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第31話「エルドの剣技」

 石畳を砕く巨腕の一撃。

 それを真正面から受け止めた瞬間、エルドの腕は痺れ、剣が低く軋んだ。刃と骨格ごと粉砕される錯覚。だが、踏み込む足を退かすわけにはいかない。


「まだ止まらんぞッ!」

 隣でガイラスの咆哮が響く。

 振り抜かれる鋼は、巨岩を砕くかのような力を帯びていた。その軌跡はエルドの剣筋と噛み合い、ひとつの鎖となって巨獣を押し返す。


 ガルドラスの黒鉄のような毛皮をかすめる度に、わずかな赤黒い血が散る。

 だが、傷は浅い。爪が振り下ろされれば、大地ごと抉り取られる。尾が薙ぎ払えば、石畳と共に肉体を粉砕される。


 攻め続けなければ飲み込まれる。守りに徹すれば、ただ潰される。

「……はっ!」


 息を詰め、エルドは渾身の一太刀を振り抜く。ガイラスもほぼ同時に体を捻り、低い姿勢から斬り上げた。

 剣戟が重なり、巨体の足元を裂く。硬い毛皮が剥がれ、飛沫が迸った。


 だが──振り返りざまの咆哮が、戦場を揺らした。反射的にルークは身を縮める。

「な……なんて力だ……!」


 槌を握る手が震え、汗が柄を滑る。自分が踏み込めば、瞬時に肉片へ変わる。畏怖が喉を塞ぎ、前へ出る勇気を根こそぎ奪っていく。


 一方、レイナは冷静を装いながら罠を展開していた。

 鋭く放った麻痺針が、毛皮に突き刺さる──はずだった。だが甲高い音を立てて弾かれ、虚しく地に落ちる。

「……っ」


 目の奥が凍りつく。何度攻撃を重ねても通じない。罠士として積み上げた技術が無意味に砕かれていく絶望。心臓がきつく締め上げられた。


 その間も、前線の二人は退かない。

 剣戟と咆哮が交錯するたび、互いの刃がかすかな隙を埋め合い、戦線は辛うじて維持されていた。

 ガイラスの眼差しは、試験監督としての冷徹さをとうに失っている。そこにあるのは、命を賭ける一冒険者の必死の輝き。


 そしてエルドの胸にもまた、恐怖と共に強烈な自覚が芽生えていた。

 ──この剣を退かせば、皆が死ぬ。


 緊張の刃渡りは続く。退路も、油断も、言い訳も一切許されない戦場だった。

 ガルドラスの咆哮が、地下空間の空気を震わせた。次の瞬間、巨体が跳躍する。影が覆いかぶさり、頭上のすべてを呑み込むようだった。

「エルド、下がれッ!」


 ガイラスの声が裂ける。鋼鉄の意志を背負った背中が、エルドの前に飛び出した。

 轟音──。

 振り下ろされた巨腕が大地を叩き割り、空気が炸裂する。付近の石は粉々に砕け、波紋のように衝撃が走った。衝撃波だけで耳が軋み、肺の奥まで揺さぶられる。

「ぐッ……ぬォォッ!」


 剣で受け止めきれなかった爪がガイラスの肩口に届き、鮮烈な紅が弾けた。

 背を伝って奔流のように流れ落ち、砕けた鎧を染め上げる。

「ガイラスさん!」


 目を見開いたエルドの声が震える。

 その瞳に映るのは、巨腕に押し潰されかけながらも踏みとどまる背中。血と汗で濡れ、だが一歩も退かぬ盾の姿。

「……っ、なんだよ……」


 後方のルークの喉から、声にならない呻きが漏れた。

 胸の奥が冷たく締めつけられる。あの頼もしきベテランが血を吐くほど追い込まれている。──それがどれほどの脅威かを、彼は悟ってしまった。足がすくみ、槌を握る手が凍りつく。


