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第28話「声の主」

 湿り気を含んだ森の空気は、昼下がりの光を受けてもなお冷たさを纏っていた。

 腐葉土の匂いと、ねっとりと絡む湿気。耳を澄ませば、鳥の声すら消えている。

「……来るぞ」


 エルドの言葉と同時に、ぬめりを帯びた影が跳躍した。

 ルークが槌を振り抜き、ぶ厚い衝撃で叩き落とす。湿った肉が地を打ち、体液がじわりと染み広がった。

「数が多い……」


 レイナが小さく呟き、素早く地面に罠を仕掛けていく。金属の輪を踏み板に隠し、毒針を岩陰に固定する。その手際は淀みなく、まるで森そのものを掌握するかのようだった。

「奥に数体……動いてないように見えるけど、気をつけて」

「レイナ、右!」

「そこか、任せろ!」


 エルドの呼び声に、咄嗟にルークが応じ、レイナを庇うように茂みに突っ込む。だが槌の先は虚空を打ち抜いた。揺れたのは草葉だけ。影はそこにはいなかった。

「……っ、今のは……」


 レイナが眉を寄せる。その視線の先、倒木に苔むした塊が一瞬動いたように見えた。

「罠にかかるはずだったのに……」


 エルドは剣を構えながら低く告げる。

「……岩と苔の区別がつきにくい。擬態が上手い」


 その瞬間。

「……レイナ、右!」


 耳元に響いた声に、彼女の身体がはっと跳ねた。

「え……?」

 反射的に身を翻す。だが、そこに敵影はない。


「俺、言ってない!」

 エルドが即座に否定した。

 レイナは息を詰め、振り返る。確かに今のはエルドの声。抑揚も間も、寸分違わぬものだった。


「お、おい……何なんだ、さっきから……」

 ルークが額の汗を拭いながら構えを直す。その時、左手の草陰から、快活な声が響いた。


「そこか、任せろ!」

 彼自身が先ほど叫んだ言葉と、まったく同じ調子。

 だが、口元は固く結ばれていた。


「……俺、今……喋ってない」

 ルークの顔に、理解できないものを前にした戸惑いが浮かぶ。

 敵は見えず、罠は空を切り、そして“声”だけが森に満ちていく。

 それは仲間の声に違いないのに、誰も発していない。

 レイナの仕掛けた罠が一つ、茂みの中で不意に鳴動した。針が突き出し、粘液質の体を突き刺す。

「かかった!」


 彼女が叫ぶ。だが次の瞬間。

「かかった!」


 まったく同じ声色が、今度は反対側の岩陰から響いた。

 三人は振り返る。しかしそこには、誰の姿もない。


 湿った森の空気が、急速に重みを増していく。

 敵の姿はある。だが確かに、どこかに“何か”が潜んでいる。その実感だけが、確信となって三人の心臓を締め上げていた。


 ──湿った森がざわついていた。

 だがそれは風音でも、獣のうなりでもない。


「来るぞ!」

 鋭い声に、レイナは反射的に身を引いた。エルドの声だ。

 だが──彼は剣を振るいながら、声ひとつ漏らしていなかった。


「え……?」

「レイナ、下がれ!」


 ルークの声。

 彼は確かに、こちらを見ながらそう叫んだ。

 レイナは更に身を退いた。

 刹那、前方の茂みから飛び出した粘液質の影が、彼女の退いた直後の空間を切り裂いた。

 間一髪。声に従っていなければ直撃していた。

「今の……敵の思うツボかよ……」


 ルークの言葉が途切れる。

 そのすぐ背後から、彼自身の声が響いた。

「任せろ!」


 反射的に声の方向に槌を振り抜いたが、そこには影すらない。空を打った反動で身体が崩れた瞬間──横合いから別のグルマルが跳びかかり、肩口に爪が食い込んだ。

「ぐっ……!」


 血が飛ぶ。

 レイナが罠を構えかけて、息を呑んだ。

「レイナ、右!」


 今度はエルドの声。だが彼は敵を正面に捉え、声を出す余裕などない。

 それでも彼女の身体は条件反射で振り向く。

 逆側から迫っていたのは、鋭利な舌を伸ばす影──。

「くっ!」


 咄嗟に毒針を投げ放ち、間一髪で舌を貫く。だが狙いが逸れ、致命傷には至らなかった。

 森に“声”が満ちていく。

 敵が放つのは、三人の声。しかも今の状況に合わせて、まるで誰かが意図して指示しているかのように。


「下がれ!」

「任せろ!」

「かかった!」


 仲間を助ける言葉。

 注意を促す言葉。

 状況を知らせる言葉。

 その全てが、敵の口から放たれていた。


 レイナの仕掛けた罠が一つ作動する。針が飛び出し、グルマルの体を貫いた。

「やった!」


 彼女が歓喜した瞬間。

「やった!」


 同じ声色が、今度は頭上の枝から響いた。

 偶然か。いや違う。敵は確実に“狙って”言葉を選んでいる。

 まるで三人の絆を、声ごと切り裂こうとするかのように。


 ぬめる巨影が跳躍する。

 枝葉を抜ける陽光が差し込み、湿った森を淡く照らした。

 その光に照らされ、影の正体がついに露わとなる。


 ぬめる巨体。苔を纏う皮膚は、岩とも倒木とも見分けがつかないほどだが──今ははっきりと、巨大な“獣”の輪郭を結んでいた。

 カエルを思わせる丸い胴、異様に発達した後肢。だが口元には肉を裂くに足る歯列が並び、指先には土を抉る爪が光っている。鋭さこそ目立たない。だが、その跳躍と合わされば十分に人を殺しうる武器だった。


「……あれが、本体……」

 レイナが無意識に後退る。仕掛けた罠の数を、頭の中で繰り返し数えながらも、指先はわずかに震えていた。


「でけぇ……」

 ルークが呻く。肩から血を滴らせたまま、それでも槌を構えるが、目の奥に走った動揺を隠しきれない。


 エルドもまた、剣を握る手にわずかな汗を感じていた。

 これまで戦ってきた牙ネズミや異形の群れ──数に圧されることはあっても、どこかに「慣れ」があった。手順を踏めば切り伏せられる、という確信。

 だが目の前の影は違った。

 ただ巨大であるだけではない。意志を持つ声、そして擬態を超えて狩るための牙と爪。


「……一筋縄じゃ、いかない」

 誰に告げるでもなく、エルドが呟いた。


 グルマルの口が、ゆっくりと開いた。

「……任せろ」

 低く響く声は、もはや真似というより“(あざけ)り”だった。


 三人の心臓が同時に強く脈打つ。

 恐怖が、確実に胸を締めつけていく。

 それでも剣を、槌を、罠を構える。


 次の瞬間、地を抉るほどの跳躍が放たれた。

 森の空気が破裂し、三人を飲み込むような激戦が幕を開けた。

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