第18話「女王個体」
蔦と苔に覆われた壁を払い除けると、苔の奥には、重く閉ざされた石門があった。
ギロムが力を込めて押す。石が鳴るような低い音が空気を震わせた。
その奥。
古びた貯蔵庫跡──水気と霧が充満する、冷たい空間が広がっていた。
「……でかい」
その言葉が漏れたのは、ギロムだった。
足音を立てず、石床の中央で佇む一体の獣影。
はじめに討伐したボスや、先ほど討伐した夫婦より、さらに一回り以上も大きい。推定、三~四メイル。筋肉の膨張により背骨の起伏が際立ち、扇形の耳は僅かに後ろへ伏せられている。
その姿には、ある種の威厳すら宿っていた。
「……これが、ボスのつがいの片割れ」
レイナが、低く呟いた。
「怒ってる。ボスがやられたの……耳か、匂いか。何かで察知してる。怒りに満ちている。メスね。」
空気が一変する。
女王個体──そう呼ぶに相応しい殺気が、空間を満たした。
レイナが罠針を構える。ギロムは重々しく手甲を上げる。
そして、エルドは──剣を抜き、オルディアが震えた。
(まただ……“聞こえる”)
“怒り”の鼓動。
“執念”のざわめき。
その全てが、エルドの耳を通して、オルディアの芯へと届いていた。
(ここを越えなきゃ、前に進めない──!)
その時だった。
女王トルピネが、咆哮を放った。
それは、牙ネズミの時に感じた異常個体と同質──否、それ以上の“激情”の音だった。
エルドは剣を構えた。
「行くぞ……ここが、本当の終わりだ──!」
貯蔵庫跡地に響いた咆哮は、空間を歪めるほどの怒気を帯びていた。
先に倒された“つがい”のオス──その死が、この異形の女王個体を狂わせた。
「来るぞ!」
ギロムが叫ぶと同時に、女王トルピネの四肢が石床を砕いた。
距離を詰める速度が、明らかに今までの個体とは違う。
(早い!)
扇状の大きな耳が、音を読み取り、動きの起点を察知している。跳躍力も、重さも、桁が違った。
「左右、散開!」
エルドの声に反応して、ギロムは左に、レイナは右へ跳ぶ。
中央に残ったエルドに、女王トルピネの突進が迫る。
剣を構える。距離は、五メイル──三──、一!
「──ッ!」
刃が走った。
けれど──重い。
(硬い……!)
刃は肩口に食い込んだものの、肉を割って止まった。即死は取れない。
その巨体が、ただの本能ではない“狙い”を持って反転する。
「エルド、伏せろ!」
ギロムの一撃が横から叩きつけられる。
重量のある手甲が女王の側頭部に炸裂。石床が軋むほどの衝撃が生まれた。
だが──
「ぐっ……!」
ギロムの顔が歪む。手甲に残る感触は、確かに鈍かったが──跳ね返された感覚が残っていた。
(耐えやがった……!)
女王の身体は一瞬ふらついたが、すぐに四肢で地面を捉え直し、巨体を捻ってギロムに牙を向ける。
「ギロム、下!」
エルドの叫びと同時に、もう一閃。
ギロムがかわすと、その顎は石床を抉った。
その背後。
レイナが静かに針を投げた。
──シュッ。
女王の左前脚に、小さな銀の針が突き刺さる。
「麻痺は効かないか……いや、動きが鈍った?」
レイナが観察を挟む。即効性はないが、確実に脚の踏み込みが甘くなっている。
女王はレイナの存在に気づいた。巨体を向ける。──咆哮。
(次の標的は──レイナ!?)
ギロムが飛び出そうとした、その瞬間──
「──俺が行く!」
エルドが、跳ぶ。
体を低く抑え、脚力で一気に距離を詰めた。
剣・オルディアが、呼応するように振動する。
(斬れる──“ここ”なら──!)
耳を伏せた女王の首筋──防御の薄い箇所へ、鋭く振り下ろす。
「ッ、はああぁ──ッ!」
──ザシュッ!
血が迸る。
女王トルピネが苦鳴を上げた。
(通った──!)
