第12話「重なる足音」
湿林の奥に開いた地下の“通気口”──そう見えていたそれが、実際には“意図して隠された入り口”だったと気づいたとき、エルドの心に残っていたのは驚きではなく、妙な納得だった。
オルディアが発していた震え──あれは、ここに近づくたび、確かに濃くなっていた。
(やっぱり、こっち側に“道”があったんだ)
地下での一件を終えたフィレーナ、エティア、エルドの三人は、博士らが転移で姿を消した後も、しばしその場に立ち尽くしていた。だが、もう“あそこ”には何もなかった。異常個体との交戦によって損壊した術式の名残だけが、燻った痕のように残されていた。
「……戻る。巣穴の表側へ出る道を使う」
フィレーナの判断は早かった。エルドたちは、異常個体が現れた通路──つまり“表”の巣穴へと通じる地下通路を辿って進むことにした。
灯りのない石組みの道。崩れかけた梁。獣の爪痕が残る壁面。十数メイルほど進んだ先で、湿った空気が僅かに流れ込んできた。
その向こうに──見慣れた気配があった。
「エルド? エティアも──フィレーナ隊長!」
声が交錯する。斧を担いだトラス、術士のマユリ、そして前衛の一角を担うカタニアの姿。巣穴の正面側から踏み込んできたようで、こちらに気づきかけていたところだった。
「……お前たち、そっちから来たのか」
グランツの低い声が洞の奥に響く。手にした装備を軽く下ろして、こちらを迎えていた。
「まずは、全員無事を確認してくれ」
フィレーナの指示に従い、各班が手短に互いの状態を確認する。表で交戦していた前衛部隊──グランツ、トラス、マユリ、カタニアは、第三波にわたって現れた牙ネズミの群れと交戦していたようだった。
「個体数八の奇襲が三回。負傷者は軽傷のみ。対応に問題なし」
グランツが簡潔に報告する。
そして、周囲の警戒に出ていた残る五人──周囲の警戒や後方支援に回っていた冒険者たち──も、一斉に首を横に振る。
「……巣穴周辺には異常なし。魔物の気配も、今は感じませんでした」
「林の外縁でも、目立った足跡や魔力痕は確認されず。今のところ、敵の増援は無いと見ていいかと」
落ち着いた声での報告に、場の空気が僅かに緩んだ。
フィレーナは全員の顔を一度見渡し、短く頷くと、静かに口を開いた。
「地下に、施設があった。牙ネズミの行動や生態を“観察”するために設けられた研究拠点。そこにいたのは、結社の関係者だと思われる」
その名に、場がざわめいた。
「結社?」
「それが本当なら、ただの討伐依頼じゃ済まねぇぞ」
だが、フィレーナはその動揺を即座に鎮めるように手を上げた。
「証拠は、転移で逃走した“博士”を名乗る人物の存在と、遺された研究設備のみ。詳細な確認は、王都の情報局に報告する。これ以上の調査は、私たちの任ではない」
誰も反論しなかった。
その一方で、エルドは地下から持ち帰った感覚──あの“異常個体”との戦闘、そして剣を通して伝わってきた不可解な“共鳴”──を、まだ忘れていなかった。
(──あのとき、確かに“音”が響いていた)
誰にも聞こえなかったかもしれない。だが、自分には届いていた。
あの剣が、共鳴していた。闇の底にいた、何かと。
「……オルディア」
名を呟くと、鞘の中の剣が、かすかに沈黙を震わせた。
この戦いは、まだ“入口”に過ぎない。
エルドは、そう確信していた。
日が傾きかけていた。
湿林の上空には、うっすらと夕焼けの筋が差し込み、枝葉を透かしてゆらめく。泥に沈んだ空気も、少しずつ温度を失い始めていた。
牙ネズミの巣を中心とした一帯では、戦闘の痕跡だけが風に紛れて静かに残っている。
一度集まった一行は、戦闘の疲労と判断のため、今夜はここで野営することを決めていた。湿林の外れ、緩やかな傾斜の上──湿気の少ない高地を選び、交代制で警戒と休息に入ることになった。
夕飯の準備を始めた者、傷の手当を受ける者、そして、静かに火の傍に腰を下ろす者たち。
エルドは、斜面に腰を下ろしながら、鞘の中のオルディアをそっと撫でていた。誰かと話したい気持ちもあったが、言葉にするには、まだ整理しきれていなかった。
──あの異常個体。
牙ネズミとは思えない、あの振る舞い。殺気、知性、執着のようなもの──そして、オルディアが“共鳴”したこと。
(あれは……俺に、反応していたのか?)
