22.喬木
イェラカンとバラモント公爵が見下ろしていた馬車の列の中には、カーサンダー家のそれも含まれていた。
しかし乗っているのは当主でも、次期当主でもなく。
不服そうな顔を隠さないベルドラトである。
横にも縦にも大きいその躯を座席に納めた男は足をしきりに揺らしていた。力が強いだけにその揺れも大きい。
「坊ちゃん、貧乏ゆすりはおやめくださいよ。馬が怯えます」
そう御者に言われてベルドラトはむっとした。しかし馬が怯えると言われては文句は言えない。一言「あいわかった」と返事をするに留め、足を組み直した。
ベルドラトがここまで不機嫌なのには理由がある。
一刻も早く帰りたいのに、三の鐘の後からは少しも馬車が進まないのだった。
(まだ進まないのか! なんなんだ今日は!)
早く終わらなければ、間に合わないというのに。
ベルドラトには人にあまり知られたくない趣味があった。
その趣味のために下町に繰り出す日は服装も髪型も変えていたのに、なんとあのフェイルマー侯爵は自分の趣味を知っていた。
何故知っていたのか。どうやって知ったのか。それらはいくら考えても分からなかったが、侯爵邸に乗り込んだ日のことを思い出すと今でも悪寒が走る。
秘密の趣味を知られた上にその情報を握られ。
あまつさえ、近衛小隊長として迎えた初めての活躍の機会まで、台無しにされた。
この出来事はベルドラトの未来に大きく影響したのである。
近衛兵長を父にもち、優秀な兄達の影に隠れてきた男が近衛の一小隊を任せて貰えるようになったのは、この春のこと。
それは貴族院の騎士科を卒業して何年も経つ男にやっと巡ってきた機会だった。
カーサンダー家は伯爵家だ。西のザルトラ、東のカーサンダーと並べ比べられることが多い、由緒正しき軍人の家系である。
ベルドラトの兄達は皆見てくれも良く、騎士科を優秀な成績で卒業し、近衛の要職についている。そんな中でベルドラトだけが、いつまで経っても一兵卒だった。
そんな己が小隊長に任じられ、これでやっと、木偶の坊と言われなくなると喜んでいたのも、束の間。
(フェイルマー侯爵。あんな卑怯者に、俺は)
帰還後、侯爵邸での失態をつぶさに報告した結果。
ベルドラトは、降格された。
再び一兵卒からのやり直しだった。
これまでの努力も汗も涙もーー全て無に帰した。
けれどベルドラトには、あの侯爵を恨む気持ちこそあれど、自身の趣味を後悔する気持ちは一片も湧いてこなかった。
なぜなら、騎士科を卒業してすぐの頃出会ったその趣味は、ベルドラトに人生とは何か、愉しみとは何かを教えてくれたからだ。
どれほど努力しても親の七光りにさえなれぬ己をこれまでずっと励ましてくれていたのである。恨むなんて、筋違いもいいところだ。
今日は、本当ならその趣味の日だった。
この苦難を乗り越えるため、趣味のひと時を堪能し、また一から頑張ろう。そんな風に楽しみにしていた。
その為に休暇まで届け出ていたのに、いま自分は王宮に屋敷中の遺物を持参している。
何故だ。
「ヨゼフ」
欠伸するほど暇そうな御者の男に話しかけた。
ベルドラトにヨゼフと呼ばれた老人は、侍従という側面も持っていた。
「はいはい、何でしょう。坊ちゃん」
「その坊ちゃんはやめろ。ーーなあ、マリアはちゃんと買えるだろうか? 新刊がどれか分かるだろうか」
父に命じられ、血の涙を流しながら家を出た自分を年嵩の侍女は励ましてくれた。
自分が代わりに行って、買ってきますからーーと。
老爺は、呆れたような声をあげた。
「分からなきゃ店のもんに訊ねるでしょう」
「いや、店の者を過信してはいかんのだ。特に新刊に関してはーー」
ヨゼフとマリアは夫婦で、長年侍従と侍女として自分に仕えてくれている。
その忠誠を疑うわけではなかったが、何しろ二人はすでに高齢である。
老眼は大敵だ。
特に、ここ一番の買い物においては。
「そんな本のことよりも、坊ちゃんは今日、大事なお仕事を旦那様に任されたんですよ? 他の兄上様がたじゃなくて坊ちゃんが! 少しは本腰入れて下さいよ」
「う、うむ。ーーだがヨゼフ……」
「動きますんで中に頭引っ込めて下さい」
小窓から無理やり出していた頭を引っ込めさせられた。
男の焦燥は加速するばかりだ。
やっぱりこの侍従は分かっていない。
(新刊はーー今日を逃せば、もう手に入らないということが、なぜ伝わらんのだーー)
マリアがもし大事な大事な新刊を買えなかった時はどうしようかと考えるだけで、ベルドラトはまた足が揺れるのだった。
