第5話「推薦状」
午後の陽射しが、瓦屋根の上で柔らかな光を放っていた。サリオンの街は、昼の喧騒がピークを迎える時間帯だった。
市場通りでは、香辛料を山のように積んだ商人が声を張り上げて値を叫び、果物を売る店の前では子どもたちが駆け回っている。道端に据えられた給水塔からは、澄んだ水が涼しげに流れ落ち、空気には干し肉と焼きたてのパンの香りが混じっていた。
そんな喧騒を通り抜けながら、エルドは静かに歩を進めた。革の鞘に収めたオルディアを背に、真っすぐに──ギルドへ。
ギルドの扉を押し開くと、街の音が一気に後方へ遠のき、代わりに皮鎧の軋む音、酒瓶がぶつかる音、紙のめくられる音が耳に入ってくる。木床を踏みしめる音が、妙に高く反響した。
受付には、見慣れた顔があった。
「おかえり、エルドくん。……思ったより早かったね」
受付嬢・リナが微笑を浮かべて言った。栗色の髪を後ろでまとめた彼女は、どこか姉のような親しみを感じさせる人物だった。
「依頼先が近かったので。──牙ネズミの討伐依頼、完了です。四体討伐しました。これが証拠の牙です」
エルドは布袋を差し出す。リナはそれを慎重に受け取ると、革手袋越しに一つひとつを確認し、頷いた。
「問題なし。討伐確認済み。指定数より一体多いようね。じゃあ、報酬の準備するね……それと──」
リナが顔を上げた。
「明日の朝に出発の“緊急依頼”の話、聞いた?」
エルドは一瞬、表情を止めた。
「いえ、まだです」
「だよね。今朝、上から通達が降りたの。君、推薦候補に入ってる」
リナの声は驚きというより、困惑に近かった。
「本来はDランク以上を推奨する依頼なんだけど……人数が足りなくて、急ぎで補充が必要みたい。ラガル湿林の探索同行。──これは、ウチの支部の判断で推薦になったの。断っても問題はないけど……」
「……推薦?理由は?」
「“剣技に優れた新人”って項目に該当したらしいよ。保証人が鍛冶屋って話も、たぶん参考にはされたと思う。でも、優遇ってほどじゃないよ。いろんな条件が重なったってこと」
エルドはしばらく考え込んだ。視線が、リナの背後に並んだ掲示板の緊急依頼へと向く。
──剣の扱い、か。
たしかに、鍛冶屋育ちという点だけなら、似た者は他にもいるだろう。だが、自分の手で鍛え、自分で“音”を聴く剣を持っている冒険者が、果たしてどれだけいるだろうか。
そのとき、オルディアの柄に手が触れた。わずかに指先に“響き”が伝わってくる。──昨日の戦いの余韻だろうか、それとも……
「決断は今じゃなくてもいいよ。まだ報酬の計算もあるし。今日は依頼を続けるつもり?」
エルドは静かに首を振った。
「いえ。今日は……ここまでにしておきます」
「了解。じゃあ、緊急依頼のことは、明日の朝、出発の時までに返事をちょうだいね。当日の参加者をまとめて本部に提出することになってるから。来なかったらキャンセル扱いだからね」
リナはそれだけ言って、再び事務作業に戻った。
ギルド内のざわめきの中、エルドは一人、掲示板の前に立つ。
【緊急依頼】ラガル湿林/調査同行
・対象ランク:D以上
・依頼種別:小規模討伐
・目的:湿林の安全確認および獣種の駆除
・場所:サリオン東側/ラガル湿林
・期間:二日間程度
・報酬:変動制(発見物と危険度に応じて)
・備考:経験不問。武器保持者優遇。支部の判断により剣技に優れた新人の推薦可。
緊急依頼に見入っていると、リナが再び奥から顔を出し、エルドに向かって手招きした。
「エルドくん。少しだけ、いい?」
カウンター脇の小机に誘われるまま、彼は再び受付に戻った。書類の束を胸に抱えたまま、リナはわずかに声を落として話し始める。
「さっきの緊急依頼の件、もう見たわよね?」
