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第38話「眠れぬ夜」

 朝方のサリオンは、霧の薄衣に包まれていた。

 街路樹の葉に朝露が光り、石畳の上を馬車の車輪が静かに軋む。

 ギルド支部の扉を押すと、冷たい外気と代わりに、焚き火のような温もりが迎えてくれた。


 まだ太陽が顔を出す前の時間帯だというのに、受付前にはすでに数名の冒険者が集まっている。

 低い声で談笑する者、荷を点検する者、地図を覗き込む者。

 重たい革装備と金属の擦れる音が、出発前の空気を満たしていた。


 エルドは、受付のリナに軽く会釈し、名簿へ視線を落とす。

 出発任務「サリオン東部 古代遺跡調査への同行」──その下に、すでに十数名の署名が並んでいた。

 まだいくつかの欄は空白のまま。

 この規模なら、最終的には二十名ほどになりそうだ。


 ペンを取り、エルド・クラヴェルの名を記し、到着時刻を書き添える。

 その横で、マユリ、ノルド、レイナ、ルークも順に署名していく。

「おはようございます、リナさん」


 エルドが声をかけると、リナは明るく微笑んだ。

「おはよう、みんな。今日は、随分とにぎやかになりそうね」

「王国からの正式任務だもんな」


 ルークが肩を回しながら言うと、リナは苦笑した。

「そう。……その分、気を引き締めて。今回の依頼、王都の上層部も注目してるみたいだから」


 その時、背後から豪快な笑い声が響いた。

「おいおい、こんな朝っぱらから真面目モードかよ!」


 振り向くと、分厚い胸板に斧を背負った男──トラス・バレックが立っていた。

「トラス!」

「おう、エルド! マユリも元気そうだな!」


 がっしりと握手を交わす。

 トラスの笑顔は変わらず豪快で、見ただけで周囲の空気が明るくなる。

「まさか、また一緒になるとはな」

「俺もDランクに上がったから。これでちょっとは追いついたかもね。」

「へっ、上等だ!」


 レイナがくすっと笑う。

「なるほどね、あなたがトラス? 噂通り、声がでかい」

「お、おう……初対面から手厳しいな」


 ルークが肩を叩く。

「慣れとけ、レイナの口調は毒針入りだ」

「お前ら仲いいな! よし、今回は負けねぇぞ!」


 トラスは相変わらず豪快に笑いながら、周囲を見回した。

「そういや今回の顔ぶれ、結構すげぇぞ。Aランクのディラン・グレイアスが来てる。黒髪を束ねた無口な剣士だ。あいつ、噂じゃクアンタ属性に目覚めてるらしい」

「地の属性……。確か、操るのは難しいって聞くけど」

「だな。そんでもってBランクの二人──ミーナとレクト。弓と棒術のコンビでな。冷静と毒舌、正反対の性格だが息はぴったりだ。サリオン支部じゃ有名どころさ」

「……他にも何人か、強そうなのが居るな」

「全員D以上だ。ギルドの推薦ってやつは、伊達じゃねぇ」


 歩く列の中には、緊張と期待が入り混じる空気があった。

 それは誰もが感じているもの──

 “ただの依頼”ではないという予感。


◇◇◇


 やがて東門が見えてくる。

 霧の向こう、整然と並ぶ。

 ギルドからの参加者の合計、十五名の列。

 一行の装備の光沢が朝陽を受け、金属音が低く響いた。


 王国騎士団──その姿を前に、一気に空気が変わる。

 リナが足を止め、深く息を整える。

 彼女のもとに、高貴な外套をまとった女性が歩み寄った。

 フィレーナ・クラウゼン。前回エルドが参加した推薦依頼で指揮官を務めた王国騎士団所属の剣士であり、今回の指揮官でもある。


「ご無沙汰しています、フィレーナさん。ギルドからの参加者名簿です」

「ありがとう。……ほう、思ったよりも少ないな」

「ええ。今回は推薦者の中での志願制でしたから。そのぶん、腕は確かです」

「そうか。なら問題ない。質が量を上回ることもある」


 短い言葉のやり取りのあと、フィレーナは部隊の前に立つ。

 その声は鋭く、しかし静かに響いた。


「これより、古代遺跡の大規模調査を開始する。

 参加者は、王国騎士団二十名、ギルド冒険者十五名。

 計三十五名の合同部隊となる。各員、気を引き締めよ」


 鎧の音が一斉に鳴り、誰もが大きな返事とともに背筋を正す。

 エルドはその中で、オルディアの鞘にそっと手を添えた。

 また、あの感覚が胸の奥に響く。

 ──記憶がざわめいている。


 霧が晴れゆく東門の向こうに、王国の旗がはためいた。

 サリオンを出発する刻限が、静かに訪れようとしていた。


◇◇◇


 朝靄の中を進む隊列が、ゆっくりとサリオンを離れていった。

 東の街道を抜け、昼前には森の外縁──ラガル湿林が見えてくる。

 その名の通り、空気が湿り、足元にはぬかるみが続いていた。

 苔むした倒木、濃い靄、そして耳を澄ませば遠くの水音。

 だが以前のような牙ネズミの群れは姿を見せない。

 フィレーナ率いる王国騎士団の進軍は秩序正しく、敵が寄りつく隙を一切与えていなかった。

 先頭を行く騎士たちの鎧が、雨を弾くような鈍い音を立てる。

 その後ろを、ギルドの冒険者たちが続く。

 エルドたち五人も、列の中央付近を進んでいた。

「……やっぱり、違うな」


 ルークがぼそりと呟く。

「何が?」とマユリが振り返ると、彼は周囲を見渡した。