 レイナもまた、蒼白な顔でその光景を見つめていた。彼女の放った針は毛皮で弾かれ、罠は一息で踏み潰される。

 唯一の拠り所だったガイラスの背が揺らいだ今、自分の力はあまりに無力に思えた。

 胸を刺すのは無念か、それとも絶望か──答えを探す余裕すらない。


 エルドは震える呼吸を必死に整えようとした。

 ここまで剣を振り続けられたのは、この背があったから。致命の隙を晒さずに済んだのも、血路を切り拓けたのも。全てはこの男がいたからだ。


 その支えが崩れた今──戦場の全てが、自分の肩にのしかかってくる。

 刃を握る手が震える。眼前の巨影が、かつてないほど遠く、重く、圧倒的に感じられた。


 間髪入れずにガルドラスの巨影が迫る。爪が閃き、砕けた石畳を更に削り裂く。その威容は絶望の具現だったが──エルドの呼吸は、ふと深く、静かに整った。

「……俺はもう、迷わない」


 声は氷のように冷えきっていた。

 胸を締めつけていた恐怖も、焦燥も、すべてが剥がれ落ちる。

 残ったのは、ただ透明な静寂。

 世界が水底に沈んだかのように、音が遠ざかる。


 その瞬間──オルディアが震えた。

 呼びかけはしていない。

 剣自らが、応じている。確かにエルドの心と重なった。



 握り締める手に、重さはなかった。

 本来なら両手でなければ扱えぬ重量剣が、羽のように軽く──片手で、容易く持ち上げ、斬りかかる。

「追憶剣技──第一閃」


 囁きとともに、刃が閃光へと変わる。

「共鳴斬り!」


 ──ザンッ!

 空気を裂く音すら追いつけない速度。

 横一文字の光が走り、ガルドラスの右前脚が──根元から、音もなく斬り落とされた。


 巨体がよろめき、咆哮が途切れる。滑らかに断たれた断面からは、まだ血すら噴き出していない。

 あまりにも速すぎて、因果が遅れている。

「…………」


 その場にいた三人は、言葉を失った。

 ルークの口がかすかに開き、声が出ない。

 彼の脳裏で理解と常識が衝突し、崩れ去っていく。

(……両手でさえ重い剣を……片手で……? いや、今の速さは……人間の……?)


 レイナの瞳は釘付けになっていた。

 罠も針も弾かれた怪物を、一瞬で切り落とす光景。その異常さに、絶望よりも先に衝撃で胸が凍りつく。


 そして、かろうじて姿を追ったガイラスですら、戦場を渡り歩いた数十年で初めて、目を見開いていた。

「馬鹿な……」


 小さな呟きは、彼自身の理すら崩れる証だった。


 ただ一人、エルドだけが無表情のまま。

 斬った事実を確かめることもなく、冷たい瞳で次の一手を見据えていた。

「こ…このまま終わらせるぞッ!」


 ルークが吠えるように叫んだ。

 怯えで竦んでいた足が、いまは力強く地を踏みしめる。両腕に握る槌が震えるのは恐怖ではなく、決意の証だ。

「通じないんじゃない……貫くのよ!」


 レイナもまた、自らを鼓舞するように声を放ち、針を抜いた。しなやかな手が罠を仕掛け、鋭い動きで針を投げ放つ。毒針が獣の眼前をかすめ、足元で展開された罠が軋む音を立てて食い込む。


 二人の動きに合わせて、巨体ガルドラスの咆哮が鈍る。罠の鎖を引き裂くように暴れても、わずかに動きが遅れた。その一瞬が、すべてだった。

「……!」


 ルークとレイナは、その光景を見た。エルドが静かに前へと歩み出る姿を。

 彼の表情には怒りも焦りもない。だが、その背にまとわりつく気配が、二人の胸を圧迫する。


 ──怒りだ。

 声なき烈火が、無表情の奥底から剣に宿っている。

 仲間を傷つけられた、その事実だけが彼を突き動かしていた。

「追憶剣技──第二閃」


 低く、凪いだ声。だが空気が張り裂ける。

「残響断ち!」


 跳躍とともに縦に振り抜かれた斬撃は、縦に走った一条の閃光。

 だが、それは瞬きの間に倍へと膨れ上がった。


 ガルドラスを浅く斬り裂いたはずの残響の軌跡が、空気を震わせ、更なる剣閃となって拡がる。

 肩口から腰へ、腰から脚へ──残響が重なり合い、巨体を縦一文字に刻み込んだ。

「……っ!」


 ルークは絶句した。両手のハンマーを抱えたまま、息をすることさえ忘れる。

 レイナの指先も凍りついたように止まる。

 彼らは知った──この少年の剣は、ただの速さではない。残響までも支配し、実在を超えた力を振るっている。


 巨躯のガルドラスが、一瞬だけ痙攣する。

 切断面から遅れて衝撃が広がり、まるで大地そのものが割れるかのような音が戦場に木霊した。


 だが、断末魔の咆哮はない。声を奪われた獣は、静かに、音もなく地へ沈んでいく。


 轟音ではなく、重い静寂が落ちた。

 土埃の向こうに残ったのは、剣を下ろすエルドの影と、荒い息を吐く仲間たちの鼓動だけ。


 それは敗北の静けさではない。

 確かな勝利の証であり、同時に──彼らに、エルドという存在の底知れぬ深淵を見せつけるものだった。

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