第7話「命を狩る者」
正午の鐘が、サリオンの空に穏やかに鳴り響いた。
街の東門前、広場の一角には、十人の冒険者たちが整然と立ち並び、空気には緊張の膜が張られていた。陽光が石畳を照らし、淡い蒸気を帯びて立ちのぼる。
その時──
静かな足音が、街道の向こうから響いた。
二人の騎士が馬に跨り、ゆるやかにこちらへ進んでくる。だが、その歩みはただの移動ではなかった。通りすがる人々は自然と道の端に退き、まるで無言の敬礼を捧げるかのように姿勢を正す。幼子の手を引いた婦人が、息を呑みながらその威容を見上げていた。
彼らの纏うのは、王国騎士団──しかも中央直属の正式装備。
先頭を進むのは、灰銀の鎧を軽装に纏った女性騎士。銀灰の髪を高く結い上げ、肩を覆う緋色の薄衣は風に翻り、鋭い刃のような気配を放つ。腰に佩いた細身の指揮剣は、その立場を雄弁に物語り、曇りなき瞳は周囲の空気を一層引き締めた。
その背に続くのは、重装の槍騎士。黒鋼の鎧をまとった巨躯は歩みのたびに甲冑を軋ませ、無言の威圧が巨岩のように辺りを押し潰す。陽光を受けて黒鉄が鈍く光り、ただそこに立つだけで人々の視線を釘付けにした。
やがて二騎の馬は東門前に到着し、蹄が石畳に最後の音を響かせる。騎士たちは手綱を引き、動きを止めると、軽やかに鞍から降り立った。鎧の金具がかすかに鳴り、外套が風を孕む。彼らはすでに待ち構えていた冒険者たちへと視線を向け、互いの存在を確かめるように短く頷いた。
馬の首筋を一撫でし、二人は手綱を東門の駐屯職員に差し出す。
「頼む」──短い一言を残すと、職員は慣れた手つきで馬を引き取っていく。
ギルド受付官のリナが、きびきびと一歩前に出た。小柄な身体に事務服の裾が揺れるが、その足取りには一切の迷いがない。
「ご到着ありがとうございます。本件、“ラガル湿林調査同行”に関する推薦参加者──十名、全員揃っております」
リナの言葉の流れに淀みはなかった。これが一度や二度のやり取りではないことが、自然と伝わる。
「こちらに、各参加者の登録名、ランク、武具、申請時の備考等をまとめた一覧を」
差し出された革表紙のファイルを、前を歩く女性騎士が受け取る。
「確認します。……ご対応に感謝します」
彼女は淡く頷き、視線を冒険者たちへと巡らせた。どこか舞台に立つ俳優のような静けさと気品を漂わせている。
「王国騎士団所属、フィレーナ・クラウゼン。此度の調査隊の現場指揮を務める」
透明な声が、広場に緊張を刻んだ。
続けて、背後の騎士が一歩前へ出る。
「副指揮のグランツ・ドレイガー。戦闘判断および隊列管理を担当する」
名乗りだけで、場が締まる。
(……あの人たちが、“本物”の騎士)
エルドは、視線を逸らせなかった。
指揮官フィレーナの動きに迷いはなく、周囲の空気を読み取るように整っている。副指揮グランツの立ち姿はまるで石像のようだが、まるで一撃がすでに絞られているかのような緊迫を帯びていた。
自分の背にあるオルディアが、また僅かに重さを増したように感じられた。
──あの人たちから、学べるだろうか。
そんな感情が、初めて実感として胸に広がる。
すると、グランツが軽く周囲を見渡し、フィレーナにだけ聞こえる声で呟いた。
「……見知った顔が、数名いるな」
それを聞いてか、フィレーナの目が一瞬だけ僅かに細まる。
「心強いことだ。前線経験者がいるなら、統率もしやすいだろう」
名簿に視線を落としながら、彼女は冒険者たちを一人ひとり見渡した。
──この中の誰が、過去の依頼で彼らと共に戦ったのか。
エルドは知る由もなかったが、その視線の先に立つ者たちの中に、その“経験者”が確かにいた。
「──時間だ。出発するぞ、全員前へ整列」
グランツの鋭い一声が、広場の空気を引き締めた。
王国騎士団の調査任務。その響きに緊張感を纏った十名の冒険者が、音もなく歩みを進める。東門の鉄柵が軋むように開かれ、街の喧騒は徐々に背後へと遠ざかっていった。
「皆様、気をつけて。……無事に帰ってきてください」
