44. 死ねない
エレトはそっとシロウの首から手を放した。
シロウは動かない。
エレトの表情は長めの黒髪に隠れて分からなかったが、とうとうかつての英雄が、偽りの英雄を破ったのだと、スメラフィーズは大いに沸いた。
その声に応えるべく観客席を振り返って方々に拳を突き上げるエレト。この声援は全部自分の物だと噛み締める様に。
「エレト! エレト!! エレト!!」
――うるさいなぁ。
その大音量の歓声の川の中に、一筋光るものが流れて来てシロウの耳に入った。
――何だろう? こんなにうるさいのに、どうして聞こえるんだろう。
不思議と聞こえる。これはきっと耳を塞いでもちゃんと聞こえて来るものだ。胸に直接響く声。その声はずっとシロウにこう言っている。
「負けないで」
「死なないで」
この声はあの日からずっと聞こえていたもの。だけどそれだけじゃない。今シロウを呼び起こすもの。
「シ……オ……、シロウ……!」
「!」
シロウの名を呼ぶ声がする。
シロウは突然目覚め、声のする方を見る。それはエレトに背を向ける形になったが、どうしてもそうせざるを得なかった。
「なっ……?!」
それに気付いたエレトがギョッと倒れたままのシロウを見るがシロウは必死で声の元を探した。
前も後ろも大勢の観客に囲まれていて誰が誰だか分からないのだが、その声の道筋を辿る様にして見ると、そこには居る筈のない人物が身を乗り出していて何か懸命に叫んでいるのだ。
「シオウ……!!!」
「リヴ……!」
掠れた声でシロウが小さく答える。
そこで必死に口をパクパク動かしているのはリヴだ。
何万という観客の中、歴史的な瞬間ともいえる大声援の中、シロウはリヴの居る場所が分かって、リヴの声が聞こえる。
「ああ。……ああ!」
掠れた声に力がこもる。
「分かってるよ、俺は負けない」
あの時から俺は負けない。負ける筈がない。
シロウは心からそう思った。そして、力が湧いて来た。不思議な程に。
「もしかしたらこれってドープかもなぁ」
寝そべった状態からポンと跳ね起き、シロウはエレトを見て不敵に笑ってやる。
「エレさん、俺さ、残念ながらいくら強引に殺そうとしても死なないんだ。死なないから負けないんだ」
「……はぁ?」
エレトの顔はこんなだっただろうか、何度もそう感じていたけど、胡散臭そうに顔を歪めるエレトはとうとう別人に見えた。
もともと中に居た人格なのか、引退してから出来た人格なのか、分からないけど別人だ。
「もうエレさんじゃないなら、俺だって遠慮しねぇ」
シロウの顔付きが変わり、また観客席から聞こえる声にシロウへの声援が混じる。何故かエレトにはそれが、それだけが良く聞こえてしまうのだ。
「遠慮してたってのかよーっ! やってみろよーっ!」
激昂して突進するエレト。どんな技を出すのかと構えたがなんとそのまま頭から突っ込んで来てはシロウの額に激突する。いわゆる頭突きだ。まるであの時のイノシシではないか。それは強烈な一撃であったが……。
「ぐあああっ!」
そう言って額から血を吹き出したのはエレトの方だ。
「いってぇ~~。おいやめろよ! こんなカッコ悪い攻撃、エレさんはしねぇ! やっぱもうエレさんじゃねぇんだ!」
当然シロウもダメージを受けたが、エレトはシロウの言う通り、カッコ悪く自分で自分の額を押さえていた。
「カッコ悪くて何が悪い! 誰の為にカッコ付ける!? どうせこの試合結果次第で観客は手のひらを返すんだ!」
「何の話……おあっ!」
エレトがもう一度、血にまみれた額をシロウにぶつけてやろうと首をしならせながら迫ったのをどうにかかわす。
「金儲けなんて興味はねぇ! ただ俺はもう一度! もう一度すべての歓声を一人で浴びたかっただけだぁ!」
あまりにも幼稚で自分勝手なその願望はしかし、シロウには金儲けよりもよっぽど理解出来る動機だった。
この巨大な円形闘技場の観客一人一人、突き刺さる視線に全力で応える。それが出来るのはほんの一握りの戦士だけで、それは決して他に変わるものはないのだ。
「じゃあ今日はその願いが叶ったって事かよ……」
「ああ……、そうなると思ってた。思ってたさ……!」
エレトの表情がどんどん歪んでいく。
「戦えなくなった戦士は皆スメラフィーズを去る、だけど俺は動かない身体を引き摺って、他で生きていける気がしなかった。それでスメラフィーズの裏方の仕事に就いたは良いけどよぉ、毎日毎日俺の代わりに歓声を浴びる戦士をどう堕としてやろうかそればっかり考えてたなぁ!」
エレトの言葉はほとんど歓声に消えたが、シロウには届いた。
これが真実だからなのだろう。
エレトを善人だと思っていたシロウにとって、他国と取引を始める為にドープ薬を使ってエウレスを大きくするとか、そんなのは信じられなかった。だけどそれが自分以外の戦士を壊してやる為だとすると……信じたくはないが理解は出来る。もちろんそれが善だとは言わないが気持ちは分かってしまう。
「自分が墜ちちゃったら、意味ないだろうが」
「……ラーナ種を使って、お前ともう一度やれるんだぞ?」
さも不思議そうに、エレトは言った。最優先じゃないかと。
「なのによぅ、お前を応援する声が聞こえて来やがる。それもでけぇ声でよ。うるせぇなぁ!」
ヤケクソの様に撃って来る拳をシロウは冷静に手刀でかわし反撃まで繋げる。その剣先がエレトの鼻を掠め、真横に傷が入った。
「何だか別人みたいな表情してるけどさぁ、やっぱ高くてカッコイイよな、エレさんの鼻」
そこから噴き出す血を見て言うシロウ。自分の鼻なら届かなかったのではないかと。
「嫌いだぜぇ?! お前のそう言うこーゆーふざけたところぉ!!」
「うわっとぉ!」
出血してもエレトは休まずに攻撃を続けるが、やはりさっきまでよりシロウの身体は動いている。今や互角以上に戦えてるのではないか。
エレトのスピードもパワーもまだまだ衰えてはいないのだが、体力の消耗はエレトの方が激しそうである。
「死ねよっ!」
「死ねないんだって!」
本当に強いわけではない。それにこれは命の前借りの様なものなのだろう。シロウには何となくそう思えた。




