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第1話「焔を離れる少年」

 赤錆(あかさび)に染まった空が、サリオンの街を覆っていた。西の空に沈みかけた()が、鍛冶炉(かじろ)の煙を黄金に照らし、町全体を(ほの)かに熱く染める。

 金属の焼ける匂いと、燃えた炭の粉塵(ふんじん)が鼻を突き、耳には絶え間ない鉄槌(てっつい)の音が響く──ここは、ヴェルム王国随一の鍛冶の町。


 エルド・クラヴェルは、王立鍛冶工房の裏手にある火炉(かろ)の前で、一振りの剣を磨いていた。

 片刃の長剣──刃の根元が太く、先端にかけて細くなる独特な造形。

 どの型にも属さない、誰にも真似できない形だった。

 その剣は、エルド自身が数年間かけて独学で鍛え上げたものだ。素材は、彼が町外れの鉱山でひっそりと拾い集めた奇妙な鉱石を用いている。


 職人たちには「そんな金属、見たこともない」と鼻で笑われたが、エルドにはわかっていた。これが「音を持つ」素材なのだと。


 鉄と火の音に溶け込むようにして、その剣は確かに“音”を返してくる。

 石で静かに研ぐたび、まるでささやくような、微かな共鳴(きょうめい)が耳に届いた。他人には聞こえないそれは、彼の胸の奥で確かに響いている。


「……明日か」


 エルドは剣を研ぎながら、ぽつりと呟いた。

 師匠──ベイリク・アルベルに、冒険者ギルドの保証人になってもらう約束を取りつけたのは、ほんの数日前のことだった。正確には、ようやく「折れた」と言うべきか。

 あの時のベイリクの顔は忘れられない。


『冒険者になりたい? 鍛冶職人が(つち)を置いてどうする』


 返ってきたのは、いつも通りのぶっきらぼうな声だった。

 だが、エルドも引かなかった。


『俺は……俺の剣と一緒に“世界の音”を、もっと知りたいんです』


 初めて、心の底からの言葉をぶつけた。

 長い沈黙の後、ベイリクは目を細めて、一言だけ漏らした。

『……その音の先に何があるのか、それを確かめるのは、お前の役目だ。……但し、ギルドに登録するのは十六の誕生日、成人を迎えてからだ』


 それは承諾の意だった。


 エルドは日曜学校で学んだ基礎剣技を、夜更けにひとり繰り返し、教本通りで終わらせずに、己の間合いと感覚に合わせて細部を確かめていった。


 木剣のきしみ、足裏に返る土の感触、振り下ろしに残る“余韻”──その一つひとつの手触りを記憶していた。

 いつか冒険者になって、自分自身が“強い”と胸を張れるために。他人の評価ではなく、手の中の確かさでそれを定義するために。


 そして明日、成人となる十六歳の誕生日を迎える。冒険者ギルドに師匠と共に(おもむ)き、正式に登録する。保証人となる者と冒険者本人が、ギルドの窓口で同時に署名しなければ無効になる制度──かつて、貴族の名を不正に使った詐欺事件が起きて以来、厳重に管理されていた。


 だが、エルドにとって、保証人の制度以上に意味のあることがあった。

 それは保証人が誰か、という“重み”だ。


 「誰でもいい」なら、誰でもよくなってしまう。でも、自分の“決意”を最初に受け入れてくれた、あの不器用で頑固な師匠が良かった。


 その夜、工房はいつもより静かだった。

 火炉の余熱がまだ壁をじんわりと温めており、かすかに焦げた油の匂いが鼻を掠める。エルドは自室──といっても工房裏の小さな間仕切り部屋──の片隅に座り込み、小さな木箱を膝に乗せていた。


 箱の中に収められていたのは、一対の火鋏(ひばさみ)──炎の中から素材をつかむための道具だ。ただの工具ではない。冒険者になると決めた時から鍛治(かじ)し、何度も修理を重ね、ようやく完成の域にまで達した“師匠仕様”の火鋏(ひばさみ)である。

 握りの部分には、師匠ベイリクの手の大きさに合わせた曲線を持たせ、先端の噛み合わせは寸分(すんぶん)の誤差もないよう研ぎ直してある。


「……師匠、使ってくれるかな」


 ぽつりと呟いた声は、夜の静寂(せいじゃく)に吸い込まれた。

 これは、エルドが「見習いとしての最後の仕事」として仕上げた作品だった。誰に言われたわけでもない。ただ、出ていく者として、ここに残る誰かのために何かを残したかった。それだけだった。


 作業台の(かたわ)らには、もうひとつの存在がある。名も無き片刃(かたは)の長剣。革布を巻かれ、無造作に置かれているそれは、エルドが自分自身のために毎夜、鍛冶を繰り返しながら鍛え上げたものだった。


 名前を呼ばれる日は、まだ来ていない。その刃に宿るかすかな“響き”は、今もエルドにだけ届いている。

「俺の聞きたい音は、ここじゃないどこかで響いている」


 そう思えたから、彼は旅に出る決意をした。


 翌朝、工房の裏手から東の空を見上げると、澄んだ空気のなかに、薄く白い雲がたなびいていた。()の煙がもうもうと立ち上り、朝の陽が(はがね)欠片(かけら)に反射して目を焼く。


 エルドは革の旅装(りょそう)(そで)を通し、背中にはまだ名のない剣を背負っていた。

 工房の玄関では、ベイリクが腕を組んで待っていた。


「……準備は済んだか」

「はい。行きましょう、師匠。……お願いします」


 ベイリクはうなずき、無言で歩き出した。その背中は、いつもよりほんの少しだけ、ゆっくりだった。


 サリオンの町並みを抜け、石畳(いしだたみ)の道を進む。すれ違う人々は、鍛冶道具や鉄材を運ぶ職人ばかり。そんななか、一刻(いっこく)ほどの距離を歩き、冒険者ギルドの白壁(しらかべ)が視界に入ると、エルドの背中がほんのわずかに強張った。

