の窓から吹き込む風が髪を攫って、リリアンは目を細めた。
ヴェルディア公爵邸は、想像よりもはるかに重厚だった。門から玄関までの石畳が長い。壁には蔦が這い、古いが手入れの行き届いた佇まいだった。
「冷酷公爵」の居城。王太子の裁定で下された罰——契約結婚の相手。噂では人を寄せつけない冷血の領主だという。
玄関の大扉が開くと、初老の男が一礼して迎えた。
「お待ちしておりました。ヴェルディア公爵家筆頭執事、ハンスと申します。奥様」
声に温度があった。形式的な丁寧さの底に、人間の気配がある。リリアンは内心で少し力を抜いた。執事の質は、主人の質だ。少なくとも最悪ではない。
「ご丁寧にありがとうございます、ハンスさん。長旅で埃まみれですけれど、ご容赦くださいね」
ハンスの目がわずかに動いた。驚いたのだろう。罰で嫁いできた女が、笑顔で挨拶するとは思っていなかったに違いない。
応接間に通された。
暖炉の火が低く燃えている。室内は薄暗く、窓の外から夕暮れの光がわずかに差し込んでいた。椅子に掛けて待つこと数分。足音が聞こえた。重く、無駄のない足音。
扉が開く。
オスカー・フォン・ヴェルディアは、噂通りの男だった。背が高い。肩幅が広い。黒髪を後ろに流し、切れ長の目は光を弾いて感情を映さない。軍人の身体だ、とリリアンは一目で見て取った。剣を振る者の重心をしている。
「——座っていろ」
第一声がそれだった。
リリアンは座ったまま、公爵の顔を見上げた。怒っているわけではない。歓迎もしていない。ただ、どうしていいかわからない——そういう硬さだ。
「お初にお目にかかります、公爵様。リリアン・フォン・ブランシェです。本日より、契約に基づいてお世話になります」
オスカーは暖炉の前に立ったまま、腕を組んだ。リリアンを見ない。
「契約書は読んだか」
「ええ。婚姻期間五年、生活費の支給、公爵家の体面維持の義務。それから——恋愛禁止条項」
最後の一語に、わずかに間を置いた。オスカーの顎が微かに動いた。気にしている。あの条項を。
「了解しました。で、公爵様」
「何だ」
「生活費、倍額にしていただけません?」
沈黙が落ちた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。
オスカーが初めてリリアンの方を向いた。感情の読めない目——のはずだったが、リリアンは見逃さなかった。耳の先が赤い。
「……理由は」
「罰で嫁がされた妻ですよ? せめてお手当くらい弾んでくださらないと、割に合いませんわ」
図々しい要求だと、自分でもわかっている。だが、ここで卑屈になったら終わりだ。この男との五年間、ずっと「下」の立場で過ごすことになる。対等でなくてもいい。せめて、対等に話せる空気だけは初日に作る。芸人のスキャンダル対応だって、最初の三十秒で立ち位置を決めたものだ。
オスカーは腕を組んだまま数秒黙り、短く言った。
「いい」
あっさりしていた。金額に興味がないのか、交渉が面倒なのか。おそらく両方だろう。
「ありがとうございます。それともう一つ」
「まだあるのか」
「公爵様」
リリアンは立ち上がった。オスカーとの距離が縮まる。公爵の目がわずかに見開かれる。近づかれ慣れていない——その反応は隠せていなかった。
「あなた、冷酷じゃなくて人見知りでしょう」
空気が凍った。
オスカーの表情は変わらない。変わらないが、耳が一段と赤くなった。首筋まで色が這い上がっている。
「——黙れ」
声は低かったが、怒気はなかった。ただ、どう返していいかわからない人間の声だった。目が逸れる。顎を引いて、暖炉の方を向く。
リリアンは笑いを噛み殺した。
ああ、この人。冷酷でも残忍でもない。ただ不器用で、人との距離のとり方を知らないだけだ。十年もタレントを見てきた目は、ごまかせない。怖い人間の目と、怖がっている人間の目は違う。
面白い。
「失礼しました、公爵様。長旅で口が滑りました」
頭を下げつつも、反省の色はない。オスカーもそれがわかっているのか、「……部屋に案内させる」とだけ言って踵を返した。
扉の隙間から、ハンスの姿が見えた。口元がかすかに——ほんのかすかに、緩んでいたように見えた。
与えられた部屋は、思いのほか広かった。
天蓋つきの寝台。磨かれた木の床。窓からは公爵領の平野が見渡せる。夕日が沈みかけた空の下、畑の緑が風に揺れていた。
リリアンは窓辺に立ち、額を冷たいガラスに預けた。
王都の夜会が、もう遠い昔のことのようだった。断罪の声。ざわめき。父の沈黙。三日間の馬車。そして、耳まで赤くなる「冷酷公爵」。
「住めば都、か」
呟いた声は、自分でも思ったより乾いていた。
そのとき、扉を控えめに叩く音がした。
「奥様。旦那様が、夕食をご一緒にと」
ハンスの声だった。リリアンが扉を開けると、ハンスは銀の盆に封書を一通載せていた。几帳面な筆跡で「夕食の件」とだけ書かれた、素っ気ない書面。
命令口調の招待状。
リリアンは、その短い走り書きを見て、笑った。