門の前に立つリナの声は、柔らかさと祈りを含んでいた。だがその言葉に応える者は誰もいない。十二名の背が、ただ静かに門を越えてゆく。
「隊列は三列。先頭にフィレーナと俺。中列に冒険者五名、後列に残りの五名。指示があるまで、列を崩すな」
冒険者たちは黙って頷き、それぞれの位置に就く。足音が整列していくなか、カタニアは軽やかに一歩進み、背に交差する双剣を微かに鳴らしながら列の中腹に加わった。
エルドも列の後方へ移動しながら、無意識に背中のオルディアの重みを確かめた。
「湿林までは一刻ほどの行程だ。途中までは舗装された街道を進む。林の縁から先は足場が不安定になる。勝手な判断で抜けるな」
グランツの声は抑揚こそ少ないが、軍で鍛え上げられた命令の響きを持っていた。
「任務の目的は、“湿林地帯の安全確保”。数日後、王国騎士団本隊が、湿林を越えた先の古代遺構を調査に入る予定だ。その前に、ここを通る際の障害を取り除く。それが、今回の小規模討伐依頼の全てだ」
エルドの目が、思わず騎士の背へと引き寄せられる。あの遺構──言葉では語られていない、まだ見ぬものへの高揚と、それを前にした者たちの重み。騎士たちの足取りは、まるで道を知っているかのように迷いがなかった。
「近辺には牙ネズミ、スライムなどが出現する。視界は悪く、魔力濃度も不安定だ。何かを“感じた”時点で報告すること。討伐の判断は、俺かフィレーナが下す。勝手に斬るな」
フィレーナは何も言わず、ただ一歩前に出る。腰の剣に添えられた手の動きが、すでに警戒を始めていることを物語っていた。
エルドは緊張で喉を鳴らし、無意識にカタニアの横顔を見た。カタニアはと言えば、風のように穏やかに立っていた。背中の双剣も、彼の体の一部のように自然に揺れていた。
「単独行動は禁止。異常や敵影を見かけたら即座に報告。隊として動け。判断を誤れば、死人が出るぞ」
最後の言葉が、地に響くように投げられた。誰一人、言葉を返さなかった。沈黙の中、フィレーナが最後に確認するように小さく頷く。
街の喧騒が後方に遠のき、ただ足音と革の軋みだけが前方に続いていく。
いよいよ、湿林が彼らを迎えようとしていた。
ラガル湿林──それは、まるで地がゆっくりと眠りから目覚めるような景色だった。
湿り気を含んだ空気は重く、踏み締めた泥が靴底にまとわりつく。水辺に浮かぶ葉は腐食し、そこから漂う微かな甘酸っぱい匂いが鼻を掠めた。背の低い木々が密集し、どこかで小さな羽音と水音が重なって響いてくる。
前方を進む騎士団の二人──グランツとフィレーナは、まるで空気の抵抗すら受けないような身のこなしで道を切り開いていた。視線と歩幅、周囲の警戒。そのどれもが精密な計算と鍛錬の結晶だった。
(……これが、王国騎士)
エルドは列の後方で、ただ彼らの背を見つめていた。その動きのすべてが、剣で語る者のそれだった。観察というより、学びたかった──これが、“現場”にいる者の強さ。
「そろそろ接触範囲だな。足場注意」
グランツの声に、列が一拍遅れて反応した。
エルドも足元を見る。泥と草が交互に現れるぬかるみに、足跡が幾重にも残されていた。明らかに、最近通った形跡。
次の瞬間──ぬめるような気配が、水面の向こうに現れた。
「スライム。前方、藪の奥。三体──いや、五。……進行阻害。先に片付ける」
フィレーナが指示を出すと、グランツは無言で前へ出る。
刹那。
短く、鋭い風切り音が湿林に響いた。
フィレーナの一撃。黒革の鞘から抜かれた細剣が、ひと振りでスライム一体を切り裂く。次いで、グランツの鋼槍が空気を裂いて突き抜け、藪の奥のスライムが吹き飛んだ。
残る三体も、フィレーナとグランツの連撃により、スライムが一掃された。
泡のように弾け、泥の上に蒼黒いゼラチン質が散る。
冒険者たちは誰も口を開かない。ただ、その手際の良さにわずかに息を呑んだ。
(……早すぎる)
エルドは思った。躊躇がなかった。正確な位置、間合い、重量。まるで呼吸するように、倒していた。
だが──その直後だった。