「……ええ、掲示板で」
「本来、あの依頼はDランク以上の対象なの。でも、例外的に“推薦”されたの。あなたが」
エルドは目を瞬いた。
「俺、まだ登録したばかりです。それに、まだFランクです。」
「それでも、目に留まったってこと」
リナは言葉を切って、少しだけ表情を和らげた。
「戦い方は、見られていないかもしれない。でもね、剣の扱いって、何も振るうだけじゃないの」
「……え?」
「道具を背負う姿勢とか。受付での立ち居振る舞いとか。剣に触れるときの手つき──そういう“目に見えない何か”を感じる人がいるのよ。ちゃんと、武具を相棒として扱っている人の気配」
彼女の視線が、無意識にエルドの背の剣に向いた。
「たとえば、あなた。さっきの証明提出のときも、牙の扱いがとても丁寧だったし、提出前には手を軽く拭ってた。些細なことだけど、そういう仕草は、案外見られているものなの」
エルドは黙って聞いていた。
「誰が推薦に名を挙げたかは、私からは言えない。でも──ギルドの中にはね、そういう“目利き”がいるの」
それはつまり、誰かが見ていたということだ。
剣を振るわぬ場面であっても、“在り方”を。
リナは、微笑を浮かべながら言った。
「この推薦状、誰にでも渡せるものじゃないわ。──ちゃんと、あなたが手にしていいと思ったから、これ」
彼女が差し出したのは、一枚の羊皮紙。
そこには、確かに“彼”の名と、推薦の印が記されていた。
「受けるかどうかは、あなたの自由よ。でも──」
彼女はほんの一瞬、視線をそらした。
「冒険者としての“最初の一歩”に、ふさわしいかもね」
サリオン支部の奥、半地下にある「記録閲覧室」は、冒険者なら誰でも出入りできるが、訪れる者は決して多くはなかった。棚に並ぶ報告記録の数々、古びた依頼書の写し、討伐証明の実例──それらを黙々と眺める空間は、情報の宝庫でありながら、熱気とは無縁の静けさに満ちている。
蝋燭の明かりが揺れる中、エルドは渡された推薦状をそっと広げた。リナが奥から手渡してくれたものだ。表紙にギルドの紋章が刻印されている。
中には、依頼掲示板では見られない、詳細な経緯と補足情報が記されていた。
【推薦状】エルド・クラヴェル殿
〈依頼概要〉ラガル湿林調査・補助随行
〈目的〉古代遺構(王国騎士団調査予定地)への進路であるラガル湿林の安全確保
〈補足〉遺構へ至るラガル湿林周辺にて、牙ネズミなどの小型魔物の発生が増加中。強化個体や縄張り化の兆候もあり、王国騎士団の本調査前に危険排除を求める。
〈備考〉道中には視界不良区間、軟地帯、多湿。武器保持者、特に剣技に優れる者を優遇。支部の判断により新人帯同を認可する
「道中で、また牙ネズミか……」
思わず漏れた声に、隣の資料棚の向こうから「へえ、読んだか」と低い声がした。
姿を現したのは、渋面の男だった。ギルド支部運営官──ダナス・ミール。
練れた革の上着と、手に下げた帳簿。いかにも管理職然とした出で立ちだが、その鋭い眼光には、ただの事務官ではない何かを感じさせた。
「王国の依頼ってのは、いつも直接じゃない。今回も“騎士団”が調査する前に足場を整えろって話だ。ま、お前の剣が少しでも役立つなら、価値のある推薦だ」
ダナスは続けた。
「……あの剣の扱い方、悪くなかったな。いや、見たってわけじゃない。出立前の所作、鞘の馴染み、重さのバランス──間違いないと“感じた”よ」
「間違いないと“感じた”、って……?」
「武器ってのは、構えずとも感じるんだ。何を持ち、どう歩くか、それだけで十分に伝わることもある」
エルドは言葉に詰まった。
(──まさか、そんなところまで……)
「リナから聞いた。保証人、鍛冶屋のベイリク・アルベルだってな」
「……はい」
