27.黒煙
瞳にいっぱい涙を溜めた小夜の姿を、他の男に見せたくない。
小夜が後ずさるよりも早く近づき、ラインリヒを引き剥がす。そして腕の中に頼りない体を隠した。
「サヨ、私の何が、貴女を泣かせていますか?」
少女と離れ離れになってから十年以上、再会の日まで身綺麗だったかと問われれば否、だ。
貴族らしく手を汚し、将来小夜に害なす要素と思えば、女子供だろうが迷わず排除してきた。それは今も続いている。
「お願いです。理由を教えて下さい……」
腕の中で、黒髪に飾った銀細工が激しく揺れた。
涙のように連なる石同士が触れ合い、音を奏でる。
「ち、ちがうんです、わたし、申し訳なくて」
「申し訳ない……?」
いよいよその目から涙がポロポロとこぼれ出した。
「ーーごめんなさい、母様達に、か、髪を上げる約束のこと、話してしまいました……」
震える声を黙って聞いていた。
「そのせいで、フレイアルド様が、な、殴られ……っ!」
やっと合点がいった。
(ああ、そういうことか……)
揺り椅子を封印した日、自身が彼女と交わした髪上げの約束。
その件を何かの拍子にアマーリエ達に話してしまったのだろう。結果、怒った母親がフレイアルドを殴ったことを自分のせいだと小夜は泣いているのだ。
どこかほっとしたような気持ちで背を摩ってやった。
彼女に過去が知られてしまったわけでは、ない。
「私が悪いのですから、貴女が気に病むことはありません。いつかご両親の耳には入ることでしたしーー」
ある意味、手間が省けたというものだ。
小夜の顔を上向かせ、囁く。
「私があの時から……いいえ、それ以前からとっくに本気だということを貴女に分かっていただけたのなら、頬一つくらい安いものです」
「ーーっ」
まるで真っ赤に熟れた果実のような顔だった。
小夜の涙を取り出した手巾で拭っていく。幸いにもマーサが施した化粧は落ちておらず、直す必要はなさそうだ。
手巾をしまって少女の膝裏に手を差し込み、抱き上げた。
「皺がついてしまうかも知れませんが、虫がつくよりはマシなので、こうさせて貰いますね」
「むし……?」
彼女は潤んだ目のままきょろきょろと周囲を見まわし、首を傾げる。
その様子までもが可愛らしくて、自然と顔が緩んでしまう。
「王宮には性質の悪い虫が、それはそれはたくさん飛んでいますので」
納得した小夜を腕に抱いた状態で、王宮のただ一つの入り口に足を向けた。
***
ベルドラトは目の前の光景が信じられず、これは夢なんだと思った。真昼間から立ったまま寝ぼけるとは近衛にあるまじき振舞いである。
早朝から並んでやっと渡れた橋の先も、王宮に入りたい下位貴族で溢れていた。
げんなりと肩を落とし、これはもう新刊は絶対に買えないーーという絶望感に心を占拠されたまま、亡霊のように列に並んでいた時だった。
あり得ないことが目の前で起きた。
「これは……夢か……?」
まず、馬車から降りてきたフェイルマー侯爵を、後続の馬車から降りてきたザルトラ伯爵夫人が引っ叩き。
その上、まだ貴族院くらいの少女に侯爵が近づき、その体を抱き寄せたのだ。
(俺は新刊を読みたいあまり、とうとう現実との境さえ、わからなくなったのか?)
しかし周囲を見渡せば、自分のように目を瞬いたり擦ったりしている貴族がそこかしこにいた。
「……フェイルマー侯爵が、女に笑いかけてる……?」
「影武者じゃないのか?」
全くもって同意見である。
あの忌々しい侯爵と同じ顔の人間がこの世に二人いるなんて悪夢でしかないが、それ以上に、あの顔が女性に笑顔を向けていることが信じられない。
あの日の失態の後、ベルドラトはベルドラトなりに侯爵のことを調べ上げていた。
しかし出てくる評判は二極化していて、どちらを信じればいいのか分からないでいた。
貴族側から多く聞こえたのは冷血、鉄仮面、血も涙もない、敵に回したくない、女嫌いという悪評の数々。
しかし下町ではそんな声は一度も聞かなかった。
皆、口を揃えて言うのだ。
フェイルマー侯爵のおかげで、今の生活があるーーと。
(俺は、果たして何の罪で、あの男の家に行ったのだろうか)
バルトリアス殿下が、何か、国家に仇なすことをされた。その件に加担した疑いがある、そうだったはずだ。
けれど父から与えられたその情報は、果たして本当なのだろうか。
少なくともあのように一人の女性を慈しめる男が、国家叛逆に手を染めるとは考え難い。
見ている間にも侯爵は行列の脇をすり抜けて入口へと向かっていく。橋と同じように身分高い者は、たとえ列があっても並ぶ必要はないからだ。
(もし、いま、この手で捕まえればーー)
父には見直してもらえるだろう。そして、散々自分を無能と嘲笑ってきた兄、同僚を見返せる。
けれど自身の中にある正義が、本当にそれは正しいのかと問うてきて、足が竦んでいた。その時だった。
群衆の後ろの方から大声が響いたのである。
「ーー火事だ!!」
***
初め、白く細かった煙は、今はもう人々が見つけ騒ぎ出すほどの黒煙となって、王宮の西の空に昇り続けている。
大公も伯爵一家も女性騎士も、勿論騒ぎに気付いているはずだ。
ついてくる彼等を確認して自らも足を速める。
「フレイアルド様、火事って」
「ええ。大丈夫です。火元は王宮ではありませんから」
王宮の入口の前に広がっているのは赤い絨毯を敷いた白い階段。その階段は一段一段が低く、踏面の奥行きは広く取られている。
登った先では、侯爵家の転移の間の扉が四つは入るであろう大きな扉が待ち構えている。その扉を守り、通行者の身元確認をするのは近衛とは別の、王宮衛士と呼ばれる兵士達だ。
彼等は近衛兵よりも総じて身分が低い。つまり大公や、侯爵である自分のような高位の貴族の押しに弱いところがある。
特に緊急事態においては、即座に判断する指揮官が不在であることが弱味だった。
「サヨ。ここからは、何を言われても沈黙です。いいですね?」
「は、はい」
頷く少女は自分の服にしがみついている。扉前を守りながら火事の声に狼狽えている一人の兵士に声を掛けた。
「すまないが、火事の騒ぎに私の婚約者が怯えている。先に入れてくれないだろうか」
「これはフェイルマー侯爵様! しかし、ご身分の確認は皆さまに義務付けられていることでーー」
兵士はちらり、と小夜を見て固まった。
まだ若い兵士だ。
清らかな瞳を潤ませた少女、その色香に目が眩んでも仕方なかった。
「このとおりだ。普段、人の大声など聞かない子なので泣いてしまって……心配せずともこの子の身元は大公閣下が保証されている」
「た、大公閣下が」
硬直から解けた兵士は慌てた様子で、近くにいる他の兵とひそひそ声で相談を交わす。やはり、上長として判断できる者はこの場にいないのだ。
「ーー畏まりました。あとで大公閣下に確認させて頂くこともございますが、それでよろしいでしょうか?」
「構わないよ。ありがとう」
そう言って微笑んでやれば、若い兵士はなぜか顔を赤らめる。
「お通り下さい……」
そしてフレイアルド達に、小さな声で扉を指し示したのだった。




