第6話「集いし十人」
朝のギルドの空気は、いつもより張り詰めていた。
広間の片隅、木製の掲示板の前に、冒険者たちが列をなし、一人ずつ名前を記入していく。推薦依頼の参加記録──リナの手元の名簿には、すでに八つの名前が並んでいた。
ロビーの長椅子には数名が座り、壁際にも無言の冒険者が数人、黙って立っていた。
その空気が、まるで“試されている”かのようにエルドの背に重たくのしかかってくる。
鋲打ちの鎧を着込んだ大柄な男は、腕を組んだまま鋭く視線を投げていた。年若い魔導士風の少女は、厚手のローブに身を包み、膝に乗せた魔導書を静かに読みつつ、視線だけを斜めに流す。
──視線を合わせてはいけない。そう思うのに、視界の端に緊張が滲んでくる。
そんな中で、ひとりだけ。
背に大きさの違う二本の剣を負った少年だけが、こちらに軽く目をやり、ほんの僅か──微笑んだ。
(……俺は、ここにいていいのか?)
エルドは胸元の剣の感触を頼りに、そっと深呼吸した。
背負った革鞘の中の“あの剣”は、今も静かに重みを持ち、彼の中心に沈んでいた。
「次、お願い。あっ、エルドくんね、来た来た。はい、名前と到着時刻、記録するからこっち来て」
「はい……!」
リナの声に促され、エルドはペンを取り、慎重に名を記した。
──エルド・クラヴェル
細やかに記された文字を見て、リナが小さく頷く。その目は仕事に忠実で、だが、どこか柔らかさを残していた。
「これで、九人目ね。予定通り、あと一人」
エルドが記入を終えたちょうどそのとき、ギルドの扉が静かに開いた。
誰も振り返らなかった。特別な音でもなければ、遅れたわけでもない。ただ、ごく自然に、最後の一人が入ってきて、後ろへと並んだ。
その人影は、やがてエルドの隣に立った。
細身の弓を背にし、風をまとうような気配を纏っていた。歩く姿に無駄がなく、淡く色づいた黒緑の髪が肩で揺れる。戦場に出ている者特有の、どこか研ぎ澄まされた空気。
女性だった。
視線を上げたエルドと、その瞳が、ふと交差した。
淡く、深い緑。鋭さと静けさが同居するその瞳は、彼を見たわけではなく──見透かしたように、ただ“捉えた”。
言葉はなかった。
その一瞬の交差が、何かを告げたわけでもない。ただ、確かにそこに「違い」があった。
「……確認できたわ。全員揃ったみたい」
リナが言い、手元の書類を重ねた。声の響きに、集まっていた冒険者たちが一斉に顔を向ける。
「これより、推薦依頼“ラガル湿林調査同行”の詳細を伝達します」
広間に軽くざわめきが生まれ、それはリナの声で静まっていく。
「今回の推薦任務『ラガル湿林調査同行』は、王国騎士団からの直接依頼です。目的は──湿林を越えた先にある、未調査の古代遺構の調査準備。そのための、安全確保が我々の任務になります」
冒険者たちの間にざわりとした気配が広がる。古代遺構。騎士団。誰もが、その言葉の重みに反応した。
「道中、湿林地帯では牙ネズミなどの魔物が確認されていますので、討伐をお願いします。但し、“強化個体”が確認された場合は、発見のみで報告優先。戦闘は避け、指揮官の指示に従ってください。遺構への本調査は後日、騎士団本隊が行います。それと、昼に東門で王国騎士団所属の“二名”と合流予定です。合流の後は、隊列と指示系統に従うこと。……質問は?」
リナの口調は穏やかだったが、その視線は鋭く一人ひとりを捉えていた。
説明が終わり、ロビーの空気が動き出す。
「東門までは私が引率します。到着してから合流まで少し時間がありますが、装備を整える場合は現地からはなるべく離れないようにしてください。」
それぞれの冒険者たちが無言のまま立ち上がり、道具袋の紐を締め、鞘の革を確かめ、目線を前へ向けていく。
推薦依頼の参加者たちは、リナに引率されてギルドを後にし、石畳の街路を東門へと向かっていた。朝の市場を抜けると、人通りは徐々に少なくなり、街外れの風が頬を撫でていく。
エルドは列の中央あたり、背の低い少年──ギルドで目が合った少年と並ぶ位置を歩いていた。といっても、肩を並べるほどの近さではない。他の冒険者たちと同様、半歩の距離を置きながら、それでも視界の端には彼の姿があった。
──大きさの違う二本の剣。
背に交差させるように帯刀されたその武器は、少年の身の丈に対してやや大きく見えたが、不思議と不釣り合いには思えなかった。歩みは軽く、身体の動きにも無駄がない。あれが飾りでないことは、一目でわかる。
「……その剣、不思議だね」
不意に、隣から声が飛んできた。エルドはやや驚き、視線をそちらへと向ける。
「え?」
「ああ、ごめん。いきなり話しかけて。自己紹介してなかったね」
少年は気まずそうに笑い、小さく手を挙げた。
「僕はカタニア。カタニア・ウィンセル。Eランクの双剣士だよ」
「エルド・クラヴェル。一昨日登録したばかりで、Fランクです」
「そっか、じゃあ今回の推薦は、エルド君もギルド経由ってことだよね?」
「……ああ、たぶん、そうなると思う」
「ふふ、エルド君、って呼ぶとちょっと固いかな。エルド、でいい?」
「うん。エルドでいいよ」
反射的に名乗り返したが、内心では別の驚きが湧いていた。
──Eランク?
