14.啓示
「バルトリアス殿下、並びにエルファバル大公閣下におかれましては、当家へのご来臨、心よりの歓びと感謝を捧げることをお許し下さい」
いつか、初めてバルトリアスに会った日に聞いたような口上だった。
朗々と伸びるフレイアルドの声を耳にしながら、小夜はほっとしていた。
バルトリアスが避難を終えてここへ来たということは、状況が好転したのかもしれない。
どうか怖いことはもう終わったと、誰かに言って欲しかった。
ひとつ気になるのは、バルトリアスが一人で来た訳ではないことだ。
(エルファバル大公……は、バルトリアス殿下の大叔父君で)
確か国王の弟君だ。
それは王族への礼も必要になるだろう。
しかし何故その方が、バルトリアスと共に侯爵邸に来たのだろうか。
「すまないね。先触れもなしで。みな、楽にするといい」
大海のような穏やかな声に、曲げていた腰を伸ばし顔を上げた。
両親とフレイアルドの向こうにいる、見たことのない人がエルファバル大公なのだろう。
その人は真っ白な絹糸のような長髪を左胸の前で結えていた。
遠くて判別しにくいが、おそらく瞳は赤い。
一瞬アルビノかと思ったけれど、肌は血色良く象牙色だ。色素欠乏症でないのなら、そういう色合いの人もこの世界にはいるのだろう。
小夜にはその人の周りの空気だけ、何故か違って見えた。
(魔法使いが、絵本から出てきたみたい)
大公はフレイアルドと言葉を交わしている。
一方的に、にこやかに。
「それにしても聞きしに勝る警備だね、ここ。潜り込むのがすごく大変だったよ」
潜り込む、という言葉に小夜はつい隣の兄と顔を見合わせてしまった。
兄の顔は青褪めていた。
フレイアルドの屋敷に侵入したことをひけらかすような命知らずがいるとは思っていなかったのだろう。
小夜自身も、近衛以外にそんなことをする人がいるだなんて、思いもよらなかった。
「バルトが僕の屋敷から出るところもこの屋敷に入るところも見られる訳にはいかなかったから忍び込んだんだけど、こんなに大変だったの初めてだよ! 王宮より警備厳しいんじゃないかな? 君すごいねぇ」
どうやら、バルトリアスと大公はこの屋敷の鉄壁の警備を掻い潜って忍び込んできたらしい。大公は褒めているが、フレイアルドは後ろから見ても分かるほど不機嫌の頂上にいる。
兄と二人、怖くて震えていた。
「……お褒めにあずかり恐縮ですが、今回の手口は二度とお使い頂けないものとお思い下さい」
「えぇー」
マルクスが耳打ちした時フレイアルドが驚愕していたのは、彼等に侵入されたからなのだろう。
まさか国王の手から避難中の皇子と、その避難先の大公が揃って曲者のような真似をするとは思わなかったに違いない。
大公の隣に立つバルトリアスも、腕を組んで仏頂面をしている。余程忍び込んだのが嫌だったのだろう。
(でも、ご無事で良かった)
元気な姿にほっとした。
バルトリアスの場合、怒っていればいるほど元気そうに見えるから不思議なものだ。
小夜がそのまま眺めていると、バルトリアスと視線があう。しかし、すぐに逸らされる。
バルトリアスの行動に気づいた大公が小夜の方向に顔を向けたその時。
その目が驚愕に見開かれる。
小夜を見つけた大公は、その口をあんぐりと開けて固まった。
そして時が止まったかのように、その場に立ち尽くしたのである。
突然の豹変に小夜は肩を揺らした。
「閣下?」
伯爵の呼びかけにも反応しなくなった大公は、血肉を求める不死者のように、ゆっくりと一歩ずつ小夜に近づいてくる。
あまりにも異様な様子に応接室にいる者は誰一人止められないでいる。
そして大公は小夜の目の前まで来てやっと立ち止まると、穴が開くほどこちらを見つめたのである。
「か、閣下?」
「ーー君が、レイナルドの、娘?」
ルビーのような真紅の瞳が今にも零れ落ちそうだった。
どう反応したものか迷った末、もう一度王族への礼をしながら小夜は名乗った。
「はい。ザルトラ伯爵の長女、小夜でございます」
こちらの方式に則った挨拶をした小夜の耳は、小さな呟きを拾った。
ーーここにつながるのか
隣にいたラインリヒには辛うじて聞こえたかもしれない。大公は確かに、そう言った。
その呟きの意味を理解する前に、ゆっくりと持ち上げられた大公の手がこちらに伸びてくる。
これは逃げていいのか駄目なのかーー
迷った末に下を向いた小夜の視界へ、見覚えのある足が颯爽と割り込んでくる。
(フレイアルド様!?)
