第17話「夫婦」
泥濘を踏みしめる音が、静かに近づいてきた。
廃屋の影から現れたのは、一回り大きな、二体のトルピネ。
「……なんだ、あのサイズ」
ギロムが小さく息を呑んだ。
それは、今までの個体たちよりも一段と逞しく、毛並みの厚さも異様だった。背中にうっすらと筋のような隆起があり、牙は長く、しかしボス個体よりもやや細い。
二体は、並んでいた。
「……つがい、か?」
思わず口にしたのはエルドだった。だが、確信はなかった。ただ、ただの魔獣にしては妙に息が合っていた。
二体は、ぴたりと立ち止まり、次の瞬間──右の個体が鋭く地を蹴る。
「来るぞ!」
ギロムが手甲を構えた。突進してきたのは、右側の個体。体格から見れば、僅かに筋肉量が劣るように見えた。
──だが、動きは速い。
レイナが針を投げると同時に、左の個体がその軌道を妨害するように横から割り込んできた。
「……え?庇った?」レイナが目を細めた。
その瞬間、彼女の中に確信のような感覚が生まれる。
(──あの二体、夫婦だ)
すでに数本の針を手にしていたレイナが、静かに後退する。視線は常に前。すでに足元には罠が仕掛けられていた。
「誘うよ……ラスト一匹、こっちに来い」
鋭い一撃──ギロムがオスらしき個体に拳を叩きつける。
激しい衝撃音。手甲が鈍くめり込むが、獣は吠えて後退しただけだった。
「……こいつ、硬ぇ……!」
「今いく!」
エルドが剣を抜いた。その動きに、ギロムがタイミングを合わせて拳を振り抜き、獣の視線を逸らす。
──刹那。
「やっ!」
エルドの剣が、獣の首元へ深く走る。
鋭い音とともに、トルピネの身体が崩れ落ちる。
「……倒したか?」
息を詰めて見つめる三人。
が、その後ろ──庇って倒れたかのように見えたもう一体の個体が、音もなく立ち上がった。
その目に宿るのは、怒り。喪失。狂気。
「──擬死だ!これはメスよ……!」
レイナの声が、静かに落ちる。
だが、彼女の足元には、すでに罠があった。
「踏め……そこよ」
メスの個体が突進──その足が、沈み込む。
ズシュッ!
隠された杭が獣の足を突く。だが、それでも止まらなかった。
「……止まらない!?」
レイナが僅かに怯む。今までのどの獣よりも──“感情”を感じた。
「ギロム!」
「応ッ!!」
すかさず飛び込む巨腕。だが、獣はその一撃を跳ねるようにかわした。明らかに“勘”ではない。読まれている。
(──怒りで、研ぎ澄まされた?)
「……これは、さっきのよりヤバい!」
エルドが剣を構え直す。
「いける。ここで倒す……!」
エルドは一歩、泥を踏みしめた。振りかぶった剣の先から伝わるオルディアの震えは、もはや音ではなかった。だが、確かにそこに“斬るべき存在”がいると告げていた。
前方──トルピネのメスは、すでに右脚を失っていた。それでも、ぎりぎりの均衡で立ち上がり、赤く濁った瞳でこちらを睨み据えていた。
背後から、ギロムの声が低く響いた。
「……いや、まだ来るぞ」
エルドの動きがわずかに止まる。メスの躯が、僅かに震え──
「ギャッ……!」
怒りとも悲哀ともつかぬ叫びとともに、メスは左脚だけで地を蹴った。崩れた姿勢から無理に跳躍し、牙を剥き出しにして突っ込んでくる。
「ッ……!」
咄嗟に身を低くし、エルドは剣を構え直した。斜め下から、地を抉るように──刃を放つ。
「──はあぁッ!」
斬撃音が鳴った。風が裂け、泥が弾け、血が散った。
メスの身体が、エルドの真横を通過した勢いのまま、ぐらつき、そして──
ばしゃ、と湿った音を立てて地に沈んだ。
動かない。再び立ち上がる様子も、呻きもない。
静寂が戻る。
エルドは肩で息をしながら、剣を構えた姿勢のままゆっくりと振り返った。
ギロムが、ほんの少しだけ口元を吊り上げて言った。
「……やったか。しぶとい奴だった」
エルドは目を細め、トルピネのメスの死骸をじっと見据えた。そして、そっと鞘に剣を納める。
オルディアの震えが止んだ。
旧市街区跡地に、再び沈黙が落ちた。
戦闘が終わった空気が、ぬかるみと血の匂いの中で沈んでいた。
エルドたちは息を整え、倒れ伏した二体のトルピネの亡骸を静かに見下ろしていた。泥に染まった牙、倒れた枝に巻き込まれた尻尾。その姿は、明らかに群れの“つがい”だった。
「……夫婦、だったんだよな、たぶん」
ギロムが手甲を振って泥を落としながら言った。
レイナも無言で頷く。彼女の罠針はすでに鞘に戻され、仕掛けた罠も手際よく回収されていた。
安堵の空気が、静かに広がる。
その時だった──
「……ちがう」
エルドが、顔を上げた。
剣・オルディアの柄が、再びかすかに震えている。
音が、ある。遠くから、空間の奥から──血を引き寄せるような、“音”。
「まだ終わってない……」
エルドは剣を耳にあて、目を閉じた。
そこには、どこかで“呼吸するもの”の気配があった。
「……向こうの方角」
エルドはすっと指を伸ばし、旧市街区跡地の奥部──崩れかけた蔦の壁の一角を指さす。
「……?」
ギロムとレイナが、目を細めてその方角を見やる。
「……ほう」
アランの表情が、僅かに変わった。
「気づかなかったな。封鎖された貯蔵庫跡か……記録上は崩落で閉じられていたとされていたが……まさか、そこに“まだいる”と?」
エルドは静かに頷いた。




