黒曜石のヒロイン:王国を救った貧しい少女の物語
夜明けが村を灰色のヴェールで覆っていた。
通りは冷たく、空気には灰と古いパンの匂いが混じっていた。
路地の影の中、エリーは凍えた手で食べ物の残りを探していた。
彼女のドレスはぼろ布同然、裸足の足は石畳の冷たさに震えていた。
誰も彼女を見ようとしなかった。
誰も挨拶しなかった。
彼女はただ──アルセリア王国に溶け込んだ、ひとつの影だった。
市場が閉まる頃、犬たちが残飯を巡って争っていた。
エリーはその光景を、離れた場所から見つめていた。
かつてパンの欠片に手を伸ばしたことがある。
そのとき、衛兵に警棒で殴られた。
「失せろ、クズが」
それが彼の言葉だった。
彼女は泣かなかった。
もう涙など、出ないほどに干からびていた。
ある夕暮れ──
空が赤く染まった時、一人の老女が、壊れた噴水のそばにうずくまるエリーを見つけた。
「どのくらい、独りだったの?」
老女は穏やかな声で尋ねた。
「わからない……ずっと前から、ずっと」
そう答えると、老女は腰をかがめ、手を差し出した。
「おいで。世界は変えられないけれど──あなたの“夜”は変えられるかもしれない」
エリーは戸惑ったが、その声にはどこか温もりがあった。
導かれるようにして、村の外れにある小さな小屋へとついていった。
そこには、暖炉の火が優しく揺れ、
空気にはハーブと焼きたてのパンの香りが漂っていた。
エリーは──何年かぶりに、恐れのない眠りについた。
──
時が経つにつれ、エリーは気づいていった。
老女はただの村人ではなかった。
王国を守ったかつての賢き魔女──世を離れ、静かに生きていた存在だったのだ。
村人の多くは彼女を知らなかった。
けれど動物は彼女に従い、
彼女の歩く跡には花が咲いた。
「与えたものは、必ず巡って戻ってくるのよ」
そう言いながら、老女はエリーに教えた。
ルーンの読み方、息で灯すロウソク、風の囁きを聴く技。
エリーは初めて、自分に意味があると感じた。
──
だが、その平穏も長くは続かなかった。
ある夜──北の山々が轟音と共に揺れた。
翌朝、伝令が告げた。
巨大なオーガが三つの村を滅ぼし、王都へと向かっている。
その肌は岩石のように硬く、吐息は炎のごとく、飢えに終わりはないと。
王は戦士たちを召集し、討伐者に莫大な報酬を約束した。
騎士たち、冒険者たち、王子レオールすら名乗りを上げた。
老女は家の前で村人たちを集め、厳かな声で告げた。
「そのオーガを力で倒すことはできません。
古の神々によって鍛えられた剣──それだけが、呪いを絶つ手段です」
「その剣は、どこに?」王子が問う。
「エコーの谷──黒曜石の岩に封じられています。
だが、その道は魂の試練。選ばれし者でなければ、辿り着けません」
沈黙が場を包んだ。
そして……エリーが一歩前に出た。
「私が、行きます」
笑う者がいた。
首を横に振る者もいた。
だが老女は、穏やかにほほえんで彼女を見つめた。
「清き心で挑むならば──剣はあなたを選ぶでしょう」
──
旅路は地獄だった。
最初は、茨の道。
一歩ごとに足を裂かれ、それでも彼女は進んだ。
血が、後を紅に染めた。
次に、岩の迷宮。
岩壁は名前を囁き、幻は彼女を「役立たずの乞食」と罵った。
それでも、心を真っ直ぐに保ち、進んだ。
最後に、恐怖の鏡。
そこに映ったのは、過去の自分──
埃まみれの顔、捨てられた少女、
「クズ」「いらない子」と呼ばれた声。
長く忘れていた涙が、流れた。
だが彼女は顔を上げた。
「私は、あの頃の私じゃない。
今を進む、私が“私”だ」
鏡は砕けた。
──
谷にたどり着いたとき──そこには剣があった。
光を宿した一振りの剣。
黒曜石の岩に封じられ、まるで心を見透かすような存在。
王子と騎士が、剣を引こうとしていた。
「……びくともしない」
騎士が唸る。
「ならば……我らは敗北だ」
王子の声は絶望に染まっていた。
そのとき、大地が震えた。
オーガの咆哮が山を震わせる。
その影は谷全体を覆い、
石が砕け、木々が燃えた。
怪物が──来たのだ。
王子は剣を掲げたが、
一撃で空に投げ飛ばされた。
騎士も挑んだが、
一振りで意識を失った。
エリーは膝をつき、震えながら見上げた。
オーガは笑った。
「お前は何だ?ただの虫けらか?」
エリーは、答えずに剣へと歩いた。
空気が重く、風が唸りを上げる。
オーガが怒声を上げ、棍棒を構える。
「来るな、クズが!」
──そして、エリーが両手を黒曜石に添えた瞬間。
鼓動が響いた。
もう一度──
そして、石が割れた。
まばゆい光があふれ出し、彼女の体が宙に浮かんだ。
白と青の輝きに包まれ、銀の鎧がその身を覆う。
瞳には決意。
手には、神々の剣。
彼女は天に掲げ、叫んだ。
「──声を奪われたすべての人のために!」
剣が空を切り裂き、
オーガの咆哮は光の爆発とともにかき消えた。
──
静寂。
残されたのは──
塵と化した怪物の残骸。
──
数日後、エリーは傷ついた王子と騎士を背負い、村に帰った。
王は涙を流して彼女を迎えた。
「お前は我々を救った。
一度ではない、永遠にだ」
そして、民の前で高らかに宣言した。
「黒曜石の英雄──この王国の守護者である!」
だがエリーは、静かに首を振った。
丘の下、老女が待っていた。
エリーはそのもとへと歩み寄り、微笑んだ。
「私は……栄光や金のために戦ったんじゃない。
あなたのために──戦ったの」
老女は、そっと彼女を抱きしめた。
「ならば、あなたは最も偉大な魔法を手に入れた」
「……それは、何?」
「優しさよ」
風が吹いた。
白い花びらが舞い上がり、二人のまわりを踊った。
夜明けが空を金色に染める中、
暖炉のそばで語られる物語には、いつもその名がある。
──エリー。
飢えと痛みを、勇気と希望に変えた、ひとりの少女の名前が。
終わり
物語を読んでいただきありがとうございます。気に入っていただけましたら、コメントをお願いします。私は短編小説を書き始めたばかりなので、どんなコメントでも助かります。また、よろしければ評価していただけると嬉しいです。




