19.葛藤
両親と兄が一時帰宅するのを見送ると、小夜はまたフレイアルドに抱き上げられた。何を言っても移動するとなれば抱きあげられるのが当たり前になって来た。そのまま歩き出す婚約者には、多分もう譲る気はないのだろう。
自分で歩きたいと主張するのは諦めて、代わりに疑問を口にした。
「あの、父様が言ってたことは、どういう意味なのでしょうか?」
「言ってたこと、ですか?」
伯爵夫妻を出迎える時とは打って変わってフレイアルドはゆっくりと歩く。
すれ違う使用人がこちらを認めるたびに硬直して頭を下げていく。
「騙し討ち紛いの婚約って……」
確かに急なことではあった。
しかし大公がフレイアルドと自分に婚約して欲しいと言い出したことが始まりだ。
フレイアルドが無理やりしたことではない。
疑問を形にして初めて、自分が父の言い方にほんの僅か憤りを感じているのだと気がついた。
「ごく一般的な作法とかけ離れていたからでしょうね」
父との応酬の後も彼に動揺は見られない。
もしかしたら最初から予想していたのかもしれない。
「一般的な作法ですと、男性が婚約を望む女性の父親にまず申入れをします。女性の父親が承諾をしたら男性は婚約申立書を王宮に提出し、同時に自分の髪紐や襟紐を女性側の侍女に渡すのです。女性側は婚約に異論がなければ、その紐で自分の侍女に髪を結わせます」
「けっこう違いますね」
フレイアルドは伯爵に申入れもしていないし書類も一切書いていない。髪もその手で結んだ。
「違うと、やっぱりダメなんですか?」
後からこの婚約は無効、と言われてしまうと対策の意味がなくなってしまう。自分だって、王太子の妻になるのは御免被りたい。
小夜が不安を覚えていることに気づいたらしく、フレイアルドは微笑みを深める。
「多少強引ではありましたが、私が行ったのは古い作法というだけです。立会人として成年王族の男性一人と成年貴族の男性二人という条件も満たしている。非難される隙などありませんから、安心してください」
そんなことを話していたら、あっという間に自室の前だった。
二人を出迎えたマーサは結ばれた小夜の髪を見て、目をカッと見開く。
「サ……サヨ様、その、そのお髪は」
「私が結んだ」
彼女の口は、はくはくと開いたり閉じたり忙しい。
けれど一度強く唇を引き締めた後は、喜びの形に口角が上がっていた。そして二人の前に片膝を立てて跪く。
「ーーおめでとうございます。このマーサ、この日をずっと、待ち望んでおりました」
いつだったかフロルに、主人の前で動揺や涙を見せてはなりません、と叱っていたマーサ。しかしその目には涙が浮かんでいた。
それくらい彼女にとっては嬉しいことだったのだろう。
「立ちなさいマーサ」
手放しの祝福に、フレイアルドの表情からも喜びがじんわり伝わってくる。
「急だがこの通り、サヨは私の婚約者になった。侍女頭として今後もサヨを最優先に頼む。それから明日サヨを伴って登城することになった。準備をしておきなさい」
「畏まりました」
しっかりと侍女頭が請け負うのを確認して、フレイアルドは小夜を下ろした。
迷いない手がするりと髪を撫でてから、背に回る。それからそっと体を寄せ、頭頂部に口付けを降らせた。
「私はこれから明日に向けて動かねばなりません。婚約してすぐの貴女を一人にするなど耐え難いことですが……」
お互い床に立ったまま抱き寄せられると、自分の顔はちょうど彼のみぞおちに埋まることになるのだと知った。少し、距離を感じる。
「これが終われば婚約者としての責務をきちんと果たしますので」
「責務?」
もしかしてまだ貴族としての仕事が何かあるのだろうか。
頭がしっかりとフレイアルドの胸に密着しているせいで首を傾げることは出来ず、視線で見上げるだけになった。
くすりと笑う声が耳に届く。
「ええ。婚約者へ、どれだけ愛しているかを伝えるのは、将来夫となる者に課された大切な責務でしょう?」
「ーーっ!」
マーサが見ている前で何を言い出すのか。
流石に何か言わなければと開きかけた口に、唇が押し当てられる。
(ーー!?)
触れるだけの口付けはすぐに離れた。
「ーーでは、また明日の朝」
小夜の唇をあっという間に奪った男は、さっと身を翻して部屋から出ていった。
支えがなくなり、その場にへなへなと座り込む。
これはしばらく立ち上がれそうにない。
(……あ、挨拶?)
