第4話「はじめての依頼」
陽は、まだ街の屋根を越えていなかった。
サリオンの東門には、早朝特有の清澄な空気が流れている。冷えた石畳に霧の気配が漂い、朝焼けの色を微かに含んだ光が、門塔の石壁に斑をつくっていた。
その門の前、ひときわ大きな街道を背に立つ一人の少年の姿があった。
肩には革の鞘に収めた片刃の長剣。背負い袋には最低限の野営具と応急薬。まだ硬さの残る新調の革靴が、音もなく石畳を踏みしめている。
エルド・クラヴェル。
王立鍛冶工房を離れたばかりの新米冒険者。今日が、冒険者として“最初の任務”となる日だった。
東門の番小屋の窓口に近づくと、朝番らしい壮年の門番が書類を読んでいた。無精髭に寝ぐせのついた栗毛頭、半開きの目が、こちらの気配に気づいてゆっくりと持ち上がる。
「……おう、そっちの兄ちゃん、冒険者か?」
「はい、昨日登録を終えました。エルド・クラヴェルと申します。ギルドからの正式依頼で、村外れまで“牙ネズミ”の討伐任務です」
エルドは胸元から、冒険者証を取り出して提示する。羊皮紙を折り込んだそれは、簡素な木枠に嵌められ、冒険者番号と署名、そしてヴェルム王国ギルド印章が淡く刻まれている。
門番は片手でそれを受け取ると、書見台に置いてひとしきり目を通した。
「……クラヴェル、クラヴェル……あぁ、いたいた。“牙ネズミ討伐”か。依頼地は北東の“ネルスの森”か。ネルス村の近くだな」
「はい、今日の日没までに戻る予定です」
「そうか。牙ネズミってのは……まあ、新人にはちょうどいいかもな。最近はちょっと大きくなってるって報告もあるが、依頼件数の討伐さえできれば合格ラインだ」
「承知しています」
門番はふむと頷き、机の脇から出発証の簡易羊皮紙を取り出した。エルドに名前と時刻を記させると、それを木札に留めて掲示板の欄に差し込んだ。
「じゃ、行ってよし。気をつけてな、あの辺りは早朝は霧が出る。獣の匂いが残ってたら、獣道を使わず農道から迂回していけ」
「はい、ありがとうございます!」
エルドは一礼し、背負った剣の感触を確かめるように、背筋を伸ばした。
まだ胸の奥に残る微かな緊張が、冷えた空気と一緒に肺の奥を満たしている。
──これが、俺の“最初の依頼”だ。
門の外。開けた原野の向こうには、霧に霞む林と、陽の光を受けてきらめき始めた草露が広がっていた。
オルディアの鞘が、わずかに音を鳴らした。
風か、自分の心臓か、あるいは──剣自身の鼓動か。
サリオンの街門を抜けると、視界は一気に広がった。
灰色の外壁が後方に遠ざかり、東の地平線に向かって、なだらかな丘陵と森の縁が連なっている。朝霧はまだ地を這うように漂っており、そこかしこに浮かぶ農家の煙突から、薄い白煙が空へと溶けていた。
街道を一歩、また一歩と踏みしめるたび、靴の裏に乾いた土と露を含んだ草の感触が交互に伝わってくる。踏みしめた足の裏から、旅が現実味を増してくるようだった。
エルドは軽く深呼吸をした。
朝の空気は清冽で、肺の奥を刺すような冷たさとともに、微かな焦げ草の香りを含んでいる。誰かが畑を焼いたのだろう。
「……なるほど、ギルドの地図だと、この先を北東に入ったら“ネルスの森”か」
腰の袋から折り畳んだ羊皮紙を取り出し、辺りと見比べる。ギルドが発行する地図は簡略だが、主だった獣道や農道、注意すべき魔物の領域が赤印で示されていた。
道中、農民らしき中年男とすれ違うと、彼はエルドの背中の剣をちらりと見てから、口を開いた。
「ひょっとして牙ネズミの討伐かい?」
「ええ。ネルス村の近くの依頼です」
「なら、森の入口んとこに柵が壊されたまんまの小屋がある。あそこが一番出るぞ。用心しな」
「ありがとうございます。気をつけます」
男が通り過ぎ、再び静寂が戻る。
森へと続く分岐路へ差しかかったとき、エルドはふと立ち止まった。
まだ何も始まっていないはずなのに、胸がざわついている。
剣を鍛える作業とは違う。戦うという行為の“先”にある何かを、彼の本能が察知している気がした。
剣──オルディアに、そっと手を伸ばす。
鞘の上からでも、刃の中にある音が、微かに揺れているのが分かった。
「……なんだろう、この感じ。胸の奥が、揺れてるみたいだ」
耳を澄ませば、遠くから鳥の囀りのような、風のざわめきのような音がする。
それが自然の音なのか、剣が拾っている“異音”なのか、彼には判別がつかなかった。
オルディアは、ただの剣ではない。
素材は彼が自ら採集した奇妙な鉱石。誰に教えられたわけでもなく、師匠の目を盗んで作り続けた剣。その鍛造のすべての段階で、エルドは“音”を頼りに仕上げてきた。
だがそれは、戦場のために生まれた剣ではなかった。
“音を聴く”ための剣。あるいは、“音が応える”剣。
そんな剣で、果たして魔物と渡り合えるのか?
