第16話「トルピネの群れ」
重たく湿った空気が、旧市街区跡地の一角を押し潰していた。
石畳にしぶきが跳ね、微かな砂塵が舞う。踏み荒らされた瓦礫の隙間から、鋭く光る双眼がこちらを覗く。
「……あれが、ボス・トルピネ」
レイナが呟いた。
牙ネズミに似た大きさ。だが、あまりにも異なる。
前歯は、まるで鉈のように発達している。赤黒く濁った眼孔。尾は太く、地面に弧を描いて撓んでいた。
「前歯と脚力……それに、あの耳。並じゃねえな」ギロムが呟いた。彼でさえ、安易に突っ込まない。
そのとき──
ギャッ!!
獣が咆哮を上げる。
鼓膜を震わすような不快な音波が周囲に響き、三人の鼓動を打ち乱した。
「──ッ、来るぞ!」
ギロムが咄嗟に前へ出る。その巨腕の手甲が、衝撃波を正面から受け止めるように構えられる。
しかし──それは囮だった。
ボス・トルピネは、一度視線を逸らすと、地面に爪を食い込ませ、左の瓦礫斜面を駆け上がる!
「高所──!」
レイナが針を放つ。
しかし、ボスの跳躍はあまりにも鋭い。身を翻しながら矢を避け、そのままエルドへ向かって落下してくる。
(避けられない!)
エルドは剣を前に突き出した。
牙が閃き、刃が交差する。
──ガキィッ!!
重さと質量が、一度に腕にのしかかる。
(駄目だ……受けきれ──)
ガッ!
斜め後方から、手甲の一撃が吹き飛んだ。
ギロムの拳が獣の腹を斜めに叩き、体勢を崩させる。
「いま打ち込め!」
声が飛ぶ。
刹那、エルドは足を踏み出した。
刃が“導かれる”感覚──
跳ねるように地を蹴り、獣の胸元へ滑り込む。
「──やぁっ!!」
斬撃。
オルディアが輝くように軌道を描き、群れ主の左肩を浅く裂く。
が──
「……まだ浅い!」
叫ぶレイナの声。
血を流しながらも、獣は咆哮と共に跳ね上がった。
──ギャゴォッ!!
音が、重低音に変わる。
「来るぞ、第二波だ!」
耳を揺らす咆哮。その音に敏感なトルピネたちの特性──それを利用して、自らの鼓膜で“狂乱”のような波動を発している。
「……くそ、足が止まるっ」
ギロムが顔を歪める。
レイナも弓を構えるが、射線がぶれる。
そのとき、エルドの耳に──
オルディアの“振動”が走った。
剣の柄が──彼にだけ、確かに“声”を響かせる。
敵の音。
瓦礫の破片が揺れる位置。
跳躍の構えに入る寸前の、風の“裂け目”。
──聴こえる。
音が、通る。
空気が、抜ける。
(……次、跳ぶ。右上、石壁の斜面)
エルドは踏み込んだ。
刃を、風に乗せる。
跳ねる獣の着地点──そこに、すでに剣が待っていた。
──ズバァッ!
深く、右脚に一閃。
そのまま崩れ落ちる。
「いまだ!」
ギロムの拳が、今度は真上から振り下ろされた。
ゴォン──ッ!!
地面が軋む。
獣が、呻くように喉を鳴らした。
そのとき。
レイナの罠が、トルピネの尾に絡む。
鉄線の罠。跳躍力を奪い、動きを止める。
「ここで、終わらせる!」
エルドが最後の一歩を踏み出す。
跳躍。
剣を水平に──オルディアが、震えていた。
“聴いてる”。
“導いてる”。
剣と、耳が、ひとつに重なる。
斬撃が、首筋を貫いた。
──ズバァッ!!!
