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揺り椅子の女神  作者: 白岡 みどり
三章

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08.大公

 

 バルトリアスが目を覚ました時、外はとうに暗くなっていた。

 

 寝台から見える四角い闇だけでは宵の口なのか朝日が近いのかすら分からない。

 軋む音と共に寝台を降り、窓に近づく。

 

 見下ろせば大公邸の庭、見上げれば夜空。

 侯爵邸ほど広くも種類多くもないが、趣味よく選りすぐられた草花は真夏を過ぎても鑑賞に耐えた。

 どうやら夜明けの方が近いらしい。そう星が示している。


「ーーアスラン」


 室内の何処にいるかも分からぬ相手の名を呼べば、意外と近くから返事がある。


「ここにおります」

「俺が寝ていた間の報告を」


 そうして、護衛が取り出した報告書の厚さに顔を顰めた。いつもの倍はある。

 どうやらかなり長時間眠っていたらしい。


 思ったよりも心身を疲弊させていたのだろう。

 その原因など考えるまでもない。




 自分達が近衛の手を逃れた後。

 侯爵邸でラインリヒを拾い、そのまま三人は男爵の元へと馬車を走らせた。


 運河のすぐ側に佇む男爵邸は、屋敷それ自体が恐怖に萎縮しているようだった。

 門番を雇う余裕もない屋敷に馬車ごと乗り込んだ彼らを出迎えたのは、腰の曲がった一人の老女。

 老女は小さな背中を丸めて、常識はずれの早朝の来客者へ対応した。


「申し訳ございませんが、当家はただいま取り込んでございまして……」


 おそらく老女は来訪者が誰なのか気づいていなかった。


「俺は第一王子バルトリアスだ。こちらの主人の為、医者を連れて来た。案内を頼む」

「こ、これは大変な失礼をば……」


 老女はひょこひょこと歩き三人を案内してくれた。

 一階の、客用寝室へ。


「……旦那様をお二階へお運びするには、手が足りなかったものですから……」


 部屋の中は空気が籠っていた。

 寝台から漂う血臭にラインリヒが放たれた矢のように駆け寄って行く。


「ユージーン……」


 ラインリヒと男爵は知り合いだったらしい。

 全身を巻く包帯に滲んだ血が、男爵が受けた拷問の壮絶さを物語っていた。


「……どなたで……」


 男爵の目は、乾いた血で固まってよく開かないようだった。


「ザルトラ伯爵の四男、ラインリヒ」


 答える男のその手はもう遺物を取り出していた。

 それから三の鐘がなるまで、ラインリヒは全ての集中力でもって治療にあたってくれたのである。


 古い拷問を施された男の治療は困難を極めた。

 結果、男爵は左脚の膝から下と右手の指の一部を失った。


 けれど命だけは助かったことに、男爵の妻も使用人の老女も涙を流して喜んでいた。

 バルトリアスも、ラインリヒとオレラセアにどれほど感謝したか分からない。

 男爵の命を、おそらくこの場の誰もが一度は諦めただろう。

 この医者以外。


 時間が許せば男爵から詳しい事情を聞き取るなりラインリヒを労うなり出来ただろうが、ことは一刻を争っていた。

 ここで近衛に踏み込まれでもしたら、男爵もその家族も今度こそ命はない。


 申し訳なさに歯軋りをしながらラインリヒを男爵家の馬車で帰し、バルトリアス達は大公邸を目指した。

 どこかで妨害が入ると思い構えていたものの、それは杞憂に終わった。自分達は無事この屋敷へ逃げ込むことができたのである。


 バルトリアスは大公邸の、かつて使っていた部屋に入るなり、倒れ込むように寝てしまったらしい。

 十の歳から成人して自分の宮を持つまで大公邸で暮らしていたこともあり、気が抜けたのだろう。


(ここまで纏めて眠ったのは久々だな)


 眠り過ぎて、かえって頭痛がしていた。

 体も重く、油を差したいほどギシギシという。


「まず、ラインリヒは無事に侯爵邸へ帰還しました。男爵も意識明瞭とのことで、改めて殿下への面会を希望しています。また大公閣下からは目覚め次第面会を、と。それから」

「分かった。あとはその報告書を読む」


 差し出された報告書を素早く一瞥し、頭の中で優先順位を振った。

 何を置いてもまずは大公に会わねばならないようだ。


 着替えようとして、そこで上着がないことを思い出す。


(あぁ……サヨに着せたままだったか)


 迂闊な格好でちょろちょろする娘を思い出していたら、アスランが訝しげな顔でこちらを見てきた。

 塩を振り掛けても溶けない蛞蝓(なめくじ)を見るような目つきだった。


「なんだ」

「……笑っておられたので」


 確かにこの状況で笑うなど、頭が沸いたか捨て鉢になったかのどちらかに見える。

 アスランを責めることはできない。

 緩んだ顔を引き締め、無理矢理眉根を寄せれば護衛はあからさまにほっとした。


「閣下へ面会の申入れをして参ります」

「ああ」


 アスランもバルトリアスと共に多くの時間をこの屋敷で過ごしてきた。宮にいる時よりも、気を抜いているのが伝わってくる。


(俺のせいで、すっかり婚期を逃させてしまったな)