思考が、不安に染まる前に。
エルドは小さく息を吐き、背筋を伸ばした。
「──いいや。こいつは、俺にしか持てない剣だ。だったら、俺が信じるしかない」
剣を背に戻し、足を踏み出す。
森の入口へと、一本道を進んでいく。
草の影が揺れる。
風の中に、微かに鉄と獣の匂いが混じっていた。
森は、思っていたよりも静かだった。
ネルスの外縁に広がる光景は、“森”というよりも雑木林に近い。広葉樹の葉はまだ朝露を抱き、陽が差し込むことで細かな光の粒となって舞っている。足元には、踏みならされたような細いけもの道と、農夫たちが敷いた古びた柵の残骸。──牙ネズミが好んで通るという、例の小屋跡はもう間もなくだ。
エルドは歩をゆるめ、慎重に周囲の気配を探った。
風が木々の枝を擦らせ、どこか遠くで鳥の羽ばたく音。虫の声、落葉の乾いた音。それら全ての“音”を、エルドは無意識に拾っていた。
──トン、トン……。
何かが、地面を叩くような微細な音。耳ではなく、背負ったオルディアが微かに振動した気がした。
「……いるな」
思わず漏らしたその声は、風に溶けた。
剣に手を添える。まだ鞘からは抜かない。だが、音の感覚は確かだった。
──ギギィ……。
小屋跡が見えた。
朽ちた木壁、破れた柵、誰もいないはずの空間に、“気配”がある。視覚よりも先に、音がそれを伝えてきた。
エルドは低く構えた。鞘の中で、オルディアが静かに鳴る。
──シャッ。
瞬間、木の陰から影が滑り出た。
灰色の毛並みに、細長い胴体。牙ネズミだ。野ネズミを一回り大きくした程度だが、その鋭い牙は鉄釘すら噛み砕く。単体では脅威でないが、複数で行動することが多く、家畜や農具を襲う被害が相次いでいた。
一匹、二匹、三匹、四匹──
エルドは息を潜めた。まだ動かない。
この依頼の報酬は、討伐数に比例する。加えて、捕獲した牙を提出すれば、追加の銀貨がもらえると書いてあった。
──待て。今じゃない。
音が告げる。足音のリズム。警戒の気配。奴らの嗅覚。──一匹が鼻先を持ち上げ、こちらに気づいた気配を見せる。
その瞬間、エルドは跳ねた。
抜刀。風を切る音。初撃──刃は鈍く、斬れ味はお世辞にも良いとは言えない。だが“音”が教えてくれる。どこを打てば硬く、どこが脆いのか。
「──ッ!」
鋼の音が跳ね返り、牙が交差する。
一体、二体──だが群れは四匹以上。多い。
──これが、戦うということか。
鍛冶の現場では、火花と向き合うことに慣れていた。だが、血の匂い、動物の熱気、恐怖が混じるこの空間は、全く別の世界だ。
だが、引かない。
「──来いよ。俺は逃げねぇ」
誰に向けた言葉でもない。ただの独り言だ。
オルディアを握り直す。
そのとき、剣の奥で──微かに“鳴った”気がした。
まるで、応えるように。
剣が、彼の意志に反応したかのように。
一拍の静寂。
風が揺れる。その下で、牙ネズミの群れが一斉に動いた。
四匹。同時に突っ込んできた。
「っ……!」
咄嗟に、エルドは足を横へ跳ねさせた。硬い地面にブーツが滑る。直後、地面を抉る牙の音が響いた。もし反応が一瞬でも遅れていたら、脛に深い裂傷を負っていたかもしれない。
一体が間合いを詰めてくる。咆哮とともに、その牙が肩を狙う。
が、剣が先に動いた。
「はぁっ!」
刃が軌道を描き、牙ネズミの頬を掠めた。鈍い音。完全に切り裂けたわけではないが、勢いを削ぐには十分だった。奴は悲鳴のような鳴き声を上げ、後方へ飛び退る。
エルドの呼吸が乱れる。肩が上下する。鼓動がとても早い。
──まだ三体いる。
そのうち一体が後方に回り込もうとしていた。視界の外。だがエルドは感じ取った。
──シャリ……。
枯れ枝を踏む音。風の揺れとは違う、妙な“歪み”。
耳ではなく、背中から伝わる微振動。
「……来るっ!」
振り返りざま、大きく剣を振り抜く。
ザン、と鈍い衝撃。勢いをつけて飛びかかってきた牙ネズミが、回避しきれずに胴を斬られて地面を転がった。
──当たった。見えなくても、感覚が告げてきた。
いや、違う。これは……音だ。
オルディアが震えている。
鞘の中、剣身のどこかが“共鳴”していた。攻撃を受けた場所。振動した音が、エルドに敵の“位置”と“重さ”を教えてくれていたのだ。
「……まさか」
そんな力が、この剣に?
