モネ
悪夢のようなお屋敷の一件から、次の日の夜。メアリーたちはふたたび、いつもの賑やかな酒場の片隅にいた。
一夜明けてみれば、フランはまるで何事もなかったかのように、いつも通りの調子に戻っていた。メアリーのすぐ隣の席に陣取り、熱心に彼女の様子を伺っている。
「メアリーちゃん、昨日の怪我は本当に大丈夫……? どこか少しでも痛むところがあったら、僕が丁寧に診てあげるから、遠慮なく言ってね」
「うん、大丈夫、大丈夫! フランは本当に心配性なんだから~」
メアリーはケラケラと笑いながら、彼の過保護な視線を受け流すように、別の常連客たちがいるテーブルへと軽やかに移動していった。
カウンターに残されたトニーは、その微笑ましい光景を眺めながら、心の底からホッと胸をなで下ろしていた。
あの狂気的な暴走が嘘のようだ。やはり、俺らの日常はこうでなくてはならない。
その時――カランカラン、と小気味よい音を立てて酒場の木扉が開いた。夜の冷気と共に、一人の女が店内に足を踏み入れてくる。
トニーは、その姿から目を離すことができなくなった。肩のあたりで綺麗にカールした、妖しくきらめく銀髪。豊満なバストの谷間をこれみよがしに強調する、深く開けられたドレスの胸元。そして、短いボトムスからは、健康的で滑らかな、信じられないほど魅力的な太ももが覗いている。
くりくりとした大きな丸い瞳に、影を落とすほどの長い睫毛。形の良い薄い唇には、鮮やかな紅が引かれており、それは隣にいるフランの繊細な美貌とはまた一味違う、大人の色香に満ちた圧倒的な美しさだった。
女が店の奥へ向かってゆっくりと歩を進めるたび、短い衣服の隙間から、引き締まったおへそがチラチラと覗く。
周囲の男たちは一瞬で色めき立ち、あちこちから下品な口笛や、下心を隠さない誘いの声が飛び交った。だが、女はそんな男たちの熱視線をまるで空気のように無視し、ただ一定の歩調で、真っ直ぐに歩いていく。
そして――女は、フランの背後の位置でピタリと足を止めた。女がその長い爪の先で、フランの肩にそっと触れようとした、まさにその瞬間だった。
「――触んなよ」
フランの口から、刃物のように冷徹な声が漏れた。彼は体勢をミリ単位すら動かさず、グラスを弄んだまま、後ろの女を振り返ろうとさえしなかった。
「ひっどーーーーい!!」
女はわざとらしく高い声を上げると、ふらりとフランの正面に回り込み、彼の顔を覗き込んで不満げに頬をぷくっと膨らませた。
「あんたがこの街に現れたって情報を掴んだから、私、すぐに飛んできたんだよ? せっかく会いにきてあげたのに、何よその冷たい態度は~っ!!」
フランは顔色一つ変えず、無表情のまま、死人を相手にしているかのように何も答えない。
「だいたい、今までどこで何をしてたのよ! 組織に何も言わずに消えちゃって……私、ずっと心配してたんだからねー!」
フランはおもむろに椅子から立ち上がると、感情の抜けた声で「邪魔」とだけ言い捨てた。
そして女の横をすり抜けると、迷わずメアリーのいるテーブルの方へと足を進めていってしまう。
「……ほんっと、相変わらず失礼な奴ね!!」
女は呆れたように肩をすくめると、「ねえ?」と同意を求めるように、カウンターに残されたトニーへと視線を向けた。
そして、いたずらっぽく美しく微笑みながら、「あなた、あいつの、フランのお友達かな?」と、鈴の鳴るような声で尋ねながら、たった今フランが座っていた空き椅子へと、流れるような動作で腰を下ろした。
ふわりと、上質な大人の香水の匂いがトニーの鼻腔をくすぐる。
「私はモネ。……フランの、相棒です」
「相棒……??」
トニーが思わず復唱すると、モネは人差し指をあかい唇に当て、天井を見上げるようにして可愛らしく考える素振りを見せた。
「あれ? 正確には『元』相棒、かな? あいつ、いきなり何の説明もなく組織から姿を消しちゃったからさ」
トニーの背筋に、昨日の緊迫感がわずかに甦る。彼はごくりと喉を鳴らし、声音を低くした。
「……ということは、君も……?」
モネはトニーの目を真っ直ぐに見つめ、いたって無邪気な笑顔のまま、その恐ろしい肩書きを口にした。