反射的に顔を上げればやはりフレイアルドだった。
大公と小夜の間に半身を割り込ませた彼は、小夜を隠すように片手を広げて庇う。
それは貴族のマナーに疎い自分でも分かるほど、不敬な行動だった。
「閣下は、サヨとご面識が?」
言葉は丁寧だが敬意の欠片も見当たらない冷え冷えとした声に、小夜は慌て、大公は真顔で固まる。
「フレイアルド様! ダメです! こんな」
「……いや、ないよ。僕と彼女は今日初めて会った。失礼したね」
止めようとした小夜の発言に被せるように、大公が否定する。
ルビーの瞳が、二人をなぞるように眺めたあと、細められる。
「なるほど、バルトが嫌がるのも分かるよ」
それだけ言って、大公はさっさと一人で長椅子に座ってしまった。
今のは何だったのか尋ねることもできず固まる一同に、大公は至って自分勝手にのんびりと声をかけたのである。
「さぁ、作戦会議の時間だよ。座った座った」
***
大公は一言で表現するなら、掴みどころのない人だった。
「まさかそのようなことが起きていたとは……」
お髭の下で歯を噛みしめるのは、小夜の右隣に座る父だ。
男爵の拷問から始まった一連の事件を聞き、その場に居合わせなかったことを悔しがっていた。
上座の長椅子には大公とバルトリアスが掛け、その正面の長椅子には伯爵とフレイアルドに挟まれた小夜が座っていた。
長椅子は三人でいっぱいだ。母とラインリヒは、追加された一人掛けの椅子にそれぞれ収まっている。
一つの長机をぐるりと囲んで座った面々は、それぞれ異なる表情を浮かべていた。
「この屋敷に近衛が来るだなんて。怖かったでしょう、サヨ」
話が始まってから、ずっと小夜を心配そうに伺うのは母だ。
慌てて首を振った。
「フレイアルド様が追い返して下さいましたので、大丈夫です」
「まぁ」
そのフレイアルドはといえば。
いまだ、大公を牽制するように睨みつけていた。
だがその不敬を咎める素振りすらない大公は、常人ならばとうに音をあげていてもおかしくない眼光を軽々と受け流している。
フレイアルドがもし犬ならば全身の毛を逆立てて、牙を剥きながら唸っていただろう。
彼が人間で良かったと心から思う。
「事情は理解して貰えたようだね。問題はここからだ」
大公が相変わらず仏頂面のバルトリアスへ目配せをする。
ここへ来てからずっと押し黙っていたバルトリアスが重々しく口を開く。
「ーー近衛がフレイアルドに追い返された夜、どうやら国王派の重鎮が密かに王宮へ呼び付けられたらしい」
「なんと!?」
声を上げた伯爵だけでなく、小夜を含む全員が顔色を変えていた。
「無論、呼んだのは国王だ。その次の夜には国王派の高位貴族が呼ばれている。明日には末端貴族に至るまで全ての国王派が登城を予定している。目的は、分かるな?」
「篩にかけるのでしょう」
先ほどまでの威嚇をどこかへ追いやったフレイアルドの声は、いたって冷静だ。
「各家に遺物を持参させ、その中で祝福に満ちた遺物を持つ者……裏切り者がいないか篩にかけた。そうではありませんか」
「その通りだ」
怖いことは終わってなどいなかった。
むしろ、相手は順調に駒を進めていたのだ。
「いずれは俺の派閥も呼ばれる。王命だからな。逆らうことなどできん」
もしもこれから先、バルトリアスに味方する貴族が小夜によって祝福で満たされた遺物を王宮へ持参したら。
男爵の二の舞では、済まないだろう。
「俺や大叔父上のように王位継承権を持っている者を詮議するには国王といえど相応の手続きが必要だ。その為の布石を兼ねているのだろうよ」
じわりじわりと、周囲が黒く染められていく感覚に、背筋が震えた。
逃げ道を塞いでから、刃を突き付ける。
それが国王の好むやり方なのだろう。
「その様子では侯爵のところにこの情報は入っていないのかな? どうやら、随分と情報操作の上手い者があちらにいるね。この僕も《猫》がいなければ、分からなかったくらいだし」
すっ、と着物のように長い袖の袂から大公が取り出したのは、宝石のついた首輪だ。
大公の指が宝石に触れると、そこから白い靄が吹き出す。
靄はみるみるうちに紙粘土のような質感へ変わり、猫の形をとる。
瞬きの間に、黒猫がそこに現れた。
「造兵の遺物で作ったこの仔達にはそれぞれ情報を集めさせている。この黒い仔は主に王宮を回っていてね。今朝方帰ってきてくれた」
大公の指で顎下を撫でられて喉を鳴らす姿は、本物の猫にしか見えない。
(……かわいい)
しかし隣のフレイアルドは憎々しげにその猫を睨んだ。
「当家のことも、その《猫》に探らせたわけですか」
「まぁね」
「ーーマルクス。全使用人へ通達。猫だろうが犬だろうが私の許可しない生き物を邸内へ引き入れること、今後一切禁ずる。破った者はその場で解雇だ。いいな」
「畏まりました。直ちに」
鋭く命じるその姿に「こわいねぇ」とのんびり猫に話しかける大公。
小夜には、そっちの方がよっぽど怖かった。