***
自分以上に恵まれた侍女はこの国のどこを探してもいないかもしれない。
フロルは何度見ても美しくて可愛くて、その上心優しい主人にそう思った。
それは昨日のこと。
フロルの敬愛する少女が、雇い主である侯爵と婚約した。
その結ばれた髪を見た時なんて、母の目も気にせず叫び出しそうだった。
「おめでとうございます、サヨ様」
「あ……ありがとう……」
そう言って、頬を染める姿ときたら。
フロルが男なら宝石箱の中に隠したいほど、愛らしかった。
自分はこの少女に仕えて日が浅い。それでも何か辛い目に遭ってきた、ということは薄々感じていた。
主人が魘されているのに何も出来ず、王族から叱責を受けたあの日のことは、いつまでもしこりのようにこの胸に残っている。
もっと自由に、もっと気楽に過ごしてほしい。
そう思ってしまうのは主人が貴族の令嬢でありながら、周囲に気を配りつづけるからだ。
朝早く目覚めた時に侍女がやってくるまで息を潜めることも、貴重な食材を使った料理を最初から使用人みなに行き渡るよう準備しているのに余り物と称することも、他の貴族の娘はしないことだった。
その姿を、使用人に媚を売る小心者と評する貴族もいるかもしれない。
けれど、フロルは知っている。
使用人だってーー平民だって、優しくされたら、優しさを返したいと思うことを。
守られたら、守りたいと思うことを。
今朝は侍女頭である母もフロルも一の鐘より早く起きた。主人の湯浴みに化粧、初めて着る正装の調整など、いくら早く起きても時間は足りなかった。
いつもと違って早く起こされ慌ただしく準備をされても大人しく従う、そんな少女をこの国一の美少女にするため、二人は気合を入れて臨んだ。
結果は見ての通り。
侯爵が特注の生地で仕立てていた正装は、まだ成長途中の肢体を包み、その儚さと可憐さを強調している。
首元以外の肌を極力見せまいとする衣装は、見るものが見ればその意図に気づくだろう。腰の切り返しに施された蔦の刺繍は侯爵の腕のようにも見える。
唯一晒された白い首元に輝く遺物の首飾りは、まるでこの正装に合わせて誂えたかのように、違和感なく溶け込んでいた。
化粧をしたことがないという少女だったが、歴戦の侍女頭の腕で軽く化粧を施された姿は、まるで咲き始めの薔薇のようだった。
きっと誰もが、その花弁の柔らかさを触って確かめたいという衝動に駆られるに違いない。
国一番どころか、大陸一の美少女が生まれてしまった。
その証拠に、朝の挨拶と共に現れた侯爵のその目が少女をとらえた瞬間妖しげに輝いたのを、自分はしかと見た。
小さな背中に揺れる黒髪は、一部を侯爵の手で結われ、正装にあしらわれた刺繍と同じ色の銀細工で飾られている。それをうっとりと眺める。
(侯爵様が御手ずから結ばれるなんて)
まるで自分の本棚に並ぶ大衆小説のような光景にどこまでもため息が漏れる。
侯爵の差し出した手を取って寝室を後にする少女を母と共に見送っても、まだ夢の中にいるようだった。
「ーーさて、サヨ様がご不在の間に色々済ませなければ。あなたもしっかり気合を入れなさい」
母が自分に伝えたいことは分かっている。
フロルはこの屋敷では一番の新参者だ。
なのに、侯爵の最も大切な人に仕えるという栄誉をいただいている。
侍女頭の実の娘だからという理由だけで侯爵の婚約者に仕え続けられるのだと高を括っていたら、あっという間に居場所などなくなってしまう。
あの少女の侍女という職は、いまやこの侯爵邸の侍女達が最も憧れる場所なのだ。
「ああそうだわ。フロル、あなた今日はアンリの店に行ってきて頂戴」
「アンリの店?」
そこは先日主人が伯爵夫妻と訪問した、王都でも人気の仕立て屋である。
「サヨ様のご衣装の仮縫いがもう少しなのだけれど、旦那様が細かい点を直されたいそうなの。早めの方が良いでしょう」
「なるほど……」
母から手渡された細かい点、の中身を見てフロルは顔を引き攣らせてしまった。
どうやら三着全てに、侯爵個人の紋章をそれとなく組み込むらしい。鳥と蔦のあの紋章を。
先に中身を知っていた母も呆れ顔を隠さない。
「ご婚約でもされたら少しは大人しくなるかと思ったけれど……」
よけいに酷くなっている。
過ぎたる愛とは、なんと恐ろしい。
鳥と蔦の本当の意味さえ知らぬ少女にこれを纏わせて良いものか悩みに悩んだがーー結局、侯爵達が出掛けた後、フロルも出発した。
仕立て屋にはなんと伝えようか。そう頭を抱えながら。




