24.琥珀
大公と両親、それから兄は応接室の長椅子でお茶を飲みながら和やかに歓談していた。
給仕しているのはマルクスではなく、最近よく執事長の周りにいる若い侍従だ。
(マルクスさんいつもいるのに、今日はお休みかな)
父の背後にはシェルカの姿も見える。護衛の為についてきたのだろう。
「申し訳ありません、大変お待たせいたしました」
待たせたお詫びをすると、早朝からマーサとフロルが頑張ってくれた成果か、両親が初めての正装を手放しで褒めてくれた。
「おお、なんと!」
「大変可愛らしいわ、サヨ!」
そこからは比較的無口な父でさえ、べた褒めである。
「このように可愛らしいそなたを、男ばかりうようよしておる王宮になど連れて行きとうない……。しかし、今日は行かねばならぬし……」
「親父……」
父に呆れた目を向けていた兄と目が合い、こっそり笑い合った。
そこへ横から顔を出した大公が髪飾りについて指摘をする。うわぁ、という声が聞こえた。
「それより気になるんだけど、この髪飾りさぁ」
指摘のせいで自分の黒髪を飾る鳥と蔦の銀細工に、一斉に視線が集まる。
父の動きがぴしりと固まった。
「はい。私の紋章ですが。何か?」
それまでの和気藹々とした空気が一変するのを肌で感じた。
母は顔を赤らめ、普段持つことのない豪奢な扇子で口元を隠し。兄は天を仰いでいる。
そして父は、赤くなったり青くなったりしたあと、腰の剣に手を掛けた。
「もうーー斬って良いか」
「旦那様!?」
「待てって親父!!」
まるで昨日の再現だった。違うのは母とバルトリアスの代わりにシェルカが伯爵を止めに入ったことである。兄はなんとか剣を抜かせまいと父の腕を抑えていた。
当のフレイアルドはどこ吹く風だ。
「遊んでいる場合ではありませんよ、伯爵。もう馬車は待っているのですから」
「貴様はこれが終わったら覚えておれ!!」
伯爵のあまりの剣幕に、応接室でするはずだった打ち合わせは、半ば小夜を置いてけぼりにする形でさっさと終わってしまった。
父は最後まで射殺すような眼差しをフレイアルドに向けていたのだった。
王宮へ向かう一行は馬車を二台に分けることにした。
四人乗りの馬車にシェルカを含めた七人はどう見ても乗れなかったのである。
問題は、組み合わせだ。
「サヨ、貴女は私とーー」
「いいえ、侯爵様」
二台の馬車の前でフレイアルドの差し出す手を阻んだのは、母である。
「私とラインリヒ、それからシェルカがこの子と馬車に乗ります」
「しかし」
「あら。ご不満がおあり?」
母にニッコリと微笑まれると、なぜかフレイアルドはそれ以上何も言えないようだった。
「さ、貴女はこちらですよ」
「は、はい」
ちらりと見るとフレイアルドはまだ憮然としていた。
自分が母達と同乗するということは、彼は大公と、何より伯爵と馬車を一緒にするということだ。昨日と今日の険悪な二人が思い出されて、咄嗟に父に駆け寄って頼み込んだ。
「父様、お願いです。フレイアルド様を殴ったりしないで下さい」
「む……」
「父様」
自分の頼みに髭をもごもごと動かしてしばらく唸っていた父だが、やがて諦めたように頷いてくれた。
「そなたの頼みだ。殴りはせん」
「斬るのもやめて下さいますか?」
「……む……分かった」
ほっと胸を撫で下ろした。
王宮に着いた途端フレイアルドの死体とご対面なんてしたくはない。
「ありがとうございます、父様。それと、あの」
両手を握り合わせ、勇気を振り絞って言葉を重ねた。
昨日からどうしても言いたいことがあったのだ。
「わたしを四十路の男になどやらないと言って下さり、ありがとうございます。……だいすきです、父様」
「ーーっ!」
時折、空想することがある。
もしも初めから、この世界に生を受けていたなら。
そして伯爵夫妻の本当の娘として、暮らせていたなら。
フレイアルドともっと早く再会できていたなら。
自分はどんなにか、幸せだっただろう。
(本当にこの世界に女神様がいるなら、お願いです)
ーーこれ以上、何も奪わないでください。
自分からも。
大切な人達からも。
小夜達が二手に分かれて乗り込むと、ゆるりと馬車は動き出す。
滑らかに進む馬車達はその横腹にフェイルマー侯爵家の紋章を掲げていた。
(王宮って、どんなところだろう)
