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第32話「バロック支部長」

 巨体が崩れ落ちるとき、地鳴りのような振動が大地を伝った。

 残響断ちの余波は、なおも空気を震わせ、砂塵を巻き上げながら戦場を包み込む。


 ガルドラスは断末魔を上げることもなく、ただ静かに沈黙した。

 その姿は、長きにわたり森の覇者として君臨してきた威容の終焉を物語っていた。


「……や、やった……のか……」

 ルークが呆然と呟く。ハンマーを握る腕が震えている。勝利の昂ぶりと、目の前の光景が現実だと信じ切れない衝撃が、同時に胸を締めつけていた。


 レイナもまた、針を握る指先が震えていた。だがその震えは恐怖だけではなかった。

(あんな剣……人が振るえるものじゃない……)

 目に焼き付いたのは、両手で扱うはずの剣を片手で軽々と振るい、なおかつ常識を超えた速さで巨獣を斬り伏せたエルドの姿。

 ──人の枠を越えた一瞬。

 恐ろしい。けれど、その光景は胸の奥を強く揺さぶる。


「ぐ……は……ッ」

 血を吐きながら、ガイラスが膝をついた。背に深い裂傷を負い、片腕は力なく垂れ下がっている。


「ガイラスさん!」

 駆け寄ろうとするエルドを、彼は片手で制した。


「……構うな。俺は……まだ、生きてる」

 その声はかすれていながらも、確かな強さを宿していた。


 その光景を見ていたルークとレイナは、ふと息を呑む。

 さきほどまで人を超えた剣を振るっていた青年が、今はただ必死に仲間を案じる一人の冒険者に戻っている。


(……良かった。やっぱり、エルドはエルドだ)

 二人の胸に浮かんだのは、言葉にならない安堵だった。

 同時に、ほんのわずかな畏怖も拭いきれない。


 ──あの一閃を、本当に振るったのは目の前の彼なのか。

 恐れと安堵、その相反する感情が胸の中で絡み合い、答えの出ない重みを残す。

 四人は互いに視線を交わした。誰もが満身創痍だったが、立ち止まる余裕はない。


「……一度、戻ろう。ガイラスさんの手当てが先だ」

 エルドの短い言葉に、全員がうなずいた。


 ルークが片肩を貸し、レイナが周囲を警戒しながら歩を進める。

 石畳に散らばった血と砂塵を踏みしめ、夜気の冷たさが少しずつ熱気を奪っていく。


 振り返れば、巨大な骸がなおも闇の中に横たわっていた。

 その威容は恐ろしいはずなのに、不思議ともう振り返る者はいなかった。


 エルドは一度だけオルディアを見やった。

 刃はまだ微かに震えている。

 ──共鳴。

 胸の奥で、説明のつかないざわめきが鳴っていた。


(きっとまだ……何かが終わっていないのかもしれない)

 言葉には出さず、ただ静かにその感覚を胸に刻む。


 そして、四人は森を抜け、王都の灯火を目指して歩みを進めていった。


◇◇◇


 ギルドの重い扉を押し開けた瞬間、ざわめきが一瞬だけ静まり、すぐに冷ややかな視線が突き刺さった。

「……あれ、EからDの昇格試験組じゃないか?」

「ハッ、まさか……グルマルから逃げ帰ったのか?」


 冒険者たちの囁きは遠慮なく響き、好奇の眼差しと失望の溜め息が入り混じる。エルドたちの肩に、疑念の重さがのしかかった。

 しかし、その視線はすぐにガイラスの姿に釘付けとなる。血に濡れ、肩を押さえた彼の歩みを見た瞬間、空気が凍りついた。

「おい待て…ガイラスが……負傷してる?」

「Bランクが……? 一体何があったんだ……」


 椅子を引く音、足音、ざわめき。冒険者たちの表情は冷ややかさから一転して緊張に変わり、ギルド内の救護スタッフが慌ただしく駆け寄ってくる。


 その渦中を進み、四人は受付へと歩みを進めた。カウンターの奥にいた受付嬢は目を見開き、驚きと心配を隠さず声をかける。

「み、皆さん……! 昇格試験のはずでは……! ガイラスさん、その怪我は……」


 エルドは口を開こうとしたが、先にレイナが一歩進み出た。彼女の手には二つの討伐証拠が収められた袋。ひとつはグルマル・ボスの証拠部位の“尾”、もうひとつは──異様な重みを放つ、“手”。大きく鋭利な爪を携えたそれは、ガルドラス討伐の証だ。

