アーシュの恋心
それから数時間後。酒場の喧騒がピークを迎える頃、トニーは完全に泥酔していた。旅の疲れと実家の安心感がそうさせたのか、いつにも増して酒の回りが早く、彼の視界はすっかり千鳥足のように歪んでいる。
隣の席では、フランが同じだけの強い酒を静かに煽っていたが、その端正な美貌には顔色一つ変わっていなかった。
彼は氷のように冷ややかな横目で、カウンターに突っ伏しそうになっているトニーを見下ろす。
「……だから、そんなにペースを上げて飲み過ぎるなって言ったのに」
フランが呆れたようにため息を漏らした、その時だった。
「トニーさん、大丈夫ですか……?」
衣服をかすめるような衣服の擦れる音と共に、アーシュが心配そうな、しかしどこか弾んだ優しい声で声を掛けてきた。ぷんと、昼間より少し濃くなった白粉の甘い匂いがトニーの鼻腔をくすぐる。
「う、うぅ……。ああ、大丈夫だ……。時々、こうやって飲み過ぎちまうんだよね……」
呂律の回らない声で頭を押さえるトニーに、アーシュは待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「でしたら、私がお部屋までお連れしますよ!」
「いや、いいよ。僕が責任を持って自室まで連れて行くから」
フランがグラスを置き、淡々と遮る。
「トニーさんは無駄に身長が高いし、骨組みもしっかりしているからそれなりに重い。女の子の細い腕じゃ、上の階まで連れて行くのは結構な重労働だし、大変なんだよね」
「――それなら、なおさら私が連れて行きますから!!」
アーシュはフランをキッと睨みつけ、フンス、と鼻息を荒くして言い放った。彼女のその並々ならぬ熱意と殺気を敏感に察知したフランは、それ以上口論するのも面倒になったのか、「……好きにすれば」とあっさりと権利を譲ることにした。
「よしっ……! じゃあトニーさん、行きますよ」
アーシュはトニーの逞しい右腕を自分の華奢な肩へと強引に乗せ、ずっしりとした大男の質量をその身に受け止めた。彼女の小さな身体から発せられる、どこか熱を帯びた体温を感じながら、トニーは彼女に引きずられるようにして、ギィ、ギィと古びた階段をゆっくりと上って行った。
階下で、フランは唇の端を不敵に吊り上げ、愉しげな笑みを浮かべていた。
その頃、アーシュはなんとか大男の質量を支えきり、トニーの客室へと辿り着いていた。
「トニーさん、お部屋に着きましたよ!」
「あぁ……すまない、ありがとう……」
トニーはろくに足も上がらず、そのままスプリングのきしむ音を立ててベッドへと倒れ込んでしまった。
その横に、アーシュが滑り込むように座る。衣服が擦れ、ふわりと甘い匂いが広がる。
「本当に大丈夫ですか……?」
心配そうに顔を覗き込んでくるその顔は、やはりメアリーにそっくりだ。
「うん……。メアリー……? ああ、違う、アーシュか……」
姉の名前を呼ばれたアーシュは、少しだけムッとしたように形の良い眉をひそめた。
そしておもむろに、トニーの逞しい身体に強く抱きついた。
「トニーさん! 私、初めて会った時から、トニーさんのことが好きなんです!!」
「え? え……っ!?」
「お姉ちゃんじゃなくて、私を見てください……!」
アーシュはトニーの言葉を奪うように、ゆっくりと唇を重ねた。トニーの脳裏に「メアリーに悪い」という罪悪感が一瞬よぎったものの、アルコールで麻痺した肉体は、その柔らかな誘惑を拒絶する素振りを見せなかった。
――そして、わずか数分後のことである。
「う、うわあああああああッッ!!!???」
トニーは一物も纏わぬ裸の状態で、悲鳴を上げてベッドから狂ったように飛び出した。乱れたシーツの上に横たわっているのは、同じく一物も纏っていないアーシュ。
だが、ランプの光が照らし出したその身体は――トニーのそれに負けず劣らずの、異常なほど筋肉隆々の腕、そして筋繊維の浮き出た分厚い胸板だった。
「お……お前、男……ッ!!???」
