23.筐底
初めて目にしたその料理は、美味しかった。
味も食感も何もかも予想の上をいくそれを咀嚼していると、まるで感冒のかかりはじめのような錯覚を起こす。
鼻の奥の奥が、熱く腫れぼったくなるような。
食後、一人の男が客室を訪れた。
バルトリアスはその立場上、一度会った人間ならば次に会った時も顔と名前を一致させる自信がある。
しかしフレイアルドが呼びつけたその男に関しては、その限りではなかった。
「このような下賤の身に王子殿下と拝謁する機会を頂戴したこと、誠に恐悦至極にございます。手前の名はザガン。背負う家も無き、一介の口入屋でございます」
そう膝を折った男は覚えようと思っても容易くはいかない容姿をしていた。
中肉中背で、髪も目もありふれた茶色をしている。凹凸の少ない顔は印象が薄く、眉も唇も薄い。目印となるような黒子も痣もない。
そして下町のどこにでもいそうな格好をしていた。
とにかく特徴がないのである。
まるでわざとそうしているかのようだった。
「顔を上げよ」
着替えと簡単な印象操作さえすれば何処にでも紛れ込めそうな男に許しを与えれば、長椅子に腰を下ろすこちらをじっくりと眺めてきた。
フレイアルドはその男の横に立っている。
口入屋と侯爵。その繋がりが今ひとつ見えてこない。
「ザガンといったな。其方は此奴とどのような縁だ?」
まさかそれを尋ねられるとは思っていなったのか、一瞬その薄い眉を上げた男は、許可を求めるように隣の侯爵を仰いだ。
止める様子のない侯爵に話しても良い、と判断したらしい。
片膝をついたまま、薄い唇が皮肉げに歪む。
「数年前でしょうか。こちらの侯爵閣下が、下町の清浄化に乗り出された後のことでございます」
下町の清浄化。それは、バルトリアスもよく知っていた。
知っているどころか自身の名を貸した事業だ。
「それまであったゴミの山が無くなると、そこから出てきたのは大量の浮浪者と孤児でした。彼らはそれまでゴミを漁り、ゴミを食べ、ゴミの山を寝床としていたのです。行き場のなくなった彼等にこちらの侯爵閣下は手を差し伸べられました」
「……フレイアルドが?」
事業について付随する全てを任せきりだったとはいえ、知らなかった自分にも、報告しなかった侯爵にも軽く驚いた。
その事業が始まってすぐ戦地に赴いたことは言い訳にならない。
「過程はこの際省くと致しますが、手前のような口入屋や他の生業の者が閣下との交流の機会を得ましたのはそれがきっかけでございます。ーー殿下には甚だ不敬な物言いとは存じますが、この王都において、我等が尊敬申し上げるのは王家よりもこのお方だと言えるでしょう」
「ザガン、もういい」
口入屋の語尾に不満が混じりそうになった頃合いでフレイアルドがやめさせた。
「ご報告が遅れたこと、お詫びいたします」
何を詫びるというのだろう。
情けない気持ちで両手の指を組んだ。
「……詫びなど要らぬ。責められるべきは王家だからな」
フレイアルドが清浄化する前の下町は酷いところだった。
汚物と塵にまみれ、運河は腐ったような臭いを放ち、すぐ赤子が死ぬ。
それらを見てみぬふりで、戦と遊侠に明け暮れたのは王家と、王都に蔓延っていた古い貴族だ。
この男のしたことを褒めてやりたかったが、それは傲慢だとすぐ己を恥じた。
「殿下には夜明けよりも前に、ザガンと共に屋敷を出て頂きます。その後の事はこの者に従ってください」
「待て、策とやらはどうした」
そもそも、その策を訊ねるために呼んだはずだった。
フレイアルドは一歩近寄ると、その上体を傾ける。
「ーーお耳を」
ここは間違いなくフレイアルド自身の屋敷の客室であり、自分とフレイアルド、そしてザガンという口入屋しかいない。
それでも侯爵は声を潜め、耳打ちをする。
その策を直接耳に吹き込まれる間、バルトリアスは表情を変えないようにするので精一杯だった。
内緒話が終わる頃には、冷や汗が背を伝っていた。