そういえば、この年齢でギルドの推薦依頼に? 一瞬、ギルド側の誤認かとも思った。だが、背中の剣の馴染み具合、歩き方、そして何より空気の抜けたような自然な佇まいが──彼が“場馴れ”していることを物語っていた。
(……剣の腕は、確かなんだろうな)
カタニアは、ぽつりと続けた。
「さっきの剣──形が面白いなって思っただけ。何というか、普通の鍛冶剣とも違う感じがしたから」
「あ……うん。自分で鍛えたんだ。俺、鍛冶屋の見習いだったから」
「へぇ、自分で?…すごいね」
純粋な驚きと、どこか楽しげな響き。疑いも、羨望もない、ただの興味としての言葉だった。
「そういえば、その剣──何ていうか、“意思を持っている”ように感じるんだよね。いや、気のせいかもしれないけど」
──意思?
思わず聞き返しそうになったが、エルドは寸前で口を閉ざした。意思のみならず、剣から音を“聴く”という感覚こそ、まだ他人にうまく説明できるものではなかった。
カタニアはすぐに話題を変えた。
「さっき、ギルドを出る時に、姉さんが君のこと話してたよ」
「姉さん?」
「ああ、エティアって言うんだ。あの、弓を背負ってる女の人。──俺の姉さん」
カタニアはそう言って、前方を指で示した。
列の先頭から三番目──東門へと続く街道の光の中で、カタニアと同じ色、黒緑の髪が朝陽に揺れていた。ギルドで見た女性だ。背中には長弓、腰には複数の矢筒。そして一歩ごとの軌道が、まるで風のように滑らかだった。
エルドは思わずその背を見つめた。
「あの人が……」
「うん。まあ、ちょっと無口だけど、悪い人じゃないよ」
エルドが再び前を向くと、カタニアは軽く笑った。
「それにしても、この依頼……結構本格的みたいだよね。いかにも凄腕の二人と合流するって話だったし。
「そうだな……。湿林の調査、か」
──そして、古代遺構。
街の端が見えてきた。石造りのアーチを越えれば、そこはもうサリオンの外縁。湿林へと続く道が、まっすぐに伸びていた。
エルドは背中の剣の感触を確かめながら、一歩を進めた。
◇◇◇
東門が視界に入った瞬間、エルドは緊張で息をのんだ。
広場の端にある門塔の上には、まだ見張りの兵士が一人立っているだけ。騎士団の姿は、まだなかった。
朝陽が城壁の上から差し込み、石畳に斜めの影を落としている。門前に広がる広場は、すでに出入りする荷馬車や見送りの人々でそこそこ賑わっていたが、重装備の彼らの隊列が現れると、周囲の視線が自然と集まった。
リナが一度立ち止まり、後ろを振り返る。
「ここが東門。騎士団のお二人は、昼前には到着すると思うわ」
数人の冒険者が無言で頷いた。緊張感はまだ消えない。
「このまま待機になります。装備の点検はこの場で済ませてください。……飲み水の補充も今のうちに。それと、あまり門から離れないように」
リナは最後列まで視線を巡らせながら、隊列の崩れを確認する。
「それと、出発前にもう一度だけ確認を。道中、牙ネズミや小型の魔物の出現が想定されます。戦闘の判断は現場で個別に。──ただし、“強化個体”と見られる存在を発見した場合、交戦は避けてください。報告優先です」
その言葉に、前方の冒険者たちがそれぞれ頷いた。カタニアは不安そうに背の双剣を確認し、エルドは手袋越しに剣の鞘に指を添える。
「……あとは、指揮官と合流してから。皆さん、お疲れ様。少しの間、自由行動です」
リナは一礼し、東門脇の詰所へと歩いていった。
エルドは、門の端に腰を下ろし、背の剣を外さないまま、水筒の蓋を開けた。
──午刻まで、あと少し。
誰もが静かに呼吸を整え、これから始まる任務の重みに備えていた。
遠く、門の先に広がる森の稜線。その向こう側に、ラガル湿林が広がっているはずだった。
けれど、今はまだ、その“深さ”を誰も知らない。