考えようとするほど、脳裏のどこかが痛む。答えはまだ出ない。
「──考え込んでるね」
声に、エルドははっとして顔を上げた。
そこには、焚き火の灯に照らされたカタニアの姿があった。彼もまた、自身の双剣を膝に乗せ、手入れをしている最中だった。
「……カタニア」
「さっきの戦い、また剣から何か聞こえた?…あっ、ひょっとして…“うるさかった”んじゃない?」
カタニアの言葉に、エルドは一瞬黙った。そして、小さく笑って、鞘を叩いた。
「……実際、ずっと騒いでた。まるで、俺より先に何かを感じてるみたいに」
「やっぱり、そうなんだ。あの剣……ただの武器じゃない」
「わかってる。でも……まだ、俺には扱い切れてない気がする。何かを求められてるけど、応えきれてない」
エルドの言葉に、カタニアは微かに頷くと、視線をそらして焚き火の方を見た。
「──僕、前にも見たんだ。ああいう異常個体」
エルドの目が、はっと鋭くなる。
「君も?」
「うん。姉さんと一緒に、以前の騎士団の依頼に志願して……その時、森の奥で遭遇した。でも、倒せなかった。むしろ、向こうに見逃された。たぶん──“観察されてた”」
観察──その言葉に、エルドの背筋が冷えた。
「今回、僕らが志願したのも、それが理由。……もう一度、あれと向き合いたかった。姉さんも、そうだと思う」
遠く、エティアの背中が見えた。彼女は少し離れた木陰で矢羽の点検をしていた。
姿勢は変わらず冷静。だが、その肩の動きには、どこか慎重すぎるほどの緊張があった。
「──あの人は、俺たちの中で一番冷静だった。でも、たまに見える。あの瞳の奥に……怒りみたいなものがあるって」
カタニアの呟きに、エルドもそっと目を伏せた。
そのとき、ふと。
──キィン……。
剣が、わずかに響いた。
誰にも聴こえない音。だが、確かに耳奥に届いた“音の線”。
「……まだ、終わってないんだな」
エルドは立ち上がった。
焚き火が、ふっと揺れた。
空を見上げると、星の兆しが薄雲の隙間に見えていた。
明日、報告のためにサリオンへ戻ることになるだろう。
だが──
この森で起こったことは、まだ始まりにすぎない。
カタニアが立ち上がるエルドの背を見ながら、低く言った。
「……君の“剣の音”。これからも、隣で聴いていたいと思うよ」
その言葉に、エルドは肩越しに笑みを見せた。
「ありがとう。……きっと、まだ響かせるから」
翌朝、薄靄に包まれた湿林の空に、かすかに鳥の鳴き声が響いた。
夜を越えて、森は静けさを取り戻していた。牙ネズミの気配は完全に消え、巣穴の周囲にも新たな足跡は見られなかった。
それでも、冒険者たちの表情には、どこか張り詰めたものが残っていた。
昨夜の“異常個体”との交戦。そして──あの研究者たちとの邂逅。
あれがただの偶然ではなかったことは、誰の目にも明らかだった。
「全員、荷の確認を。小隊ごとに報告をまとめて、サリオンへ向かう」
フィレーナの指示が飛ぶ。彼女の声には、いつもと変わらぬ冷静さがあったが、足取りはやや早かった。
エルドは鞘の上からオルディアを一度押し下げ、小さく息を吐いた。
──音は、静かだった。あの戦いの余韻を、剣はまだ抱えているのかもしれない。
湿林を抜け、東門に戻った頃には、空は淡く白んでいた。
昨夜の戦いが嘘だったかのように、風は穏やかで、鳥の声が微かに聞こえてくる。
一同が門をくぐると、騎士団の二人──フィレーナとグランツが冒険者たちに向かって軽く顎を上げる。
「お疲れさまだ、冒険者諸君。今回の件、貴様らの働き、確かに見届けた」
フィレーナが短く言い放った。
エルドの目が、ふとフィレーナと重なる。
彼女は僅かに歩み寄ると、視線を下げずに言葉を続けた。
「お前の意思と剣、良かったぞ。迷いが消えたな。……成長を感じた」
エルドは、驚いたように目を見開いた。
いつも寡黙で冷徹だったその声が、どこか柔らかく響いた気がした。
「近々、またどこかで会うことになるだろう。……そのときまで、錆びさせるなよ」
その言葉に、エルドは自然と笑みを浮かべた。
「──はい。……次は、もっと“前”で戦えるようにします」
フィレーナの口元が、わずかに動いたように見えた。だが、それ以上何も言わずに馬へと跨がると、グランツと共に東門を後にした。
騎士団の背が遠ざかるにつれ、エルドの背筋が僅かに伸びた。
(──剣を持つ意味、少しだけ分かった気がする)