ベッドの上の「彼」は、たくましい大胸筋を震わせながら、トニーに向かって可愛らしくウィンクをしてみせた。
―――――
「アハハハハハ……ッ!!!???」
階下の酒場に、フランの天井を突き破るような大爆笑が響き渡った。
「もうやめてくださいよ~トニーさん! 本当に笑い死ぬ~!」
フランはテーブルをバシバシと叩き、涙を流して笑いが止まらない。
「ちょっと……お前、静かにしろって! 声が大きい!」
トニーは顔を真っ赤にし、周囲の客たちの視線を気にしながら小声で必死に注意する。
「アハハ! だって、いきなり血相を変えて裸同然で二階から下りてくるんだもん、理由を聞かないわけにいかないでしょう!」
トニーは深く、深い溜め息を吐き出しながら、腹立たしげに美しい暗殺者を睨みつけた。
「……どうせお前は最初から知っていたんだろ。メアリーのことなら何でも調べてるって言ってたもんな」
するとフランは、少しだけ心外そうに怒ったフリをしてみせた。
「失礼ですね~! そんなこと、わざわざ調べなくたって一目見れば分かりますよ。いいですか? 女性というのは子供を産むために骨格から体のつくりが違うんです。骨盤の幅、肩の筋肉の付き方……そのくらい、プロの僕から見ればひと目で見抜けます!」
フランは冷めた酒を一口含み、ニヤニヤとした笑みを戻して続ける。
「しっかし、本当に見境がないですよね、トニーさんって。こないだの娼婦の件もあるし、アーシュを見るとメアリーちゃんを思い出して罪悪感が……とか何とか言っていたくせに。……はっ! まさか、メアリーちゃんだと錯覚して抱こうとしたんじゃないですか?」
「違ぇよッ!!!」
「ほんとかな~、絶望的に信用がないなぁ。でも、アーシュちゃん? くん? も可哀想ですね。行為の途中でベッドに置き去りにされるなんて」
トニーは頭を抱え、男同士の情けない弁明を口にする。
「いや、でもさ、お前だってもし俺と同じ立場で、美少女だと思ってベッドに入ったら男だった状況になったら、同じようにパニックになるだろ!? 俺のこの、引き裂かれた気持ちも分かってくれよ!」
「は? なりませんよ。……僕は『仕事』のためなら、男だろうが女だろうが何の関係もなく、要求されれば抱いたり抱かれたりしてきましたから」
フランはなぜか、とんでもない男色の経歴を胸を張って偉そうに言い放った。
「あー、そっか。トニーさんは男の『本当の良さ』を知らないから、ただ未知の恐怖に怯えているだけなんですね?」
フランはぐいと、トニーの鼻の先まで自分の端正な顔を近づけてきた。氷のような瞳に妖しい光を宿す。
「僕が手取り足取り、優しく教えてあげますから。今夜、試してみます?」
――その時、バァン!!! と酒場の木扉が勢いよく開き、息を荒くしたアーシュが姿を現した。
「トニーさん!! さっきのは、その、ちょっとビックリしただけですよね!? 大丈夫です、私、めげません! もう一度部屋に行きましょう!!」
アーシュが猟犬のようにトニーに駆け寄ろうとした瞬間、フランがその細い身体でスッと間に入り、立ちはだかった。
「あら、悪いね。トニーさんは今から『僕』といいことをする予定だからさ。アーシュちゃんはもう、用無しなんだよね~?」
フランは極上の、そして最高に冷徹な営業スマイルでニッコリと微笑む。
「あ? なんだよお前。最初っから気に食わねぇんだよ! 男か女かわかんねえようなツラしやがって!」
凄まじい地声の低さ。アーシュは完全に女装のメッキが剥がれ、野良犬のような地が出始めていた。
「いやいや、それはそっくりそのまま、アナタにお返ししますよ」
笑顔のまま、一切視線をぶらさずに毒を返すフラン。一触即発の男同士の修羅場。
トニーが冷や汗を流したその瞬間――。
「いい加減にしなさい!!!」
居酒屋の奥から、フロア全体を震わせるようなメアリーの烈火のごとき怒号が響き渡った。
一瞬にしてその場に静寂が訪れる。腕組みをして二人を睨みつけるメアリーの姿が、この時のトニーの目には、本物の「救いの女神」に見えたのは言うまでもなかった。