 高い天井、依頼版が立ち並ぶ広間。受付の前には、武具を装備した冒険者たちが数人、談笑していた。


 ──そして、受付の机の上に置かれた一枚の用紙。

 冒険者登録申請書。その下部にある欄に、保証人の署名が求められている。


「ほぉ、誰かと思えば……あのベイリクじゃねえか」


 振り返った男の一人が、鼻で笑った。


「まさか保証人になるとはな。こりゃ、よほどの出来の良い弟子か?それとも、鍛冶を見限られたか」


 もう一人が肩をすくめ、エルドを値踏みするように見つめた。

「そういや、ここの連中は、保証人で序列が決まるって知ってんのかな?なんてったって、貴族が保証人になれば、それだけでギルド内じゃ“上等な扱い”さ」


 冒険者の世界には暗黙のヒエラルキーがある。貴族や豪商、騎士団関係者や都市の名士が保証人となった冒険者は、たとえ駆け出しであっても、特別な依頼を得る機会が増え、名声も得やすい。

 ギルド内でも一目置かれる存在になる。逆に、無名の庶民が保証人の場合、どれだけ実力があっても不遇な扱いを受けることは少なくなかった。

 エルドは顔をしかめたが、師匠は反応しない。ただ無言で、受付の前に進み、書類を手に取る。


「名前……書くぞ」

「はい」


 二人は並んで立ち、ペンを取った。エルドの指先が震える。

 書いた名は、ただの署名ではなかった。

 師匠が自分を“送り出す”ために記す、たった一つの証。

 受付の女性がそれを受け取り、点検する。


「はい、間違いありません。これで正式に冒険者登録となります」


 ギルド受付嬢の声が響くと、奥の記録係がひとつ頷き、羊皮紙(ようひし)を金具で綴じた。しんと静まり返っていた待合室には、ざわついた冒険者たちの小声が再び広がり始める。


「おい、保証人ベイリクって……あのベイリク・アルベルか?」

「うそだろ、あの偏屈(へんくつ)ジジイが保証人になるなんて」

「なんだ、あの保証人……しがない鍛冶屋か?」

「貴族か商会の重役でも連れてくりゃ良かったのによ。ま、新人の田舎者にはお似合いか」

「ったく、保証人が鍛冶屋じゃ、依頼選びも難儀するな。オレは“辺境伯(へんきょうはく)”様に保証されたってのによ」


 吐き捨てるような声と馬鹿にしたような笑い声が背中に刺さる。だがエルドは振り返らず、閉じた唇に力が入った。


「言わせておけばいいさ」


 ベイリクはぶっきらぼうに言い捨てると、手続きが済んだ書類を軽く指先で叩いた。

「記されたのは名だけだ。どこまで行けるかは、結局お前次第だろ」

「ええ、分かってます」


 エルドは小さく笑った。緊張はまだ胸の奥に残っていたが、それ以上に、熱があった。紙に記された“エルド・クラヴェル”の名と、“ベイリク・アルベル”の無骨(ぶこつ)な署名。その重さは、肌で感じていた。


 あの署名には、きっと二つの意味がある。

 育ててくれた恩と、送り出す覚悟。エルドはその両方を、手渡された羊皮紙の温もりに感じていた。


 ギルドを出たときには、陽は傾き始めていた。オレンジ色の光が石畳を照らし、二人の影を長く引き伸ばしている。


「……明日から、もう見習いじゃなくなるんだな」

「そうですね。でも、終わりっていうより……始まりって感じです」


 エルドは鞄を背負い直し、工房への坂道を見上げた。


「そうかよ」


 ベイリクの返事は短かったが、その声にいつもの棘はなかった。

 工房に戻ると、鉄の匂いと(かす)かな煤煙(ばいえん)が迎えてくれた。住み込みで世話になったこの場所には、何千回と聞いた槌音(つちおん)がまだ残響のように漂っていた。


明朝(みょうちょう)には出発するんだったか」

「ええ、ギルドが開くと同時に…冒険者証を受け取っておきたくて。そのあとは、すぐ依頼を受けるつもりです。」

「そうか……」


 そのまま無言のまま、二人は工房の中央、鍛造台(たんぞうだい)の前に立った。見慣れた炉、(すす)けた壁、鉄粉(てっぷん)にまみれた床――全てが、今夜で「ただの過去」になる気がした。


「師匠」


 エルドが声をかけると、(さえぎ)るようにベイリクは振り返らずに言った。

「本当は、まだ言ってねぇことがあるんだがな」

「え?」

「明日、話す。……それでいいだろ」


 そう言ってベイリクはちらりと工房の奥に目をやった。彼の視線の先には、古びた布にくるまれた何かが静かに置かれていた。

 その中身をエルドは知らない。だが、その一瞬の沈黙が、明日の朝に何かをもたらすことを直感させた。


「……分かりました」

「風呂でも入ってこい。今夜は、いつもの鍋じゃなくて……もうちっとマシなもんにしてやる」

「え、ほんとですか?」

「バカ、祝いだよ。こんな夜くらい、めずらしく魚でも煮てやる」

「……それ絶対、明日雨降りますよ」

「うるせぇ」


 笑い合う声が、夕暮れの鍛冶場に溶けていった。

 だがその片隅──炉の裏に置かれた布包みだけが、まるで時を待つように、そっと眠っていた。


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