 護衛の為もあるのだろうが、一番の原因はバルトリアスが正室どころか側室の一人も迎えていないところにある。

 ゲムミフェラの盾並みに堅い頭は、主人よりも先に妻を迎えることを拒んだ。


 全くもって男爵と同等かそれ以上の、上に馬鹿のつく忠義者である。

 

 バルトリアスは衣裳箪笥を漁った。

 

 今回のような事態を見越して大公邸には当面困らないだけの衣装を備えてある。

 その中から適当な上着を出して羽織るだけで、頭は強制的に叩き起こされていく。


 今はとにかく国王の追求からあの娘を隠す手を考えねばならない。

 男爵に対する拷問の責を問うのはその後だった。


 ***

 

 エルファバル大公はバルトリアスの親代わりのような御人(おひと)である。

 彼の元に自分が引き取られた、もとい保護されたのは十の時。

 母を亡くした年のことだった。

 

 この邸でバルトリアスは多くのものを大公から与えられた。

 帝王学、経済学、兵法、歴史、哲学。

 人の使い方ならば、用兵から女のあしらい方まで。

 かの人は武器の扱い方以外の全てをバルトリアスに教えてくれたのである。


 だからだろう。成人して自分の宮を持ち数年経った今でも、バルトリアスは彼には頭が上がらないでいる。


 夜が明け、さしたる案内の必要もなく大公の指定した茶室(サロン)へと出向いたバルトリアスは、その中にいる人物に声を掛けた。

 

「大叔父上」


 その人は雪原のような真白の髪を、前見頃に掛かるように束ねて垂らしていた。

 こちらに向けられた瞳は紅玉がそのまま嵌っているのかと思うほど艶やかで、見る者を魅了する。


 王族特有の濃い金髪と群青色の瞳を受け継がなかった男は、バルトリアスへ微笑み掛けた。

 

「おはよう、バルト」


 その屈託のない笑みは、バルトリアスに誰かを思い起こさせた。




 茶室で二人きりとなると、茶を淹れるのは大抵この大叔父だった。

 六十も手前だというのに若々しいこの大叔父は、その顔にも茶器を傾ける手にも、染みひとつない。


「こういう時なんて言うんだったかな」


 大叔父は先ほどからずっと、バルトリアスの顔を穴が空くほど眺めていた。

 きらきらした眼で。


「なんでしょうか? 俺の顔に何か付いてますか」

「いや? あぁ思い出したよ。男子、三日会わざれば刮目してみよ、だ」


 この御人はこのように、時折聞いたことのない格言を口にする。

 男子三日がなんとやらも初めて聞く言葉だった。


「なんですか。それは」


 大叔父は飽きもせず、にこにことこちらを見ている。


「人は三日も会わないと大きく成長しているものだ、久しぶりに会ったら注意深く観察しなさい、という意味だよ。まさしくだねえ」


 気味の悪い態度さえ置いておけば、なかなか深みのある格言だった。

 

「この前会ったばかりなのにね。急に顔付きが変わるんだもの。一体何があったのやら」


 その言葉に茶器を置いた。

 飲み込んだ青々しい香りの茶を以てしても、バルトリアスの胸の中までは洗い流せなかった。


「……男爵のこと、お聞き及びかと思いますが」


 この大叔父のことだ。既に耳には入っているだろうと反応をみれば当たりだった。

 纏っていた空気が変わる。


「聞いているよ。ーー兄上はどうかしているな。拷問なんて、前時代的なことをされるなんてね」


 すっと足が組まれた。

 大叔父は(くるぶし)まで隠れる袖付きの貫頭衣を好んでいつも着ている。

 まるで修道士のような格好だったが、その中身は僧とは似て非なる。


 それをバルトリアスは長い付き合いでよく知っていた。


「君を詮議しようと近衛まで出してきたって? あれはもう()けてるんじゃない? 嫌だなぁ、僕も()けたらどうしよう? バルト」


 口調は軽快だし笑顔だが、表面どおり受け取ってはならない。

 

「知りません」


 下らない冗談に付き合う気はないという意思表示を兼ねて、茶を口に運んだ。

 空にしてしまった茶器を手の中で弄ぶ。


「呆け老人でもなんでも、あれが国王です」

「全くね。困ったことだよ」


 二人はほぼ同時に嘆息した。

 空になった茶器になみなみとおかわりを注ぎ足す大叔父は「男爵もそうだけど」とバルトリアスをひたりと見た。


「僕が言いたいのはそういうことじゃないんだよ。もっと違うことだ」


 バルトリアスは大叔父の言いたいことを計りきれないでいた。

 開けられた茶室の窓からは、土と草が混じった水の匂いが風に乗って運ばれてくる。

 眠っている間に一雨降ったのかもしれない。


「数日見ない間に、随分雰囲気が優しくなったと思ったんだ」

「……やさしい?」

「うん。丸くなった、と言った方がいいかな」


 そんなことを言われるとは思っていなかった。

 アスランからは何も指摘されていない。

 起きた時に不審がられはしたが。 


「嬉しいよ、僕は」


 本当に嬉しそうに目を細めてみる姿は、まるで父親だった。

 その姿を見ていると無理やり張り詰めている幾つもの糸が弛んでしまいそうで、バルトリアスはそっと視線を外したのだった。

 

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