(……終わった。けど──)
エルドの胸の奥には、まだ形にならない何かが残っていた。
異常個体の咆哮。
博士の言葉──「禁詠官様に叱責を受けてしまう」。
あの転移魔法。
エナジア。
そして、結社シーフレット。
どれも常識から外れた出来事だった。それなのに、なぜか“遠い”とは思えなかった。
「おい、エルド。歩きながら寝るなよ」
斜め後ろから、くぐもった声が飛んできた。
振り返ると、斧使いのトラスが微かに口角を上げていた。
「す、すみません……」
「気張りすぎだ。だが、まあ……悪くなかったぜ」
ぶっきらぼうなその言葉に、エルドは不意に胸が熱くなるのを感じた。
“冒険者として、ちゃんと戦えた”。
それだけのことが、今の彼には大きな意味を持っていた。
サリオンの町並みに差しかかると、朝の市場がすでに賑わい始めていた。
露店から漂うパンの香り。道端に水を撒く音。人々の話し声。
その日常の中に、自分たちが戻ってきたのだと思うと、エルドの足取りはどこか軽くなっていた。
ギルドに到着すると、リナがカウンターで顔を上げ、すぐに立ち上がった。
「おかえりなさい。──全員、無事ですね」
彼女の声には、ほっとした気配が滲んでいた。簡潔に全体報告がまとめられていく。
「報告の概要をまとめます。推薦依頼“ラガル湿林調査同行”、全行程終了。参加者十名、負傷者二名、いずれも軽度。討伐対象、牙ネズミ及びスライム類、計三十九体──うち、異常個体一体。すでに確認済みの巣穴一つ、および地下構造施設の発見。今後、王国騎士団本隊の調査に引き継ぐ」
読み上げられたリナの言葉に、受付の奥から姿を現したのは、ギルド支部運営官──ダナス・ミールだった。
「異常個体との戦闘、そして地下構造──思った以上の収穫だな」
ダナスの口調は、いつもより一段低かった。
「だが、それ以上に──“全員、生きて帰った”ことの方が大きい」
言い終えてから、彼は冒険者たちをひとりずつ見渡した。
「そして、新人冒険者も参加。推薦というには難易度が高すぎたかと思っていたが……」
彼の視線が、エルドに止まった。
「結果を見れば、そうでもなかったらしい」
その言葉に、エルドは息を呑んだ。
──俺は、ちゃんと“役に立てた”のだろうか?
「今回の調査報酬は、特別加算があります。支払いは明日以降となりますが、個別に連絡を」
リナが告げると、仲間たちは思い思いに軽く息をつき、それぞれの席やロビーへと散っていった。
そのとき──
「エルドくん。ちょっと、いい?」
振り向けば、リナが書類を数枚抱えて立っていた。制服の袖を肘まで折り返し、少し汗ばんだ額にかかる前髪を指で払う。
「あのね、ひとつ伝達があって」
彼女は声のトーンを落とし、周囲に人がいないことを確かめてから続けた。
「支部の判断で、あなたの観察期間が終了と判断されたの。Fランク冒険者では最短の事例よ。すごいことだと思う」
エルドは、思わず瞬きをした。
「……観察期間、終了……?」
「うん。それと──昇格依頼、って知ってる?」
彼は首を横に振った。
リナは、少し嬉しそうに言葉をつないだ。
「その人の実力や特性を見て、ギルドが“推薦”した冒険者にだけ提示される特別依頼。成功すれば、その内容に応じて正式なランク昇格が認定される」
エルドは唾を飲み込んだ。
「……それ、俺が……?」
「今朝、運営官のダナスさんと話しててね。あの湿林でのこと──報告も実績も、ちゃんと届いてるわ。だから」
彼女は書類の束の一枚を、エルドの胸元に差し出した。
「明日、昇格依頼を受けてみない?」
紙には、簡素な依頼名と、ギルド支部長の認可印が押されていた。
「内容や条件は、今夜中に確認しておいて。詳しい話は、明日の朝、ダナスさんから直接あると思う。……心の準備、しておいてね」
エルドは手にした紙を見つめながら、深く、息を吐いた。
この剣と、自分の歩みを、次に進めるときが来たのかもしれない。
「……伝えてくれて、ありがとうございます」
「ふふ。期待していますよ、“剣士エルドさん”」
言い終えると、リナはいつもの業務モードに戻ったように背を伸ばし、掲示板の隣に貼り付けられた新着案件の張替え作業に移っていく。
エルドは小さく頷き、振り返ると、仲間たちの輪に加わった。
ただの“Fランク”だった自分が──今は、ほんの少しだけ、世界の輪郭に触れている。