トルピネが、泥に沈む。
大きな耳が垂れ、足が痙攣を止めた。
静寂。
誰も、すぐには声を出さなかった。
そして、ギロムが短く呟いた。
「──終わったな」
エルドは、剣を下ろした。
心臓が、静かに打っている。
剣を振るう。
その意味が、少しだけ──分かった気がした。
その刃は、“導かれていた”。
そう──確かに。
討ち果たしたトルピネの亡骸が、ぬかるみの上に静かに沈んでいた。
大きく裂けた前肢からは赤黒い血が流れ、泥と混ざって鈍く光っている。静寂が戻った一帯で、しばし誰もが動かなかった。
レイナが腰を下ろすと、小瓶から薬液を針に塗り直していた。ペンほどの太さのその針は、陽を受けて鈍く光っている。
「これで……終わりか?」と、ギロムが低く呟いた。
だが、その言葉が地に落ちる前に──
エルドは、剣の柄にそっと手を添えていた。
静かに、鞘のままオルディアを耳に寄せる。
刹那、鋼の奥がわずかに震えた。音はない。しかし、確かに“何か”が鳴っていた。
(……まだ、終わっていない)
目を伏せる。鼓膜に触れるような、沈んだ共鳴。空気の振動ではない。もっと深く、地の奥から響くような“気配”だった。
「……エルド?」
レイナが、不思議そうに問いかける。エルドはゆっくりと顔を上げた。
「終わりじゃない。まだいる……この先に、何かが──群れが潜んでる」
アランが、その言葉に反応を示した。
「……ほう」わずかに口角が上がる。重い槌を肩に担ぎ直しながら、何かを見定めるように視線を投げた。
「その剣が、そう囁いたのか」
「え?」
「いや……いい目だ、クラヴェル。あの一帯は、旧市街区跡地の入り口に過ぎん。地図によれば、奥に取り壊された工房施設跡がある」
アランは腰のポーチから折りたたまれた羊皮紙を広げた。街の古い区画が描かれており、彼らが今いる地点の少し先──廃棄された倉庫群の影に、別の印が打たれている。
「ここに、同種の群れが確認されていた。“群れの本巣”か、それに近い拠点……だが、今のところ、巣穴の痕跡は見つかっていない」
「じゃあ……この先に、まだいるってことですか」
ギロムが前に出る。手甲が金属音を立てる。
「いる。群れの構成数からしても、おそらくこの前に出たのは“監視役”か“牽制個体”。本体はまだ……動いていない」
「ここを巣にしていたってことね」
レイナが小声で言った。彼女の視線はすでに周囲の草むらを読んでいる。罠の設置を意識しているのだろう。
エルドは一歩踏み出した。
「行きましょう。ここで止まったら──何のために戦ったのか、分からなくなる」
その言葉に、ギロムも無言で頷く。
アランは少しだけ目を細めた。
「よし。では、移動を再開する。ただし、ここからは“巣域”だ。敵も本格的に抵抗してくるだろう。三人の判断を、しっかり見させてもらう」
彼の言葉に、誰も反論はしなかった。
陽は傾きつつある。
工房跡へ向かう道は、旧市街区跡地の外縁に沿って続いていた。かつては舗装されていたであろう石畳も、今は崩れ、草と苔が割れ目を埋めている。建材の欠片があちこちに散乱し、風が吹くたびに錆びた鉄柵が軋んだ。
エルドは、鞘の中で静かにオルディアに指を添えていた。
先ほどまでの違和感──空気の「反響」に、わずかな歪みがある。それが確かに近づいている。
(音が──まだ、安定していない。何かが動いてる)
「足元、割れてるぞ。瓦礫に気をつけろ」
ギロムの声が後方から飛ぶ。レイナはその声に頷きながら、手にした針を一本、指の間に挟み込んだ。腰のポーチには、小さな罠具がいくつか装備されている。
「さっきより空気が湿ってる。ここ、地下に続いてる可能性あるよ」
レイナが小声で言った。
「地下……か」
ギロムが右腕の手甲を軽く鳴らす。手首の可動域を確認するように何度か握り直すと、金属の継ぎ目がわずかに光を返した。
「たぶん、あいつら──もっと跳ねてくる。踏み込ませたら終わりだ。やるなら先手を取る」
「了解」
エルドは頷いた。気配が濃くなる。剣の柄に微かに震えが伝わった──間違いない、近い。
そのときだった。
シャッ──
乾いた草を裂く音と共に、左手の廃材の山がわずかに揺れた。
「──前方、接近」
ギロムが短く告げるや否や、三体のトルピネが瓦礫の影から飛び出してきた。
灰褐色の毛皮を逆立て、地を蹴る音が鋭い。
一体目が斜めからレイナへ突進──だが、レイナは動じなかった。
「……そこ」
指先から放たれた針が、正確に飛ぶ。わずかな破裂音と共に、トルピネの肩に突き刺さった。
一瞬、動きが鈍る。毒か、あるいは麻痺。だが、それでも勢いは止まらず、足元まで迫った──。
「下がれ!」
ギロムが飛び出す。右手の巨大な手甲が振るわれ、雷鳴のような衝撃音が周囲を震わせた。
──ドガン!
