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揺り椅子の女神  作者: 白岡 みどり
三章

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16.髪結

 

 応接室から連れ出された小夜は、すぐ隣の部屋へ担ぎ込まれた。


(お茶の香りがする)


 入ったことのないその部屋は、どうやら侯爵邸に数ある茶室(サロン)の一つらしい。

 二人、もしくは一人くらいしか寛げない広さの部屋は、本当にお茶を嗜むためだけにあるのだろう。豪華な装飾の代わりに暖かな木目のテーブルセットとレースのテーブル掛けが出迎えてくれた。

 

 フレイアルドはその部屋に入るなり窓際に置かれた一人掛け用の背もたれの高い椅子に腰を下ろす。

 小夜を横抱きにしたまま。


「……サヨ」


 音と共に、小夜の左耳に軽く口付けを降らせていく。


「んっ」

「ーー近衛が来た日、私が言ったことを覚えていますか?」

「え、あ、えっ……」


 耳に口が触れるほどの近さで話されて、背筋がぞくぞくとする。

 近衛が来た日のことは忘れようと思っても、忘れられるものではなかった。あの時のやりとりを思い浮かべて、顔中の血が一瞬で沸いたように熱くなる。


 ーー好きですよ。サヨ


 あれはやはり聞き間違いではなかったらしい。

 フレイアルドは小夜の髪を梳いている。最近になって分かったことだが、彼は小夜の髪を梳く間、とても優しい目をする。


 まるで、愛しいものを見るみたいに。


「おぼ、えてます」

「それは良かった」


 髪を梳いていた指が今度は耳朶を滑り落ちる。

 耳たぶを撫でて、その後ろの髪の生え際を辿ってゆく。


「あの日の言葉を、何度でも言います」


 彼がこちらを見ている。

 一つも取りこぼさぬように。



「私は貴女が好きです」




 ***


 一瞬、自分の耳は正常に動いていないのではと疑った。

 けれどその疑いはすぐに晴らされる。


「す、すき?」


 そうですよ、と言ったフレイアルドは髪の生え際で遊んでいた指で、梳いて整えた小夜の髪を持ち上げ口付ける。

 浮かべた微笑は、男の人なのに艶然という言葉がよく似合う。


「貴女を一人の女性として愛しているのだと言えば、分かってもらえますか?」


 一人の女性として愛している。

 フレイアルドが、自分を、女性としてーー



 後から考えたらこの時の小夜の頭は真っ白だった。


 二人きりの部屋が世界の真ん中にぽつんと取り残されたみたいに、周りのことを全て忘れてしまっていた。


 こちらを見下ろすフレイアルドの眼差しは、真剣そのもの。



「大公閣下からの頼みなど無くとも、私は貴女を妻に望みます。ずっと望んでいたのです」


 小夜が言葉を処理するよりも早くフレイアルドは話す。まるで堰き止めていたダムの水を放流するように。


 下流にいる小夜は押し流されそうだった。


「……けれど貴女はまだ十八なので、成人までは待つつもりでした」


 こちらの成人年齢は二十歳だ。

 日本では成人も結婚できるのも十八なのでつい混同しがちだが、自分はこちらではまだ未成年のうちに入る。

 だから待っていた。そう言われ、とうとう完全に首筋まで茹で上がる。


「しかしこのような状況ではもう待てません。婚約するなら、どうか私と。ーー誰にも、貴女を渡したくないんです」

「で、でも」


 鼻先が触れ合うほど近い彼から、目を背けた。

 自分には待たせている人がいる。

 しなければならないことが、ある。


「でも、わたし、四年後には」


 聡一が小夜をきっと待っている。

 その時の状況に関係なく自分は四年経ったら帰るつもりでいる。

 その後再びこちらへ来れる保証などどこにもないことは、明らかだ。

 何しろ小夜がどうやってあの揺り椅子で運ばれてくるのか、どうして小夜だけが運ばれるのか、それはバルトリアスの知識をもってしても分かっていないのだから。


 いつか帰る。いつか、離れる。

 行き過ぎた人間関係はーーこの首を絞める。


(それに、そんなーー不誠実なこと)