けれど──
咆哮が、怒りを倍加させる。
ぐらつきながらも、反撃の爪が迫る。
「エルド、下がれッ!」
ギロムがエルドを突き飛ばし、代わりにその爪を受け止める。
手甲と爪が激突し、金属の悲鳴が響いた。
「がっ……くそ、力が、違う……!」
──その隙に。
レイナが再び、背後に回る。
「今度は、毒針よ」
狙いを定め、指先から弾くように放たれた。
──カシュッ。
命中。後脚の内側に刺さる。
女王が一瞬、動きを止めた。
呼吸が荒くなっている。
「効いてる……!」
だが──止まらない。
怒りと執念だけで、再び巨体を起こす。
(しぶとい……けど、今なら──)
エルドが立ち上がる。
「決める……!」
剣を構えた。
(オルディア……!)
剣が、確かに応えるように震える。
そして──再び、女王トルピネに向かって、三人が動いた。
咆哮。
それは、空間のすべてを揺らすような震えだった。
女王トルピネの口が大きく開かれたかと思うと、湿った空気が一気に圧縮されるような低いうねりが走り、次の瞬間、爆ぜるように床を蹴って跳躍した。
「──来るぞ!!」
アランの声が響くと同時、女王の巨体が天井付近まで跳ね上がった。
目が、赤黒く光っていた。怒りだけでなく、何かを“失った者”の絶叫のような色をしていた。
「エルド、伏せ──!」
ギロムが叫ぶが、それより早くエルドは剣を上に掲げ、身体をひねるようにして構えた。
(来る。軌道は──垂直。ど真ん中だ)
その瞬間。
──ドゴンッ!!
真上からの直撃。エルドは辛くも刃を食い込ませ、女王の顎を逸らした。
だが、重さと勢いはすさまじく、地面に押し倒される。肩が軋み、土の中に片腕が沈んだ。
「ッ……が、は──っ」
息が詰まる。耳が鳴る。だが、剣は離さなかった。
「まだ──やれる」
巨体から距離をとり、身体を起こそうとした、そのとき──
「やりすぎだな、あれは」
アランが唸るように言いながら、一歩だけ前に出た。
だが、
「……止めないでください」
血のにじむ口元を拭いながら、エルドが立ち上がった。
その眼は、静かに燃えていた。
「俺たちがやらなきゃ──“意味がない”んです」
沈黙。
アランは一瞬だけ、まなじりを細め──そして、笑った。
「……なら、見せてみろ」
その声は、どこか嬉しそうですらあった。
女王は再び姿勢を低く構え、今度は一撃離脱の軌道で左右へ跳ねる。狙いを定めさせず、頭部と前足を使って周囲を“薙ぎ払う”動きを見せ始めていた。
(狙ってる。罠を避けてる……?)
「レイナ、罠は──」
「──大丈夫」
その声は、女王の影からやや外れた位置から届いた。
すでに、レイナはその場にいなかった。
「回ってきてる。あの動き、予測通り」
そう言いながら、背の高い木箱の陰から姿を現す。
小さな手に握られた、ペンほどの太い針。
だが、そこに込められた薬液は、さっきの麻痺針とは“違う”。
「……今度は、いつもの毒じゃない。神経遮断」
囁くようなその言葉が終わると同時に、女王が再び跳躍した。
その足元──地面が、爆ぜた。
「──!」
網のように張られた細糸が瞬時に引きちぎれ、何本もの木杭が上方に跳ねる。女王の右脚に命中。跳躍の軌道がわずかにズレた。
「今ッ!」
ギロムが吼え、脚を鳴らして女王の懐へ滑り込む。
右腕の巨大な手甲が、鉄の重みで振り下ろされ──女王の脇腹を叩きつけた。
だが、仕留めきれない。
「くっ……まだ!」
その場を転がるように避けた女王が、反撃の体勢に入る。
その背後──
「今度こそ」
エルドが踏み出した。
剣が、鳴る。
オルディアの刃が、再び“音”を掴んだ。
「──斬る!!」
風が裂けた。
刃は、女王の側頭部を掠め──向かって右の耳を切断する。
女王が叫ぶ。
跳ねた血が、土に落ちる。
その震えが、全員の肌を打った。
「あと少し……!」
三人は、戦いの終局が近いことを感じ取っていた。
女王はまだ倒れていない。
だが、もう……決着の兆しは、見えている。