「昇格試験は、終了しました。……私たち、そしてガイラスさんで、すべてを討伐しました」


 受付嬢は言葉を失い、息を呑む。その表情が一瞬揺らぎ、視線がガルドラスの証へと吸い寄せられた。

 ざわめきが再び広がり、背後の冒険者たちがざっと身を乗り出す。

「グルマルだけじゃない……? あの黒いのまで……?」

「ば、馬鹿な……あれは森の大型獣…ガルドラスじゃないか……?」


 その動揺を制するように、ガイラスが一歩前へ出た。顔をしかめながらも、声は強く響く。

「状況を説明しよう。……俺たちは、グルマルの群れと、ガルドラスに遭遇した。苦戦はしたが……最後はこの三人──エルド、レイナ、ルークが仕留めた」


 そう言って、あえて自分の名を外し、三人の肩を誇らしげに叩いた。

「間違いない。俺はこの目で見た。コイツらは命を賭して、あの怪物を倒したんだ」


 その言葉が放たれた瞬間、ギルドの空気は大きく揺らいだ。冷ややかな視線は消え、驚きと尊敬、そして信じられないという感情が入り混じる。


 受付嬢は深く息を吸い、表情を引き締めて頷いた。

「わ、わかりました。すぐに正式な手続きを取ります。……そして、ガイラスさんの治療を急ぎます!」


 救護スタッフたちが駆け寄り、ガイラスを支えて奥へと連れていく。エルドはその背を見送りながら、小さく拳を握り締めた。仲間を想うその姿を見て、レイナ、ルーク、そして周囲の者たちは胸の内で同じことを思った。


 ──やはり、彼はいつものエルドだ。


 あの戦場で垣間見た、常人離れした一閃。

 だがそれを振りかざすことなく、まず仲間を案じる少年の姿に、人々の心は静かに揺さぶられていた。


 依頼完了の手続きを済ませ、三人は救護室へと足を運んだ。

 扉を開けば、薬品の匂いと慌ただしい人の動きが広がる。治療のために担ぎ込まれたガイラスが、ベッドに横たわり、肩を厚布で固定されていた。額にはうっすらと汗が浮かび、浅い呼吸を繰り返している。その傍らには、血と土にまみれた愛用の剣と、ところどころ砕けた防具が並べられていた。


「とても失血しています。今は安静にしてください」救護スタッフの一人が、ガイラスに状況を説明した。


 そのとき、低くも落ち着いた声が救護室に響いた。

「……なるほど、思った以上に大きな傷を負っているな」


 振り返ると、初老の男が立っていた。

 厳つい顔つきに深い皺が刻まれているが、その眼差しには温かみが宿っている。筋骨のがっしりとした体格は年齢を感じさせぬ力強さを残し、かつて戦場を渡り歩いた者の気配を隠しきれない。