トルピネの身体が吹き飛び、瓦礫の壁に激突する。
「……ちっ、音が響きすぎたな」
ギロムが顔をしかめた。手甲の一撃は確かに強力だが、あまりに派手すぎる。次の敵を呼び寄せかねない。
「下がって」
エルドが前に出る。もう一体──正面からこちらへ突っ込んでくるトルピネがいた。
相手は跳躍に入る直前。後肢に力を溜め、扇形の耳がぴくりと動いた。
(音を──聞いてる)
エルドは一歩、地を蹴る。
鞘から抜いた剣が風を裂いた。
「──はッ!」
刃が、トルピネの足元を斬り裂いた。相手が跳躍しようとするタイミング──読み通りの一閃。
金属の響きと共に、廃材の山を吹き抜ける風が止んだ。
エルドの刃が突き抜けたのは──確かに、急所だった。
その手応えに、彼自身が驚いた。
(……倒した)
トルピネの身体は、音もなく沈んだ。急所を斬り裂かれたそれは、断末魔すら残さず、ただ泥の上に崩れる。
「お前……やるじゃねぇか」
ギロムが目を見開いたまま低く唸った。
その声に答えるように、レイナの放った針が別のトルピネの首筋に命中し、刹那──足をもつれさせた個体が、彼女の足元に仕掛けられていた小罠へと飛び込んだ。
カシン──。
金属の刃がばね仕掛けで跳ね上がり、喉元を挟み込む。
動きは止まった。静寂。
「……三体、殲滅完了」
ギロムが呟いた。
だが──その声と同時に、背後の瓦礫群が揺れた。
「──来るぞ、四体。二手に分かれてる!」
ギロムの咆哮と同時に、トルピネが左右から現れた。
二体はエルドとギロムの方へ、残りの二体は、廃材の裏手から弧を描くようにしてレイナを囲い込むように迫ってくる。
「ギロム、右!」
「わかってる!」
一体目が跳躍──狙いはエルド。
エルドは、オルディアを構えながら息を止めた。
風の音が──変わる。
(ここ!)
刃が閃く。
空中のトルピネの喉元に、一直線の斬撃が走る。身体がねじれ、血飛沫が空を裂いた。
刃は骨まで届いていた。着地することなく、獣は力なく地面へ落ちた。
その横──ギロムは地を踏み抜くようにして踏み込んだ。
「遅えよ、鈍獣が!」
右腕を振りかぶる。巨大な手甲が唸りを上げ──振り下ろされた。
──ドガン!
地面ごと潰す一撃。
金属の衝撃音と共に、トルピネの背が陥没し、痙攣したまま泥に埋まる。
「……一撃」
ギロムが吐き捨てるように呟いた。
だが、その時──
「レイナ!!」
エルドが振り返った瞬間、二体のトルピネが、挟み込むようにレイナに向かって跳躍した。
が──
「遅い」
レイナは微かに笑っていた。
彼女の足元──仕掛けていた罠の一つが、音もなく起動する。
カシン、シュッ──!
圧縮式の麻痺針が四方から飛び出し、二体のトルピネの脚部、喉元、腹部へ突き刺さる。
跳躍の勢いが削がれ、身体が空中で硬直した。
そして──
彼女の左手が振るわれる。もう一本の針が、迷いなく、急所へ。
──ピシュッ。
一体、落下。二体目も、間を置かずに泥へと沈んだ。
誰も──何も言えなかった。
音すら立てず、気づかぬうちに罠を張っていたレイナの技量。獣たちは、完璧に誘導され、完璧に処理された。
「……お前、ほんとに罠士か?」
ギロムが思わず呟いた。
「ええ、ただの罠士よ」
レイナは口角をあげ、すっと針を抜き取りながら答えた。その手つきは迷いがなく、まるで計算され尽くしていたかのように見える。
エルドが短く口を開く。
「よし──七体、排除。」
誰もが頷いた。
気配が、薄れていく。けれど──
エルドは、剣の奥から届くわずかな震えに、まだ奥に何かがあると感じていた。
(……オルディアが、黙っていない)