見ていたマーサが何も言わないから、冷や汗が垂れていく。
もしかしなくとも、これはずっと続くのだろうか。これが婚約中の男女の自然な姿なのだろうか。だとしたら、身がもたない。
「旦那様は、サヨ様が可愛くて仕方がないようでございますね」
にこにこと嬉しそうに顔を緩ませたマーサには言えなかった。
自分がまだ、自分の気持ちにすら名前を付けられないでいることを。
***
小夜の部屋を出たフレイアルドを待っていたのはマルクスである。
執事長は折っていた腰を真っ直ぐ伸ばすと、その目にうっすらと涙を浮かべた。
「ーーおめでとうございます」
「ああ」
端的な会話だった。
しかし交わす視線には、長い長い時間をかけたことがやっと一つ報われた、その事実への喜びと達成感が含まれている。
「ザガンを至急呼べ。今夜中に殿下を仕上げる。その用意もして来いと伝えろ」
「はい、直ちに。それと旦那様、こちらを」
二通の異なる紙質の封筒をマルクスが差し出す。それを受け取ったフレイアルドは、すぐに中身を検めた。
眉ひとつ動かさず、便箋の字面を追っていく目はあっという間に仕事を終える。元通り便箋を畳み封筒へ戻すと、二通とも胸元にしまった。
「料理長へ私の夕食は不要と伝えろ。それから大公閣下と殿下のお部屋へは極力、サヨが考えた料理を届けるよう」
マルクスが厨房へ向かうのを見届けたフレイアルドの足は、迷いなく客室を目指す。
バルトリアスが休む客室だった。
扉からして金があしらわれた貴賓室は中も貴人を泊めるに相応しい造りにしてある。
その豪勢な扉を軽く叩き、許可も待たず勝手に入れば、入り口から寝台まで足跡のように上着や靴が脱ぎ捨てられている。
まるで後を追って来いとでも言わんばかりだ。
「落ち込んでいらっしゃるのですか?」
靴を拾い上げながら寝台へ近づく。
天蓋から垂れた布を壁にして寝台の中に引き篭もる男へ声を掛ける。
落ち込んでいても仕方ないだろうと思ってそんな言葉をかけたが、ややあって、その布が押しのけられた。
「落ち込んでなどおらん」
いつもと変わらない態度で寝台から出て来たバルトリアスはシャツと脚衣だけの楽な姿である。残りはみんな床にある。
「サヨは落ち込んでいました」
そう言ってやれば、ほんの一瞬だけ王子の顔が強張った。
分かっていて続けた。
「殿下のご事情について説明したら、泣いていました。全くもって許し難いことです」
「あの娘をか?」
動揺を消し去った男に靴を差し出せば、ぞんざいな手付きで履いていく。
「貴方のことを、です」
「……」
靴を履いても寝台の端に腰を下ろしたまま立ち上がる気配のない男のすぐ脇に立つ。
「サヨに張られた頬は、まだ痛みますか?」
「ーー其方」
やっとこちらを見上げた顔には驚きと、わずかな怒り。そして嫌悪。群青の瞳を見開いていた男はしかしすぐに自らの行いを恥じたように目を伏せる。
その隣に、乱暴に腰を下ろした。
「見ていたのか」
「いいえ。監視の遺物は隠してこそ真価を発揮すると遅まきながら気付きましたので」
エマヌエルの一件以降、侯爵邸の至る所へ置いた監視の遺物をフレイアルドはいつも確認していた。
見て分かるものと、置いた者しか分からぬもの。その両方があることを知るのは、今この時まで自分とマルクスだけだった。
「私はーー父が死んだあの日、共に失うはずだったこの命を救って下さった殿下を、尊敬申し上げております。無論、御恩も生涯忘れません。殿下が私に望むならばどのようなご奉公でも致します。けれどもサヨだけは、お譲りするわけには参りません」
伯爵は間違いなく、自分よりもこの男をこそ小夜の夫に望んでいる。それを先ほど思い知らされたばかりの胸は焦燥で焼き尽くされそうだった。だからこんな、釘を刺すような真似をしている。
愚かさならば自分のほうが遥かに上をゆく。
「頼まれても、いらん。これ以上面倒ごとを引き受けられるか」
心の底から嫌がってみせるバルトリアスは、舌打ちさえしない。
いっそ冗談めかしてぼかされた方が良かった。
はっきりとした拒絶は虚勢そのもののようで、自分にとっては崖の上に立たされることと同義だ。
「ーーそのお言葉を信じましょう」
そこへ部屋の扉が叩かれた。
時間からして夕食を運んできたのだろう。ザガンが来るには早すぎる。
フレイアルドが客人の代わりに応対すればやはりそうだった。
急な指示で料理長が用意したのは今日の昼餉でもあったハンバーガーだ。
「殿下が逃げている間、サヨが考えた料理を用意させました。ーー貴方を労うための料理です。一欠片も残さないで下さいね」
忠義と恋。
両立させるには甚だ難しいそれは、自分にとってこの男を王宮へ忍び込ませることよりも、遥かに頭を悩ませる問題だった。