 もう一度隣に戻れる保証もないのに、それまで隣に居ようだなんて、なんて虫が良くて、残酷なのだろう。望まれてならば尚更だ。

 けれどフレイアルドはそんなもの、ものともしない。


「その時のことはその時考えればいいのです。私は、いまの貴女の正直な気持ちを聞かせて欲しい。私のことをどう思っていますか?」

「どうって……」

「好きか、という意味です」


 フレイアルドのことを好きか。


 その答えはさっきまでならば「好きです」の一言で済ませられた。けれど今は事情が違う。

 内容は変わらない。だが、答え方が変わってしまった。


「フ、フレイアルド様のことは……好きです、大好きですけど、あの」


 一瞬だけ視線を戻した先の彼の紫瞳(アメジスト)は、ぐっとその色を深めて小夜を映していた。

 目を合わせ続けるには強すぎる光に、視線を落とす。


「お、男の人としてなのかは、よく分からない……です……」


 彼への気持ちを形容する言葉が、果たしてどこかにあるのだろうか。


 子供の頃から大切にしてくれて、文字を教えてくれて、夜の孤独から守ってくれた人。

 ここに必ず帰ってくると信じて待ち続けてくれた人。

 小夜の為に下町まで綺麗にしてしまった人。

 この命を何度も何度も救ってくれた人。


 尽きることのない感謝と、憧れがそこにはある。


 日々それは募るばかりで、もし全てを言葉にするならば一生かかっても伝えきれない。

 それを世間一般的になんと言うのか小夜には分からない。


 恋とか愛とか、自分には縁がないと思っていたから、尚更。


「いいんです。今はそれで」


 伏せていた目をおそるおそる戻せば、フレイアルドは小夜を見守っていた。

 その眼差しが、確かに彼は自分よりも大人で、そして一人の男性なのだと思わせる。


「……いいん、ですか?」

「ええ。元々あと二年待つつもりでした」


 フレイアルドの指が小夜の唇に押し当てられた。

 柔らかい皮膚の上を、硬い指がなぞる。


 急に、三度(みたび)触れ合った記憶が熱を持って鮮やかに甦り出す。

 今思えばあれは、あれらはきっと怒りでも何でもなく、きっとーー

 

「貴女が成人するまでには男として、そして婚約者として見てもらえるよう励みましょう」


 頑張らなくてももう見てます、とは口が裂けても言えなかった。

 この僅かな時間で彼はもう、小夜にとって初めて意識した異性になっている。

 これが恋なのかは、まだ分からない。

 

 けれど今朝までとはーーフレイアルドが、まるで違って見えていた。


 唇の上を這っていた指が他の指と共に小夜の頬に添えられる。

 自然と上向かされた自分の顔がどんな表情を浮かべているのか。

 目の前のフレイアルドを見れば想像に難くなかった。


「私の婚約者になってくれますね?」


 躊躇いは、あった。もちろん葛藤も。

 けれどもそれ以上に強いフレイアルドの思いが、それらを押し流す。

 気が付けば頷いてしまっている自分がいた。


「はい……」


 小夜の返答に、フレイアルドは頬を染めて本当に嬉しそうに微笑んだ。

 そして小夜を包みこむように、抱き締める。


 すっぽり自分を隠してしまう腕の中で、小夜はいつもよりずっと速い彼の心臓の音を聞いていた。

 自分の心臓と同じくらい速い、その音を。




 ***


 頭が熱に浮かされたようにぼうっとしていた。

 もしかしたら知恵熱くらいは出ていたかも知れない。

 

 フレイアルドが、まさか自分のことをそんな風に見ていたなんて。


(いつから……なんだろう)


 抱き締められたまま考えを馳せる小夜の体を彼は少し離す。あいた空間に手を入れると、その首元を飾っていた細い紐状のネクタイを片手で外した。

 寛いだシャツの向こうに喉仏と鎖骨が見えて、小夜は思わず体を引いた。

 だがその体はフレイアルドの手によって、膝の上で彼に背中を向ける形に直される。


「前を向いていて下さいね」


 言うなり背中に散っていた小夜の黒くて長い髪を集め始める。大きな手はするすると三つ編みを作っているようだ。

 あっという間に背中に垂らされた三つ編みは、最後に彼のネクタイだった紐で結ばれた。


「こちらの風習です。婚約中の女性は髪を結うものなので」

「な、なるほど……」


 久しぶりに纏めたせいか、とてもすっきりとして気持ちがいい。

 

(男の人に髪を結ってもらうのなんて、初めて)


 聡一でさえこの髪を結ったことはない。

 長くて重苦しい、小夜の髪。

 向こうの父に何度も掴まれ振り回され、自由を奪われる為だけにあった髪。

 フレイアルドに結われて初めて愛着が湧いてくるようだった。


「フレイアルド様は、結うのがとてもお上手なのですね」


 男の人はこういうことは苦手だと思っていた。

 結ってもらった時の姿勢のまま前を向いていると、小夜の腹部に手が回る。

 背中が全てフレイアルドに密着する体勢は、守られているように感じた。


「貴女のところでは、男はこういうことをしませんか?」

「えっと……そう、ですね。お仕事でそういうことをする人以外は、あまり」


 美容師ならば結えるかもしれないが、それ以外だと小夜の周りにはそのような人はいなかった。


「もったいないことですね」


 なぜもったいないのか。理由を訊こうとした小夜の言葉は、首筋にフレイアルドの吐息が掛かったせいで発せられなかった。

 小夜の肩に彼の顎が乗っている。


「もう少ししたら、戻りましょう」


 戻ればきっと、現実が待っている。

 お腹に回ったフレイアルドの手に自分の小さくて頼りない手を乗せた。



 

「ーー貴女のことは、私が必ず護ります」



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