第2話「名もなき剣」
夜がまだ、炉の底に残る余熱のように微かに漂っていた。サリオンの鍛冶工房街はまだ目覚めておらず、空は薄青にくすんだままだ。その静けさの中、工房の明かりが一つだけ、ぼんやりと灯っていた。
エルドは、手入れの終わった旅装を膝に置き、革袋の口を一つひとつ結んでいた。背負う荷物は少ない。だが、詰められたものは重い──責任、希望、そして覚悟。
鞘のない、自作の剣──まだ名を持たぬそれが、脇にそっと立てかけてある。柄に指を添え、刃にそっと耳を寄せる。静かな共鳴。今朝も“音”は確かに在った。けれどその音も、いずれ喧騒に飲まれるのだろうと、ふと思った。
視線を移すと、脇には布に包んだ細身の木箱がある。師匠に渡すために作ったもの。火鋏だ。工房で最も使い込まれていた道具を模して、彼なりに丁寧に鍛え上げた。鋼の接合部分は、炉の灰に近い鈍銀色に光っていた。
「……やっぱ、朝のうちがいいかな」
呟いた声が、工房の梁に吸い込まれていく。旅立つ前の挨拶と一緒に、さりげなく渡すのがいいのか。それとも、名残になるように、最後に手渡すべきか。何度も脳内で言葉を組み立てては、崩していた。師匠の手のひらにそれが収まるところを、まだ想像できない。だがその時は、もうすぐ訪れる。
「来たか。」
工房の奥、鉄骨の間から、ベイリクの低い声が響いた。炉の火はすでに熾っていて、空気は赤く、鉄の粉と油の香りが鼻を刺す。朝というより、もう何十年もここで変わらぬ時間が流れているようだった。
「……最後くらい、手伝わせてください」
そう言って、エルドは黙って炉の前に立った。そこには、使い古された鋳型と、小さな鉄片が並べられていた。槌を使うでも、剣を打つでもない。師匠はただ、一言だけ告げた。
「今日は、火鉤を仕上げる」
火鉤──炉の底をさらうための道具。華やかでもなく、名もつかない。けれど、工房で最も使われ、最も誤魔化しのきかない道具でもある。
「柄は昨日のうちに整えておいた。お前の仕事は、先端を整えて、軸を差すことだ」
エルドはうなずいた。炉の中で焼かれていた先端部を鋏で取り出し、鉄敷の上で静かに形を整える。トン、トン、と。槌は振りかぶらず、添えるように叩く。それは音ではなく、鼓動に近かった。師匠は隣で黙って見ている。口出しもせず、手も貸さない。だがその沈黙の重さが、何よりの“教え”であることを、エルドはよく知っていた。
やがて火鉤の形が整い、柄を軸に打ち込む瞬間、エルドは一度、師匠の顔を見た。
「……これで、いいですか?」
ベイリクは、ほんの少しだけ顎を引いた。
「悪くない。まあ、火起こしくらいには使えるだろ」
それは師匠なりの誉め言葉だった。鋳鉄が冷えていく音を聴きながら、エルドは火鉤を布に包み、刻印入りの細い木箱へと納めた。明朝、雑貨店の注文主に届けられるはずの一品だ。
かすかに立ち上る鉄の余熱。蓋を閉じた瞬間、カチリと響いた留め金の音が、妙に胸に残った。これは、見習いとしての最後の仕事。この一品に、感謝と決意のすべてを込めた。
「……お前も、ワシの腕に近づいたってことだな」
ふいに背後から聞こえた低い声に、エルドは手を止めた。振り返ると、師匠ベイリクが作業台にもたれ、目を細めてこちらを見ていた。
「いや、もう追い越されたかもな。形は少し雑だが……熱の読み方は、昔のワシより正確だ」
わざとらしく渋い顔をする師の頬が、少しだけ緩んでいた。その顔を見て、エルドの胸がかすかに熱くなる。
「……ありがとうございます」
それ以上、言葉は続かなかった。だが、弟子としての最後の仕事を見届けた師匠の、そのひと言だけで、すべてが報われた気がした。エルドは黙って木箱を抱え、工房の明かりの中、火鉤を仕舞う棚へと歩いた。
この夜の記憶は、きっと後になっても色褪せない。あの火鉤が、“師と弟子”の最後の仕事だったのだと。
◇◇◇
朝の空気はまだ薄暗く、房の空に、かすかに鳥のさえずりが響く。
エルドは、旅装に身を包み、最後の荷物──細い木箱を両手に抱えていた。昨日、自らの手で仕上げた火鋏が、中にそっと収められている。
師匠の作業机の脇まで歩き、無言でその箱を置いた。包みの中には、鋼を挟むためだけの工具に過ぎない、だが──彼にとっては、最後の贈り物だった。
「何だ、それは」
背中越しに声がかかる。
エルドは、振り返らずに言った。
「……火鋏です。師匠への贈り物です。本当にありがとうございました。師匠」
言い終えたあとで、もう一度だけ顔を上げた。