「――ええ。殺し屋です」
モネは極上の笑みを浮かべたまま、まるで今日の天気を語るような淡々とした口調で、その血塗られた過去を話し始めた。
「私たちは二人とも、身寄りのない捨て子だったの。それぞれ全く別の街で組織に拾われたんだけどさ。当時、あの組織はなぜか、私たちみたいな小さな子供ばかりを執拗に集めていたのよ」
トニーの脳裏に、元保安官としての嫌な想像がよぎる。彼は声音を低くした。
「……まさか、人身売買のために……?」
「ハハ……! だったらまだマシだったわね。現実はもっと、残酷よ」
モネの美しい顔から、あざとさが綺麗に消え去る。鋭い瞳がトニーをまっすぐに射抜いた。
「――人を、殺させるためよ」
「じゃあ、幼い頃からひどい虐待や、劣悪な扱いをされたんじゃ……」
トニーが思わず心配そうな声を漏らすと、モネは「いえいえ全然!!」と、ぱあっと元の明るい声に切り替えてみせた。
その切り替えの早さ自体が、逆にトニーの背筋を冷たくさせる。
「組織が求めていたのは、子供という『最高に油断を誘う凶器』だったの。だって大人は誰だって、無力な子供には簡単に隙を見せるでしょう? でもね、みすぼらしい格好で行商人の格好をしてたら、誰も怪しんで近寄らせてはくれない。だから、私たちは拾われた後、上質な石鹸で綺麗に身体を洗われ、まともな温かい食事を毎日与えられ、どこからどう見ても健康的な愛され方をしている子供に見えるように育てられたのよ」
モネの声のトーンが、じわりと低く、昏いものへと沈んでいく。
「すべては、確実に人を殺すため。銃の扱いも、ナイフの滑らせ方も、全部優しく教えられたわ。……ただ、任務に失敗したからって、殴られたり監禁されたりすることは絶対に無かった。
だって、身体に不自然な傷がある子供だと、近づいた標的に警戒されちゃうじゃない?」
「……そこまで計算して、子供を飼育していたのか……」
「そう。でもある時、ある事件がきっかけで、フランの心は木っ端微塵に壊れてしまった。……あれはね、同じ境遇の私から見ても、もう見ていられないほどに惨酷なものだったわ。
それからのあいつは、感情を失くした代わりに残虐性が異常なまでに増してしまって。……そんな地獄のような日々が何年も続いていた時、ある日突然、あいつは組織から煙のように姿を消したのよ」
モネは視線をカウンターの奥、楽しそうに笑うメアリーの後ろ姿へと移した。
「……あの娘が、あいつを縛る呪いであり、救いだったのね。今日あいつの顔を見て、すぐに全てを理解したわ。組織にいた頃は、あんな……人間らしい表情なんて、一度だって見せたことがなかったもの」
彼女はどこか遠くを見るように、少し寂しそうに微笑んだ。トニーは彼女から漂う静かなプロの気配に、ふと疑問を口にする。
「殺し屋ってことは、君もあのフランと同じくらい、銃の腕が立つのか?」
「人の命を刈り取る方法なんて、何も弾丸だけじゃないわよ? 多少は使えるけれど……私はね、銃よりも『色仕掛け』の方が遥かに得意なの」
モネは上目遣いでくりくりとした丸い瞳を向け、あざとく、可愛らしく微笑んでみせた。
「――私とベッドに入って、生きて次の日の朝を迎えられた男は、今まで一人もいないわ」
彼女はクススクと、鈴を転がすような声で楽しそうに笑う。そして、ぐいとトニーの顔の目の前まで自身の顔を近づけてきた。ふわりと、熟した果実のような濃厚な甘い香水の匂いがトニーの鼻腔を強烈に支配し、彼女の艶やかな薄い唇の動きが目の前に迫る。
「ねえ、お兄さんも……私の腕のなかで、試してみる?」
妖しく笑い、トニーの理性を揺さぶるような一言を投げかけると、彼女は「さ、もう行かなくちゃ」と、未練を残さぬ足取りで椅子のからスッと立ち上がった。
短パンから覗く魅力的な太ももが、酒場の淡いランプに照らされて滑らかに動く。
彼女は扉へと歩き出す直前、ふと振り返って、硬直しているトニーの目を悪戯っぽく見つめた。
「あ、思い出したわ。いたわ、たった一人だけ。私と一緒にベッドに入って、平然と朝を迎えた男」
彼女は真っ赤な唇を三日月のように吊り上げ、極上の囁きを残した。
「――フランよ」




