第19話「静寂」
女王トルピネの咆哮が、腐りかけた天井の梁を震わせる。
異様な鼓動。それは憎悪でも悲哀でもない。剥き出しの“執着”だった。
──群れの王を奪った代償を、誰であれ支払わせる。
その意思が、空気そのものを重くする。三人の体表に、じっとりとした汗が浮かぶ。
「来る……!」
ギロムが低く唸った直後、女王トルピネの巨体が地を蹴った。雷のような跳躍。怒りによって筋肉の制御が壊れたかのような、むき出しの突進だ。
「ッ──レイナ、後ろに!」
エルドが叫ぶと、すでにレイナは距離を取っていた。針を二本、両手に構えて。
一方、ギロムは踏み出していた。
右手の巨大手甲──彼の腕の一・五倍はある鉄塊が、うなりをあげて振るわれる。
「止まれぇぇッ!」
ぶつかった。
女王の肩口を真正面から撃ち抜いたその一撃に、女王の身体がわずかに捻れる。
だが──止まらない。
「……なにっ──!」
ギロムの肩が吹き飛ばされそうな衝撃。右手の手甲が、鋭い裂け目と共に半壊した。
金属片が跳ね、床に散った。
「……は、ははっ、やりやがったな」
ギロムは後退しつつも、口の端を吊り上げて笑った。その笑みには、どこか嬉しささえ混じっていた。
その瞬間──
「今!」
エルドが駆けた。
女王がギロムに気を取られ、身体を半ば傾けた隙──
「斬る──!」
鞘から抜かれたオルディアの刃が、風を裂く音を立てた。
振り下ろすのではない。削るように滑らせる──剣の重みと、流れるような加速。
女王トルピネの胸元に、深く、鋭く──軌跡が刻まれた。
濁った咆哮。けれど、まだ動く。
「……やっぱり、もう一手」
エルドが跳び退いた次の瞬間──
レイナの声が、短く響いた。
「毒針、投擲!」
右手から放たれた一本の針が、女王の首筋に刺さった。
その直後、女王の動きがわずかに鈍る。神経毒。即死性はないが、反射と筋制御に遅延が出るよう設計された麻痺毒だった。
「ギロム、立て直せる?」
エルドの問いに、ギロムは手甲を砕けたままの右手で握り直し、苦笑した。
「まだやれる。だが……」
そして彼は、後ろに下がった。
「最後の一撃は、お前のだろ?」
エルドは頷いた。オルディアが震えている──共鳴するように、刃が光を帯びる。
「……終わらせる」
そして、踏み込む。
女王の瞳が、かすかに揺れた。異常なまでの憤怒と悲哀が、そこにあった。
──でも、それでも。
剣は振るわれる。
「……ありがとう。もう、これ以上は傷つけさせない」
──ザンッ
渾身の斬撃は一直線に走り、女王トルピネの首筋を斜めに貫いた。
数秒の静寂のあと、女王の巨体が、崩れるように沈んだ。
ぬかるんだ空気の中で、エルドの呼吸が落ち着いていく。
「……やったな」
ギロムがぽつりと漏らし、レイナが短く頷いた。
剣を収めたエルドの指先には、まだわずかな震えが残っていた。だが──その顔は、すでに前を向いていた。
女王トルピネの巨体が、床に沈んでから、しばしの静寂が訪れた。
湿った石造りの床に滴る血の音だけが、天井の梁に響いていた。
「今度こそ……終わった、んだよな」
ギロムが息を吐きながら呟く。右手の手甲は、すでに原型を留めていない。だが、その顔には悔しさよりも達成感が浮かんでいた。
「うん。終わったよ」
レイナがそっと頷きながら、女王トルピネの死骸に近づく。慎重に針を一本抜き取り、薬液の痕跡と侵蝕具合を確認している。
「ちゃんと効いてた。筋肉が痙攣した跡がある。……想定どおりに動けた」
淡々と呟くその声に、わずかな自負が混ざっていた。
「……レイナ、すごいね。まさかあのタイミングで、毒針を入れるなんて」
エルドの言葉に、レイナは少しだけ目を細めた。
「ギロムが止めて、エルドが斬るって分かってた。私は、斬るための“隙”を作るのが仕事だから」
その言葉に、ギロムが苦笑する。
「しっかし……俺の手甲はバラバラだ。次の依頼、どうすっかな……」
「壊れてなきゃ、止まらなかったかもね。あの突進」
レイナが冗談のように言うと、ギロムは「そっちの毒も効いてたけどな」と笑い返す。
エルドは、女王トルピネの死骸をじっと見下ろしていた。
怒りの奔流を放ち、破壊の化身のように暴れたその巨体は、今はただの沈黙を湛えている。
(……強かった)
けれど、自分は斬れた。仲間と共に斬ったのだ。
オルディアを通して届いた、“斬れ”という感覚。迷わず踏み込めたのは、剣と、仲間がいたからだ。
「……ありがとう」
オルディアに小さく呟くと、鞘に刃を納めた。
そこへ──奥から、足音がひとつ。
暗がりの向こうから姿を現したのは、引率役のアランだった。
「ふむ、やるな」
石廊の途中に立ち、静かに三人を見下ろす。
「……手を出さなくて、正解だったな。最後まで見届けたが、お前たちは“自分たちの力”で勝った」
そう言って、アランはゆっくりと近づいてくる。
「アランさん……」
ギロムが驚いたように言うと、アランは顎で貯蔵庫の入口を示した。
「元々、ボス個体を確認した場合は、記録だけする予定だった。ここまで踏み込むとは思ってなかったがな。──だが、文句なしだ。三人とも、よくやった」
その言葉に、三人はしばし顔を見合わせる。
どこか照れくさそうに──だが、確かな満足と、互いへの敬意が、そこにはあった。
「……じゃ、帰るか」
ギロムがぽんと左手でエルドの肩を叩く。
「その剣、光ってたぜ。……あんた、たぶん伸びるよ」
「え……あ、ありがとう……」
戸惑いながらも、エルドは照れ笑いを浮かべる。
「レイナさんも……ありがとう」
「こちらこそ。……次は、罠の効き目、もっと上げとく」
そうして、三人は貯蔵庫の奥に沈んだ亡骸へ、最後の視線を送った。
もう、あの咆哮は響かない。
静けさのなかに、確かな自信と成長の感触が、残されていた。