ベイリクはしばらく無言だった。が、やがて低く鼻を鳴らした。
「まったく……贈り物なんぞ似合わねぇ顔しやがって」
「そっちこそ。昨日の“話”、まだ聞いてませんよ」
「……そうだったな」
ベイリクは小さく頷き、工房の奥へと消えていった。
数分後──戻ってきた彼の手には、一つの革細工があった。
黒茶革の鞘。艶やかで、装飾は最小限だが、細部に光る技が見て取れる。重ねられた糸は太く、背負いやすいように工夫された形状。まさしく実戦を見据えた造りだった。
「……そいつだ」
「これって……」
「お前の剣に合わせて、昨夜仕上げた。……受け取れ」
エルドは鞘を受け取った。手が震える。革の質感の奥に、見慣れた師匠の“無骨な手”の技を感じた。
そのとき、ベイリクが少しだけ口元を動かした。
「それから──剣の名も、まだついてなかったよな」
「え……?」
エルドは息を呑んだ。
ベイリクはわずかに顔を背けながら、ゆっくりと口にした。
「“オルディア”。……お前の剣の名だ」
静かに、音が満ちた。
その名を口にした瞬間、剣から音が響いたような気がした。金属音ではない、もっと深く、柔らかく、音を宿した気配。
エルドは、何も言えなかった。ただ、その響きを胸に刻み込んだ。
「……昔、禁書庫で見た記録と、そいつが似てた。お前が打ったのに、何故か“似て”た。だから、名も……似たものを選んだ。それだけだ」
ベイリクはそう言うと、視線を逸らした。エルドが深く頭を下げると、代わりに背中を向けたまま、ひと言だけ呟いた。
「……ちゃんと、聴かせてやれよ。“音”ってやつをさ」
◇◇◇
東の空に、白みが差し始めた。 まだ朝霧の残る通りに、ヴェルム王国・鍛冶の町サリオンの石畳が静かに続いている。工房の煙突からは、まだ煙は上がっていない。朝が早い鍛冶屋では、見慣れない静寂だった。
その玄関口に、エルドは立っていた。黒革の鞘を背負い、胸元には旅用の小袋と水筒を括りつけ、腰には道具袋。旅支度は、完璧だった。
槌の代わりに剣を背にした青年の姿は、これまでとはまったく違う。それでも、炉に向かっていた日々の名残が、足元のブーツや煤けた手の甲に、確かに刻まれている。
ベイリクは、工房の軒先で腕を組みながら黙って見ていた。
「……じゃあ、行ってきます。師匠」
エルドは、深く頭を下げた。
その仕草に、ベイリクは答えず、代わりに一歩、玄関の外へ踏み出した。
「待て」
低い声とともに、差し出されたのは小さな紙包みだった。
「干し肉と乾燥パン。それと……この街で一番マシだった葡萄酒を、少しだけだ。喉を潤せ」
「師匠……」
エルドが受け取ると、ベイリクはそっぽを向いたまま言葉を続けた。
「道中、バカはするな。余計な戦いもするな。剣は抜く前に考えろ。……あと、変な女にはついていくな」
「……それ、最後のが一番重たいんですね」
「当たり前だ。俺はな、お前が変な女に転がされて、命を落とす未来が一番リアルに見えるんだよ」
エルドは思わず噴き出し、肩を震わせた。けれどすぐに、それも収まり、真っすぐに前を向いた。剣──オルディアが、背中で静かに音を待っている。音を聞くための旅。世界を知るための旅。師匠の工房で過ごした日々の重さを背に、エルドはゆっくりと一歩、踏み出した。
だが、その瞬間──背後から、声が届いた。
「……戻ってきたら、折れた刃の一本くらい、鍛え直してやる」
その声に、エルドは振り向かず、ただ拳を握った。
「そのときは……また、焼きを入れられるかもしれませんね」
そう言って、彼は歩き出した。まだ誰も知らぬ音を探して。
かつて、火を灯し続けたこの工房から──“焔”を離れ、“音”を携えて。少年は、世界へと踏み出す。
陽が昇りきる前のサリオンの通りは、まだ柔らかな朝靄に包まれていた。石畳を踏むたびに、長靴の裏に湿った感触が残る。工房の門を後にしたエルドは、革の鞘に収めた剣を背に、ひとり歩き出した。
通りの向こう、ギルド方面の尖塔が朝光を受けてぼんやりと輝いている。大通りを進めば、いずれ市街地の喧騒が待っている。鍛冶の町の空気。石粉の匂い、鉄の香り、焼きたてのパンの煙──すべてが懐かしく、そして今日から少しだけ遠いものに感じた。
エルドは胸元を押さえるように、そっと鞘に指を添えた。静かな街のなか、不意に
──キィン……
まるで鋼を撫でたような、細い共鳴音が耳をかすめた。誰にも聞こえないはずの“音”。オルディアから微かに響いたそれに、少年は足を止める。
それは、まだ名もなき旅の始まりを告げるような、静かで確かな合図だった。