「空気だよ。緊張っていうか……命令が一つで全部動く感じ。俺たち冒険者の群れとは、根っこが違う」

「確かにね。整然としてる。……それに、どこか冷たい」


 マユリの言葉に、ノルドが静かに頷いた。

「彼らにとってこれは任務。私たちは調査依頼。似ているようで、まるで別物だ」


 小雨が降り出したころ、列の前方で号令がかかる。

 休憩だ。湿った空気の中、トラスが近くの木を背に座り込む。

「それにしても、森の中はやっぱ落ち着かねぇな」

「湿林は、匂いが濃いですからね」

「おまけにぬかるみだ。靴が重ぇ」


 ぼやくトラスの横で、レイナは平然と針の点検をしていた。

 彼女の動きは精密で、森の環境すら計算しているように見える。

「足場が悪い場所ほど、罠の仕掛け方に差が出るからね。……もっと経験積まなきゃ」

「なるほどな。俺は鈍い方だから助かるぜ」


 トラスが笑い、湿気の中に小さな笑い声がこぼれた。

 やがて夕刻、ラガル湿林の出口が見え始める。

 空気が徐々に乾き、風が通る。

 森を抜けた先──そこに、目的の地があった。

 視界の先、丘の中腹に灰白色の構造物が覗いていた。

 石造りのアーチ。崩れた円柱。

 苔と蔦に覆われながらも、確かに人工の痕跡を残している。

「……あれが、古代遺跡か」


 ルークが息をのむ。

 フィレーナが振り返り、全員に指示を飛ばす。

「これより遺跡前にて野営の準備を行う。各班、持ち場を確認せよ!」


 号令に従い、騎士と冒険者たちが散開する。

 エルドたち五人は焚き火の設営班に割り当てられた。

 手際よく枯れ枝を集め、布を張る。

 夕陽が沈むころには、十を超える火が灯り始めていた。

 焚き火の光に照らされた遺跡は、どこか異様に静かだった。

 夜風が通り抜けるたびに、どこからか低い音が響く。

 まるで、石そのものが囁いているように。

「……妙だな」


 エルドが呟く。

 その瞬間、腰のオルディアがわずかに震えた。

 キィン──金属音にも似た、かすかな共鳴。

 この間の夜と同じ感覚。だが今回は、より近い。より鮮明だった。

(何かが……呼んでいる?)

 視界の端に、遺跡の入り口が映る。

 黒く口を開けたようなその奥から、微かな光が漏れていた。

 だがそれは、炎の反射ではない。


 ──脈打つような、記憶の残響。

 エルドは息を飲み、柄に手を添える。

 オルディアが、かすかに熱を帯びていた。

 まるで「目覚めの時」を告げるように。


◇◇◇


 夜が深まり、焚き火の灯が静かに揺らめく。

 湿った空気に、虫の音だけが続いていた。

 眠れずにいたエルドは、剣”オルディア”を背負ったまま、野営地を抜け出す。

 風が吹く高台の上から、月明かりに照らされた遺跡の入口を見つめた。


 ──あの奥に、何が眠っているのか。

 不安と、期待と、得体の知れない圧のようなものが胸に残っている。

 オルディアは今も静かだが、まるで“次”を待っているようだった。


 足音が近づく。

 振り返ると、月明かりの中にひとりの男が立っていた。

 黒い長髪を後ろで束ね、無駄のない動きでこちらへ歩み寄る。

 サリオン支部の最強剣士──ディラン・グレイアス。

「……眠れないのか」


 低く、落ち着いた声だった。

 問いというより、同じ夜を共有する者への確認のように。

「ええ。少し、空気が違う気がして」


 エルドが答えると、ディランは遺跡の方を見やる。

「……感じているのか。あの遺跡から、何かを」


 エルドは言葉を失う。

 彼も、同じものを感じているのか。

 ディランの横顔は静かだったが、瞳の奥には鋭い光が宿っている。

「力の気配が濃い。だが、ただの古代遺跡のものではない。……何か、目覚めようとしている」


 その声には、確信にも似た重みがあった。

 沈黙が落ちる。

 焚き火の光が遠く、月だけが二人を照らしていた。

「……君の剣も、面白いな」


 唐突に、ディランが言う。

 エルドが軽く目を瞬く。

「え?」

「その剣。構えたとき、きっと空気が変わる。……生きているような、そんな感覚を受けた」


 鋭い観察眼。

 やはりこの男は、ただ強いだけではない。

 エルドは一瞬、言葉を詰まらせ、それでも静かに答えた。

「……相棒です。鍛冶師の見習い時代に、自分で打ったので」


 ディランはうなずくように一度だけ視線を落とし、そして短く言葉を続けた。

「剣だけじゃない。君自身からも、何か……“違うもの”を感じる」


 その一言が、夜気を震わせた。

 だが彼はそれ以上、何も言わなかった。

 風が吹き、二人の髪を揺らす。

 沈黙は長く続いたが、奇妙な居心地の悪さはなかった。

 戦士同士、言葉を超えた理解がそこにあった。

 やがてディランは、わずかに口角を上げる。

 それは笑みとは言えないが、穏やかな気配だった。

「……明日は長くなる。休め」

「はい。おやすみなさい」


 ディランが去った後、エルドは再び遺跡を見つめた。

 月光の下で、古びたアーチの奥が淡く光る。

 心の奥で、確かに聞こえた。


 ──キィン。

 オルディアが応えるように、微かに鳴いた。

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