20.自信
フレイアルドと婚約した日の翌朝。
小夜を待ち受けていたのは、婚約者としての最初の仕事だった。
フロルの給仕で軽い朝食を終えた自分の前にいそいそとやって来たのは昨日からずっと上機嫌なマーサである。
「本日は登城されるとのことですので、こちらのご衣装にいたしましょう」
マーサが小夜の前に広げたのは、胸元を光沢の強い生地で飾り、裾にかけては透けるほど薄い、色の異なる紗を幾重にも重ねたドレスだった。透けそうで透けない、見るものを惑わせそうなドレス。
上から下までは遠目に見ると、星のない夜空が薄紫へと変わる夜明けの空の色のようで、腰の切り返しは銀色の蔦模様の刺繍がぐるりと囲うようになっている。
揃いで用意された靴はいつもより踵が高いようだ。
「綺麗な服ですね」
「そうでございましょう? こちらは旦那様がサヨ様のために誂えた特注の生地を用いております。どこのご令嬢も着たことはないでしょう」
マーサの言葉に、ただ綺麗だなと眺めていた小夜は固まった。
「……生地を、特注?」
聞き間違いではなかろうか。
普通、生地は既製品を使うものだろう。しかしマーサは当然のように胸を張っている。
「もちろんですとも。サヨ様がここ一番、という時にお召しになるための正装でございますよ。そこらの商家で取り扱える程度のお品を、旦那様が使うはずございません」
フレイアルドが小夜に用意する規格外の品がまた一つ増えたことに、冷や汗が出た。
もうそろそろ何をしても返せないのではないかと肩を落とす。
(レシピのお金も結局貰っちゃったし、あれで何かフレイアルド様に贈ろうかな)
化粧まで終えてもまだ悩んでいた。
フレイアルドは何でも持っているし、何でも簡単に手に入れられるほどのお金持ちだ。
自分が貰ったお金だって安くはないが、彼にとっては大したことのない金額。そもそも出した本人ときている。
物質的な価値よりも、もっと違うもの。
ーー自分にしか贈れないもの。
頭を捻っていたら寝室の扉が叩かれた。
「私です。入ってもいいでしょうか?」
小夜の身支度が終わるのを待っていたかのように現れたのはフレイアルドである。
その手には美しい象嵌が施された箱を持っていた。
「おはようございます。今日からは、私が貴女の髪を結いますからね」
「え……?」
そう言って驚く小夜を鏡台の前に座らせ、フレイアルドは持参した箱を開ける。
箱の中には色とりどりの、紐や簪、バレッタのような髪飾りが納められていた。
箱の蓋の裏にはご丁寧に櫛やブラシまで備え付けてある。
フレイアルドは最初にブラシで小夜の髪を梳くと次に指と櫛とを器用に動かして結い始めた。
今日は髪の一部を編み込むように結い、残りを背中に垂らすらしい。
長い指が時折頭皮をかすめるだけでドキドキした。
「明日からは好きなものを選んで貰いますが、今日は衣装に合わせますね」
「は、はい……」
これを着けます、と小夜に見せてくれたのは鳥と、それを囲う蔦を銀細工で表現し、涙の粒のように宝石を連らせた髪留めだった。
繊細すぎず、派手すぎない。職人の妙技の髄がこらされた逸品である。
ここに来て何度もみかけた鳥と蔦の紋様がまた現れたことに、小夜はとうとう尋ねることにした。
「あの、この模様をよく見るのですが、何の模様ですか?」
「これですか? これは私個人の紋章です」
侯爵家の紋章はうろ覚えだが、もっと雄々しいものだったはずだ。
フレイアルド個人の、と聞いて納得した。それならば屋敷の中でよく見かける筈である。
(あれ? じゃあわたしの髪飾りが、フレイアルド様の紋章になってるの?)
それは一体、貴族的にどういう意味なのだろうか。
「終わりました。ーーとても綺麗ですよ」
「ありがとう、ございます……」
鏡に映り込む満足気なフレイアルドの顔を真っ直ぐ見れない。恥ずかしさで、ついその紋章のことは頭の隅に追いやってしまった。
部屋から出た小夜はフレイアルドに手を引かれて昨夜の応接室へ向かう。
踵が高い分、少し歩きにくい。
彼は当初小夜を抱えていく気だったらしいが、マーサから正装に皺がつく、と止められてしまった。
なのでゆっくり手を引かれ歩いているというわけだ。
隣を歩くフレイアルドによれば自分が支度をしている間に両親と兄は領地から戻り、泊まっていた大公もすでに準備を終えて集まっているらしい。
「殿下は?」
「既に出発しました。我々とは別行動です」
フレイアルドが誰にも打ち明けなかった策はもう動き出しているのだろう。
目上の人々を待たせていると知り心持ち急いで歩く小夜に、次々と話しかけるのは興奮気味の使用人達である。
二人を目に入れるなり仕事の手を止め近寄ってくる彼等は、その目をキラキラとさせている。
「この度は誠におめでとうございます」
「おめでとうございます! サヨ様!」
屋敷中の人間に会うたび祝いを述べられる。
マーサやフロルは昨日のうちに涙ぐみながら祝いを述べてくれていたが、まさか他の人達にも言われると思っていなかった。
しかも隣には当主であるフレイアルドがいるのに、祝いを言ってくる人の半分くらいは自分に話しかけてくる。
困り顔の婚約者は、しかし嬉しさを隠そうとはしなかった。
「これでは貴女に仕えたいという異動願がまた増えそうですね」
「異動願?」
歩きながらフレイアルドはまた一人、祝福の声に手を挙げて応えていた。
「ええ。以前から少しずつ、貴女に直接仕えられる部署へ異動したいという申し出がマルクスとマーサに届いています。フレンチトーストを作る前からです」
「……!」
目的の応接室の目の前で、フレイアルドは足を止め、小夜に目線を合わすよう腰を屈めた。
「確かに貴女には伯爵令嬢という身分があり、遺物を祝福できる特異な力まである。けれど少なくとも、この屋敷の者にはそんなこと関係ありません」
唇に、生まれて初めて少しだけひいてもらった紅が、その言葉と共に小夜の背を押そうとしている。
「私の執務についてくるほど勤勉で、どんな使用人にも分け隔てなく接する。そんな貴女だから、私もこの屋敷の者も、惹かれてやまないのです」
小夜の返答を待たず、彼は応接室の扉を押し開ける。
隣に立つ自分の中には、昨日までにはなかった、何か新しい感情が芽生えている気がした。