「……気配が、違う」
隣から届いたその声に、エルドがはっとした。
振り向けば、カタニアがすでに双剣を抜いていた。
その構えに、思わず目を見張る。
左腕は肘を鋭く曲げ、左手の刃を首元のわずか下──喉を護るような位置に構えている。反撃を見据えた構え、だがその刃先には、わずかな揺れもない。
対して右手は、腰の横に沈めた刃を地面と平行に保ち、空気を裂く気配をまとっている。その姿勢は、まるで“次の瞬間には命を奪う”ためだけに最適化された、静かな捕食者のそれだった。
そして──その目。
さきほどまで見せていたあどけない少年の面影は消え失せていた。
瞳孔が僅かに絞られ、冷たい鏡面のような光が宿る。
それは、何かを躊躇う者の目ではなかった。
命を狩るための目。目の前の敵を、ただ的確に“処理する”ためだけに存在する、冷徹さの滲んだ視線だった。
続けて、エルドも気づいた。水音に混じる、獣の踏み音。
──牙ネズミ。
「右前方。来るぞ!」
誰かが叫ぶよりも早く、草を割って、三体の影が飛び出してきた。
鋭い牙を剥き出しにし、目の奥に暗い光を宿した、小柄で機敏な魔物。スライムの殲滅で注意が逸れたわずかな隙を突くように、跳躍してきた。
「二手に分かれろ! 対応は自由! 単独行動は禁止!」
グランツが叫ぶ。
冒険者たちがすかさず剣や杖を構える。
エルドは鞘に手をかけ、刹那、オルディアを抜いた。
──音が、確かに聞こえた。
剣が風を裂く音ではない。水面を揺らす“気配”の音。牙ネズミの動きの“予兆”を、刃が教えてくれる。
一体が飛びかかる──カタニアが踏み込む。
カタニアの左の刃が、突進してきた牙ネズミの首筋を裂き、右の刃が回転の勢いを利用して追撃に転じる。
斬撃は迷いなく、だが無駄のない最短軌道だった。
もう一体が背後から狙う──エルドが振り向きざまに一閃。
刃が肉を裂き、甲高い悲鳴が湿林に響いた。
その刹那。
「もう一匹、います」
背後で、女の声が低く響いた。
彼女の視線の先、倒れた牙ネズミの死角──そこに、不自然な“静けさ”があった。
振り返ると、前列のやや右──弓を構えた一人の影。エティア・ウィンセル。
彼女は構えた弓に矢を番えていない。ただ、視線だけを、左斜め前の低木へと据えていた。
──沈黙。だが、その場にいた数人だけが、確かに“察していた”。
草が一枚、風もないのに揺れた。
グランツが静かに言う。
「……他にも隠れていやがったか。アイツは泳がせろ。追跡で巣を炙り出す」
誰もが頷いた。
獣の影が、こちらを一瞥したのち──藪の奥へと音もなく姿を消した。
周囲の冒険者たちも、各々の武器を手に、呼吸を潜めていた。
エティアは弓をすでに構え、瞳だけで索敵を終えている。狙う気配はない。射るのは、あくまで命じられてから。彼女のそうした抑制された動きは、まるで“空気”のようで、場の緊張を一切乱さない。
「……追撃はする。だが、囮の可能性もある」
フィレーナが声を上げた。明瞭で、指揮官の声音。数名が短く頷き返す。
「群れを炙り出すには、一度、深く踏み込まなきゃならない。だが、無駄な犠牲は出さない。全員、隊列を整えろ。指示通りの三列だ」
「了解──!」
先ほどまで軽口を交わしていた冒険者たちも、声の緊張を一段階上げて応える。誰もが感じ取っていた。これは、ただの牙ネズミの群れ討伐ではない。何か“異質な気配”が、この湿林の奥にある。
「……エルド」
エルドの隣で、カタニアが小さく囁いた。
「気をつけて。こっから先は、“気配”が変わる」
(気配……?)
その言葉に、エルドは小さく反応する。
だがカタニアは、何かを悟ったように視線を逸らし、わずかに肩を竦めた。
「……いや、何というか。こっちは“感覚”で言ってるだけ。勘、みたいなもの」
苦笑するような口調だったが、その目はどこか鋭さを失っていなかった。
エルドは静かに頷いた。
気配の尾を追って、調査隊は湿林の更に奥へと進む。
ただの牙ネズミの巣穴か。それとも、それ以上の何かが待っているのか──