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揺り椅子の女神  作者: 白岡 みどり
三章

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25.意味


 背中に広がる小夜の髪を撫でていた母の指が銀の髪飾りにふと触れた。


「……侯爵様は本当に、困った方ね」

「フレイアルド様が? どうしてですか?」


 理由を問えば、抱きついていた母の体が僅かに強張る。

 フレイアルドはすごい人で、何でも出来て、優しい人だ。困った人、だなんて思ったことはない。少なくとも自分は。


 見上げると母は眉を下げて微笑んでいた。


「以前、あなたにこちらの文化について教える時間をとると言いましたが、覚えているかしら?」


 それは両親と初めて朝食を一緒にしたときのことだろう。もちろんです、と答えながら疑問で首を傾げた。


(母様のこれまでの授業とは違うこと?)


 先日まで母に教わっていたのは主に挨拶の仕方やこちらの一般常識である。母の言い方はまるで、その教えたいという文化はこれまでの授業に含まれていないように聞こえた。

 母は片手で小夜の背を撫で、もう片方の手で膝の上に置いていた扇子を持ち上げ開いた。

 口元を隠し、その若草色の目で向かい側に座るラインリヒに命じる。


「もう遅いけれどーーこの機しかありません。ラインリヒ。外に出ていなさい」

「は? ここ、馬車の中だけど!?」


 部屋の外へ出ろというのとは訳が違う。

 馬車というのは車と違って車高が高い。乗り込むのには必ず踏み台がいる。


(兄様なら踏み台なしで降りられるかもしれないけど)


 しかし母は戸惑う兄に容赦しない。


「では降りなさい。折よく止まっているのですから、難しいことではないでしょう?」


 何故自分が降ろされなければならないのか。

 顔にはそう、しっかり不服が書いてあったが、母の有無を言わさぬ迫力に兄は唾を飲み込む。

 ややあって重い腰を上げた。


「じゃあ……御者席に、いる」


 そして背中を丸めて降りていった。不憫な兄の後ろ姿にかける言葉を小夜は持たない。

 一連の流れの中でシェルカが少しも動じていないことから、伯爵家の力関係がはっきり見えてくる。


「ーーさて。この際です。貴女に教えておかねばなりません」


 母はその豪奢な扇子で顔の下半分を隠していたが、目は真剣だ。

 小夜も両手を膝の上で重ね居住まいを正した。


「あなたはぴんときていない様子だけれど、あの侯爵様は大変に非常識なお方です。あなたに対するこれまでのなさりようにレイナルドが怒るのは、実は至極当然のことなのですよ」

「え……?」

「もちろん、この私も怒っていました」


 伯爵がフレイアルドに対して怒りを露わにする時、小夜から見る母はいつも冷静だった。しかしそれはそう見せていただけだったのか。

 扇子によって表情のほとんどを隠しているにも関わらず、母からはチリチリと皮膚をつつくような怒りが滲み出てきている。


「あのお方はあなたが何も知らぬのを良いことに、少々目に余る行為をしています」

「えっと、そ、それは?」


 知らない自分が悪いのだから、と思ったが口にはしなかった。

 ここで要らぬ燃料を()べなくてもいいだろう。

 母はその細い眉を(しか)めている。


「そうね……例えばその、髪飾りです。殿方個人の紋章をあしらった髪飾りというのは通常未婚の娘が着けることはないものです。結婚し、妻となった翌朝に初めて着ける。そのような代物ということはご存じ?」


 ほぼ反射的に首を左右に振っていた。


(結婚したーー翌朝?)


 常識に疎い小夜でもわかる。

 結婚した男女がその日の夜にすることなんて、一つだ。


 母の言葉を頭の中で何度も反芻したあと、ゆっくり自分の手を持ち上げ、髪飾りに触れた。

 手からぎぎぎ、という音が聞こえてきそうだった。


「あの、では、これはーー」


 冷たい無機物が意味を知った途端に熱せられた鉄の塊みたいに思えてくる。着けられた時の手の感触がまざまざと蘇ってきた。鏡越しの彼の眼差しと一緒に。


「分かりましたか? ちなみに、その紋章が侯爵様のものだということは、貴族院に通う(わらべ)でも知っています。その髪飾りをつけて歩けば『身も心もフレイアルド・フェイルマー侯爵のものです』と書いた札を首から下げて歩くのと大差ないのです」

「……っ!!」


 母が兄を馬車から追い出した理由。父がフレイアルドを斬ろうとした原因。それらがやっと分かった。

 自分の顔に血が集まっていくのを感じた。


(フレイアルドさま……なんで、そんなこと……っ)


 王宮はもうすぐそこだ。

 代わりの髪飾りなんて、今から手に入れられるはずもない。

 自分がそんな意味を持つ飾りを着けたまま大勢の人の前に行くのだと思うと、恥ずかしさで背中がザワザワしてきた。


「それから、まさかとは思うけれど……今日のその髪は、あの方が手ずから結われたの?」

「は、はい……」


(マーサもフロルも、止めなかった……)


 だから普通のことだと思っていた。

 母は扇子の中で大きな溜め息をつく。兄の時は少しも動揺を見せなかったシェルカですら、目を見張って頬を染めている。


「……困ったどころではないわ。とんでもないど変態ですこと」

「奥様、お言葉が乱れておられます」


 扇子を握る母の手の甲には、いまや血管が浮き出ていた。


「あら! ではど変態以外のなんだというの!? 強引に婚約を結んだことといい、同衾していたことといい、このままでは遠からずサヨが孕んでしまいます!」

「ふぇ!?」

「奥様!!」


 シェルカが焦り止めようとするが、母の怒りは止まらないようだ。既に恥ずかしさが頂点を突破していて、どんな顔をすればいいか分からなくなってきた。


(髪に関することってもしかして、そういうことばっかり?)

 

 ここまで聞いて、やっと何となく察することが出来るようになってきた。

 髪飾りにしろ、髪を結うにしろ、女性の髪に男性が関わるとそれは艶めいた意味合いが強くなるらしい。

 そこで記憶の中の出来事が一つ引っ掛かった。

 気づけば、疑問が口から漏れていた。


「……それなら、髪を上げるってどんな意味ですか?」


 口にした途端母とシェルカが同時に硬直した。


「は?」


 どちらの声だっただろう。二人同時だったかもしれない。

 それきり、止まっている馬車の中に恐ろしい沈黙が流れる。


(こ、こわいぃ……)


 いまや二人の顔は寺院を仏敵から守る仁王像を彷彿とさせた。


「髪を上げる……誰かに、そう言われたの?」

「お嬢様、誰です、その不埒者は」


 二人の血走るような目に、これは言ってはいけなかったのだと悟った。けどもう今更逃げられない。シェルカに至っては、剣に手をかけている。

 そして生存本能が(まさ)った結果、言ってしまった。


「ま、まえ、フレイアルド様に『貴女の髪を上げるのは、生涯私だけです』と、いわれ、て……」


 言い終える前に、二人は同時にカッと目を見開いた。


「やはりあの(けだもの)なのね!? シェルカ!! 許可します!! 斬ってきなさい!!」

「はっ!!」


(ひぇえええ!?)


 そこからは馬車を飛び降りようとするシェルカを抑えるので精一杯だった。


「なにやってんだ!?」

「兄様! シェルカを抑えて下さいっ!!」


 騒ぎに中を覗き込んだ兄が戻ってきてくれるまで、非力な自分の全力を、女騎士を止めることに注ぎ込んだ。

 結果、馬車が王宮に着く頃には自力で歩けないほど疲労困憊していたのだった。



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