「なら、こっちも背中を押さないとな。ま、失敗したら推薦状は回収して終わりだ。
だが──
ダナスは僅かに口元を緩めた。
「成功すれば、お前は“剣を持つ意味”を得ることになる」
それだけを言い残し、ダナスは階段を上っていった。
残された蝋燭の灯りの下、エルドは改めて推薦状を握りしめる。彼が推薦者で間違いなさそうだ。
まだ震えている。あの剣を抜いてから、まだ一日も経っていない。未熟さは否定できない。それでも──
「……俺が行く意味を、見つけたいんだ」
そう呟くと、エルドは小さく息を吐き、推薦状を折りたたんだ。
それは、ただの紙切れじゃない。誰かの命と、責任の橋渡し。
ギルド支部の扉をくぐったその先。ラガル湿林は、明日エルドを待っている。
棚に並ぶ報告記録に夢中になってしまい、ギルドを出た時、空はすでに夕暮れの色を滲ませ始めていた。サリオンの町並みに、鉄と煤の香りが沈み込む。低い雲が西に流れ、炉煙と混じって赤く溶けるように滲んでいた。
石畳を歩く足音は、自分のものだけ。行き交う商人の声も、閉じかけた露店の掛け声も、妙に遠く聞こえた。
──明日、ラガル湿林へ向かう。
エルドは右肩の鞄を握り直した。そこには、予備の包帯と火打石、干し肉に簡易地図。そして、工房を出る前にベイリクから渡された革袋には、硬貨が少しと──旅路で使うために、自分で削った木製の道具類が収まっていた。
静かな石畳を歩き、ギルド近くの宿屋の灯を見つけた。
中に入ると、帳場の奥で小太りの店主が顔を上げる。
「一泊300Gだよ」
エルドは腰袋を探り、手のひらに重い硬貨を掬った。
「お願いします」
硬貨を数枚、木の机に置くと、乾いた音が響いた。
店主は手際よく数え、短くうなずく。
「三階の奥、右手の部屋だ。鍵はこれだよ」
差し出された鍵を受け取りながら、エルドは一瞬、深く息を吐いた。
自室に入ると、エルドは背負ったオルディアをそっと台に置いた。革の鞘が擦れる音が、小さく部屋に響く。
「……また、聴こえるのかな」
ぽつりと呟いて、彼は剣を見つめた。
“音を持つ剣”──それが何を意味するのか、まだ分からない。だがあの戦いで確かに聞こえた「響き」は、幻聴などではなかった。刃を通して、どこか自分以外の意識と繋がったような感覚。
あの一撃を、明日もまた使えるだろうか。
ベッドの脇に腰を下ろし、懐から紙を一枚取り出す。推薦状の写しだった。剣技に優れる者──それが今の自分だと、まだ信じきれない。
指が、震えていた。
何が怖いのか、自分でも分からない。魔物なのか、戦うことなのか、それとも──“自分が何者かになる”ことへの怖れか。
目を閉じると、ふいに師匠の言葉がよみがえった。
『“オルディア”。……お前の剣の名だ』
『……ちゃんと、聴かせてやれよ。“音”ってやつをさ』
『……戻ってきたら、折れた刃の一本くらい、鍛え直してやる』
あの言葉が、胸の奥を温かく叩いた。名も無き剣に「名」を与えてくれた。だからこそ、自分はこの剣を振るって“名に恥じない”戦いをしなければならない。
ふと、窓の外から遠く鈴の音が聞こえた。夜警の通報だった。もう、寝る時間だ。
エルドは立ち上がり、鞘に入ったオルディアを丁寧に布で包んだ。そして、鞄の横にそっと置いた。
今夜は、もう鍛冶場の火はない。だが、自分の中にだけ──まだ赤く、微かに火が灯っている気がした。
「明日、見せるよ……俺が、この剣を信じる理由を」
誰に言うでもない言葉が、夜の部屋に消えていった。
そうして、エルドは横になる。世界はすでに動き始めている。自分も、ようやく“その音”に追いつこうとしているだけだ。
明日、ラガル湿林へ向かう。剣を携え、“名”を宿し、そして──何かを探すために。
夜が静かに、幕を下ろす。