貴族街の最も中心部にあるという王宮を目指す馬車はすれ違うものもなく進む。窓の外を眺める小夜は、馬車が沿道の屋敷一軒分進むごとに嫌な想像が一つずつ増えていった。
もし今日、何か手違いや失敗があれば。
自分はもう、大切な人達の側にいることは出来なくなるのかもしれない。
応接室での打ち合わせはとても簡単なもので、詳しい段取りは聞いていなかった。大人達に説明されたのは、王宮に入ったらバルトリアスと合流して、貴族達の前で祝福のことを公表するとだけ。
自分に課せられた役目はきちんと貴族らしい挨拶をすること。それから、何を聞かれても自分の言葉で答えないこと。
例えばこれまで何処にいたのか、なぜ貴族院に通わなかったのか。何を問われても答えないようにと、小夜は応接室でフレイアルドから念を押されていた。
『貴女が伯爵の子でないのに実子となっていることは、我々だけの秘密です。この屋敷の者にもすでに箝口令をしきました。いざ対面すれば国王は貴女に色々と聞いてくるでしょうが、決して口を開かず、我々に任せて下さい』
大人達はすでに小夜のいないところで解答を作ってあるらしい。付け焼き刃でボロが出ることを恐れ、知らされていないだけ。
大公からの後見。そしてフレイアルドと婚約している事実。
これらが揃っていたとしても、たった一つの綻びからひっくり返す力が、国王にはある。
もしも祝福の力欲しさに何の身分もない小夜を実子と偽ったという疑惑をかけられれば、伯爵夫妻は最悪その場で逮捕されるという。
逮捕とは、つまり貴族としての死だ。
(ザルトラ家は取り潰しになって、わたしは)
もしそうなれば顔も見たこともない、父親ほど歳の離れた王太子の妻にさせられてしまうのだろう。考えただけで、鳥肌がたつ。
それにただで済まないのはザルトラ家だけではないことも分かっていた。
バルトリアスや大公でさえどうなるか分からない。
婚約者であるフレイアルドも、きっと。
この先自分の発言一つで多くの人間を不幸のどん底に落とすかもしれないーーそう思えば思うほど指先から氷水に浸かっていく気分になっていた。
「ーー冷たいわ」
その手はいつの間にか、隣りに座る母の手で温められていた。
「大丈夫よ。なにも怖くはないわ」
「母様」
車窓から差し込む日差しが、母の若草色の左目を、顔の半分と共に照らす。
「大丈夫。貴女は間違いなく私が産んだ娘なのだと、陛下と皆様の前で証明する準備はできています。誰にも手出しなどさせません」
「ど、どうやってですか?」
ふふ、と笑う母は唇に人差し指を添えた。内緒、ということなのだろう。
「切り札はね。最後まで隠しておくもの。貴女も覚えておきなさい」
そう話す今日の母は一段と美しかった。
きっちりと結い上げた髪には真珠をあしらった簪を差していて、若草色の瞳に合わせた服は小夜と同じような形だが、光の当たり方で刺繍が浮かび上がるようになっている。
母はまだ小夜の手を温めていて、その膝上には豪奢な扇子がある。扇子は、成人女性が公の場で必ず持つものらしい。
じっと見ていると、母は茶目っけたっぷりに微笑んだ。
「それにしてもレイナルドばかり、ずるいわ」
急に何だろう、と首を傾げると向かい側から同意するような声が上がる。
「お袋の言うとおりだよ。ーー親父だけか? サヨの『だいすき』は」
「あ……っ」
母も兄も小夜を見ている。
待つように。見守るように。
ガタン、と一度馬車が揺れ、シェルカが窓の外を確認した。
「まもなく王宮のようです」
視線をやれば窓の外には他の貴族の馬車が何台もいた。みな同じ到着地を目指しているのだろう。
馬車達の向かう先に聳え立つ城壁は薄く青みがかった白。それはまるで氷山のようにも見える。
小夜の手はもう充分に温まっている。
あの氷山に飛び込んだとしてもきっと大丈夫だと思えるくらいには。
口が勝手に開いて、体が動いた。
「……だいすき……だいすきです。母様も兄様も、父様も、だいすきです……っ」
隣りの席の母に、馬車の中だろうが構わず抱き着いた。
そうすれば必ず抱き締め返して貰えると、もう信じている自分がいる。
ここには、信じさせてくれた人がいる。
母の手が背中をそっと撫でる。
「私達みなが、同じ気持ちです。だからどうか、私達を信じてね。ーーだいすきよ、サヨ」
いつの間にか、馬車は止まっていた。
心の中の小さな自分が「もういい?」と問いかけてくる気がした。