だが、思考は中断された。
残る二体が左右から挟み込むように走ってくる。
右の個体は小さめ、左はやや大柄だ。──狙うなら右。先に数を減らす。
「うおおおッ!」
エルドは地面を蹴った。前へ。迎撃ではなく、先手を取る動き。
剣を抜いた。鞘の鳴る音が一瞬、空気を震わせる。
重さはあるが、握り慣れた自作の剣。斬撃が一直線に突き出される。タイミングを見誤れば、ただの空振りになる。
だが──剣が、鳴いた。
ヒュン、と音が走った。
直後、右の牙ネズミが衝突し、勢いごと弾かれた。真っすぐに貫くのではなく、相手の動きと重心に合わせて「ずらした」突き。視覚ではない。音が告げていた。敵の体重移動、地面の擦れ、跳躍の角度を。
──オルディア“と”戦っている。
我に返ったエルドの足元で、一体が痙攣していた。
「……やれる」
目の前の世界が、違って見えた。
音が形になっていく。枝の揺れ、風の舞い、動物の気配、呼吸、鼓動──すべてが“微かな音”になって空間を描いている。
そして、そのど真ん中に、自分がいた。
残る一体。最後の牙ネズミが、怯えもせずに飛びかかってきた。
「もう一発……!」
今度は横から薙ぐ。剣身は重いが、手に馴染んでいた。
そして──剣が応えた。
金属音が響いたとき、エルドの動きに“迷い”はなかった。
──ザンッ
叩きつけられた最後の一撃で、四体すべての動きが止まる。
呼吸が乱れる。手が震える。剣を握ったまま膝をついた。
これが、“命”を奪うということ。
これが、“命”を守るということ。
エルドは、ゆっくりと顔を上げた。
風が森を渡り、草葉が擦れる音が聴こえる。
血の匂いが鼻を刺し、遠くで鳥が羽ばたく。
だが、不思議と静かだった。
耳の奥で、剣が静かに──“響いて”いた。
まるで、エルドの中の何かを確かめるように。
牙ネズミの亡骸が四体、血を滲ませながら小屋の周囲に転がっていた。
鼻を突く血臭。肉が裂けた匂い。微かな唸りがまだ草むらのどこかで続いているような錯覚に、エルドは剣を持つ手をきつく握り直した。
「……終わった、のか?」
震える息とともに立ち上がる。戦いが終わった直後の静寂が、逆に不安を煽る。周囲に目を配りながら、彼はゆっくりと牙ネズミの亡骸を確認した。
討伐数を記録する簡易帳面を取り出した。指定された三体に加え、もう一体。──確かに倒した。それを証明する牙の本数を剥ぎ取り、傷の位置、体長、特徴を書き記した。
そして歩みを小屋の中へと進めた。軋む扉を押し開ける。湿った木の匂い。薄暗い室内。壁際には壊れかけの棚があり、床には散らばった木屑と、牙ネズミがかじった痕跡があちこちに残っていた。
「……やっぱり、ここに巣を作ってたのか」
床の隙間に、丸められた藁と枯れ葉。その奥には、まだ目も開かぬ幼体の牙ネズミが数匹──ぐったりと沈んでいた。
エルドは無言で見下ろした。
命を奪うことと、生き物の営みを断ち切ることの違いが、ずしりと胸に響く。
「なぜ牙ネズが、こんな場所で……?」
違和感があった。小屋の裏手には、民家も畑もない。通る道も、人の気配も、まったくない場所。こんな不便な立地に、牙ネズミが自然と集まるだろうか?
――違う。
何かに“追いやられた”ような、そんな痕跡がある。
例えば、もっと広くて安全な巣が崩され、逃げるようにここへ──。
「もしかして、近くで……」
エルドは小屋の裏手へと足を運んだ。獣道のような細い道を抜け、草を分けて奥へ進む。
──そこで、異臭がした。
何かが焼け焦げたような、鉄と煙の混じった異様な臭い。
草をかき分けると、地面が黒く焦げた跡があった。
ただの火ではない。焼き払うように地面ごと抉れた痕。その周囲の木々にも、爆裂したような痕が残っている。
「……魔法?」
エルドの背に、冷たい汗が流れた。
何者かが、この森で大規模な魔力干渉を行った痕跡。それも、制御されていない、乱雑な暴力のような“力”。
「まさか、牙ネズミたちは──この爆発から逃れて……」
逃げた先が、あの廃屋だった?
つまりこれは、単なる駆除依頼ではなかったのではないか?
ギルドは──本当に何も知らないのか??
オルディアを静かに鞘に納めると、微かに“カン”という音が鳴った。
その音が、どこかで「まだ終わっていない」と告げているようだった。
重くなった足取りで、再び小屋に戻り、他に牙ネズミがいないことを確認して帰路につく。
だが、視線は一度だけ小屋の裏手を振り返る。
「……帰ったら、報告しよう。ギルドには……言うべきだ」
すでに空は午後の陽射しに満ちていた。
風が草を揺らし、森の向こうにサリオンの街の屋根が見える。
エルドは、ゆっくりと歩みを進めた。