「ーー大叔父上に、許可は」
「いいえ。しかし、マルクスに殿下からの指示書を持たせます。どうせアスランは大公邸で待機しているのでしょう? 殿下のご命令があればあの男は遂行すると思いますが、いかがです?」
いかがもヘチマもない。
そんな策に、この自分が本気で付き合うと思っているからこの男は恐ろしい。
ささやかな復讐の気配さえする策略の片棒を担がされると思うだけで、先ほど食べた美味な食事を全て戻しそうな気分だった。
しかし迷えるほどの時間はない。他の策も浮かばない自身に残された道は、これだけ。
「ーー紙を寄越せ。書けばいいんだろう、書けば!」
「素直で結構」
フレイアルドは既にその手に書き付ける物を用意していた。その周到さがまた、この上なく腹立たしい。
やたらと質のいい紙に侯爵の指示通り書き込む。その命令の文末に自身の署名をするのは、流石に強い抵抗感があった。
「これでいいんだな」
「ええ」
あとで大叔父になんと釈明をすればいいのか。考えるだけでこめかみがキリキリと痛み出す。
フレイアルドは書いた中身を一瞥すると客室の扉に近寄り、ほんの僅かに開ける。隙間からのぞいた人物は廊下に待機していたのだろう、この屋敷の執事長だ。
主人から指示書を受け取った執事長が代わりに差し出したものを見て、眉を顰めた。見覚えのある上着だ。
「あと、こちらはお返し出来なくなりますことをご了承ください」
男の手にある服。裏地に王族しか纏えぬ群青の布を使ったそれは、小夜に貸していた上着だった。
「構わん」
返されてもどうせ扱いに困っただろう。
見るたびに、そして袖を通すたびに思い出すくらいならばーーいっそ手元にないほうがいい。
「今後は、このようなお戯れはお控え下さい」
たかだか上着ひとつ貸しただけだろう、と即座に言えないことがフレイアルドの神経に触れている。
そこでひとつ、尋ねてみたくなった。
意趣返しのような気持ちがないと言ったら嘘になる。
「もしもだがーー俺があの娘を正室に望んでいたら、其方どうしていた?」
大叔父から提案された時は冗談ではないと思った。そして迷う事なく目の前の男を推薦した。
けれどふとした時、本当にそれで良かったのかとも思う。
それは侯爵が小夜を覗き込む時であり、結った髪をこれでもかと見せつけられた時であり、その激しい嫉妬心を向けられた時である。
こんな男の元で果たして、あの危機感の欠片もない娘が平穏無事に暮らしていけるのか。
自分はあの娘の兄でも父でもないが、心配する気持ちは間違いなくある。
だが尋ねてすぐ、後悔した。
侯爵の顔から感情というものが全て消し去られたからだ。
その冷酷な表情を目にした時、バルトリアスは極寒の氷原に立つ自分の姿を、頭に浮かべた。
「その愚問にお答えしなければならないのでしたら、ザガンには一旦席を外させますが」
バルトリアスには戦場を駆け抜け、死線をかいくぐった経験もある。
その時に培った生存本能がやめろと言う。
これ以上踏み込むな、と。
思わず、王族としては決してやってはならぬことをした。
両手を上げたのである。
「ーーすまん。俺にそのような気持ちは一切ない。ただの空想だ」
「空想に耽る余裕がお有りとは存じませんでしたが、そういうことでしたら」
フレイアルドは会話の間静かに、存在すら消し去っていたザガンに目配せをする。
その時初めて男がずた袋のような荷物を持って来ていたのだと気付いた。
「なんだ? それは」
ずた袋からザガンが取り出したのは、誰が見ても襤褸と分かる服である。これまで一度も洗われたことがないんじゃないかと思ったのは、すえた臭いが鼻をついたからだ。
着ただけで痒くなりそうな服に、さっと血の気がひく。
まさか、と座ったまま見上げた先には、口元だけ笑った侯爵がいた。
「余裕、あるんですよね?」
その時やっと気がついた。
開けてはならぬ箱の中身を、己がいたずらに覗き込んだことを。