 救護スタッフが思わず背筋を伸ばす。

「し、支部長……」


 彼は静かに頷き、ガイラスの様子を確かめるようにベッド脇へ歩み寄った。

「よく耐えたな、ガイラス。お前ほどの男がここまで傷を負うとは……それだけ、ガルドラスという魔物が危険だった証だろう」


 ガイラスは息を荒げながらも、かすかに頷いた。

「……ええ、想定以上でした。この三人がいなければ、私はここにいなかったでしょう」


 その言葉に、支部長はちらとエルドたちに視線を向けた。

 深く観察するような目──しかしそこに敵意はなく、ただ底知れぬ重みと意味を帯びていた。

「君たち三人。今回の依頼で確かに実力を示した。だが……昇格の判定は今日中に出すわけにはいかない。すまないが、結果は明日まで待ってくれ」


 支部長は柔らかながらも威厳を感じさせる口調でそう告げた。

 ルークとレイナが小さく頷き、エルドは静かにそれを受け止めた。

「詳細はガイラスの報告をもとにまとめるつもりだ。君たちも今日は休め。明日の朝、再びギルドへ来るといい」


 そう言い残し、支部長は再び三人を意味ありげな目で見つめた。まるで彼らの中に、未来を左右する何かを見出したかのように。


 そして、微かに笑みを浮かべる。

「……自己紹介がまだだったな。私はバロック・ゲイン。ヴェルム王都支部を任されている者だ」


 静かながらも重みを帯びた名乗りが、救護室に響いた。


◇◇◇


 夜更けの救護室。

 外の喧騒が収まり、わずかな灯火に照らされた部屋に、治療を終えたガイラスがベッドに腰掛けていた。隣には椅子を置き、支部長バロック・ゲインが腰掛けている。

「……そんなことが、あの短時間に起きていたのか」


 バロックは低くつぶやき、腕を組んだ。

「ええ。私の目でも……いや、あれは確かに見たのです。片手で、あの速度で剣を振るうなど常軌を逸している。見間違いではありません」


 ガイラスの声音は弱々しいが、言葉には確信が宿っていた。

 バロックは眉を寄せ、ゆっくりと息を吐いた。

「エルド・クラヴェル、か……。その名を、思い出したよ」

「支部長、ご存じだったのですか?」

「いや、直接ではない。ただ……騎士団との文書のやりとりの中に一度だけ、目にした記憶がある」


 支部長の声は落ち着いていたが、その眼光は鋭さを増していた。

「サリオン支部からの報告書だ。まだFランクに登録したばかりの新人が、騎士団推薦依頼に同行したと記されていた」


 ガイラスは目を瞬かせる。

「……新人が、ですか」

「普通なら気にも留めん。だがな……その文書には大型獣ほどの大きさの“牙ネズミの異常個体を、独自の剣技で真っ二つにした”と書かれていた。初めて目にしたときは、見間違いかと疑ったものだ」


 バロックは記憶を辿るように視線を落とした。

「その場には、フィレーナ・クラウゼンと、グランツ・ドレイガーも居合わせていたはずだ。フィレーナは少々気難しいが、報告には誇張はない。彼女自身、エルドという少年の名を記していた。……妙な符号だと思わんか?」


 ガイラスは息を整えながら苦笑した。

「普段の依頼では、特段目立つ噂もなかったはずです。私も、昇格試験前は凡庸な少年に見えていました」

「だが実際は違った、というわけだ」


 バロックは組んだ腕を解き、背凭れに重く体を預けた。

「FからEへの昇格の時も特例評価だったな。試験官のアラン・デュルクの報告は丁寧だった。“剣の音”を頼りに敵の位置を把握していた、とあった」

「音……ですか」


 ガイラスは片眉を上げる。

 エルドが自身の剣を耳に添えて、“何か”を感じていた光景を思い出す。

「ああ。だが当時は、突飛な例えか、あるいは比喩だろうと片付けられた。……しかし、君が今日見た光景を考えると、あながち誇張ではなさそうだ」


 二人の間に沈黙が落ちる。夜の空気がさらに冷たく感じられた。

 やがてバロックが口を開いた。

「彼は──期待の新人かもしれん。そして同時に……」

「……脅威となり得る存在かもしれない、と?」


 バロックはわずかに目を細め、しかしすぐに苦笑を浮かべた。

「いや、考えすぎだろうな。まだ若い一冒険者に過ぎん。だが……胸に引っかかるのだ」

「ええ。私もです」


 ガイラスの声は低く、真剣だった。

 二人の会話はそれ以上続かず、静けさが戻る。だがその沈黙は、エルドという名の少年の存在が、ただの新人では済まされないという確かな予感に満ちていた。

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