06.舌下
静かな執務室に鳴り響いた鐘の音。
午前よりも少し低いその音は、小夜の心を映すようだった。
普段ならばこの辺りで執務を切り上げ昼食を摂るようマルクスが促してくれる。
有能な執事長はすでに自らを立て直したらしく、例に漏れず三人へと尋ねてくれた。
「……サンドイッチ」
いまだに腕を組み何かを堪えていたフレイアルドがそう呟く。
彼の中で何らかの区切りがついたのか、一度大きな息を吐いて顔を上げた。
「こんなもの、序の口だ」
「……心底尊敬した」
フレイアルドと兄が神妙に頷きあう。
小夜が二人の会話に口を出すようなことをしたら、またおかしな空気にしてしまうかもしれない。
余計なことはもう言わない。それがいい。
「サヨ様は如何されますか?」
マルクスが何事もなかったように尋ねてくれるのが有難い。
「わたしは、フレイアルド様と同じもので」
忘れそうだが、今日からはアマーリエがいない。
ここしばらく昼まではフレイアルドの執務を見学し、昼食後は夕方までアマーリエの授業を受けていた。
その授業がないのだから、午後も彼と執務室だろう。
それならばあまり重たいものを食べては、眠くなってしまう。仕事をする彼の横で眠るわけにはいかない。
ラインリヒが興味深そうに身を乗り出していた。
「そのサンドイッチだけど、サヨが考えたんだって?」
兄の言葉に小夜は首を振る。
歴史に嘘を吐いてはいけない。それは先人への冒涜だ。
「向こうの料理なんです。わたしが考えたわけではなくて」
「そうなのか? すごく新鮮で手軽で、オレも好きだ」
手放しでそう言って貰えれば素直に嬉しかった。
そして兄は何か思いついたように、小夜へと体を向ける。
「オレにも何か新しい料理を出してみてくれないか?」
ラインリヒは妙に明るく頼み込んできた。
空元気かもしれないが、それには気づかないふりをした。
「パフタで作れるもので、何かないか?」
「パフタで……」
折角の兄の頼みである。小夜は出来ることならその意に添いたかった。乏しい知識を総動員してこちらで再現出来そうなものを考える。
するとひとつだけ、思いついた。
「ーーマルクスさん、書くものを頂けますか」
小夜が思いついたのは、フレンチトーストだ。
少し漬け込む時間が必要だが、今は他に思いつかない。
マルクスから受け取った紙に、すらすらと材料と手順を書き込んでいく。
パフタに、ハピという鶏に似た鳥の玉子、牛の乳。
なお牛と豚はこちらでもその名で通じた。
問題はお砂糖だ。
「あの……お砂糖を使うのですが、高価すぎたりするでしょうか?」
そう思ったのには理由がある。以前、料理長が出してくれる菓子を食べきれなかった時にフロルに渡したら、飛び跳ねるように喜んでいたのだ。
滅多に食べられないものを、ありがとうございますーーと。
こんな大きなお屋敷の使用人でもなかなか甘味は口に出来ないのだと、その時気づいた。
フレイアルドは少し考え込み、小夜のレシピを覗き込んだ上で快諾した。
「構いませんよ。私も気になりますから、どうぞ使って下さい」
「じゃあ……これで」
他にいくつか追加の材料と、付け合わせなどを書き加えて執事長へ渡す。
検分した執事長は大きく頷いていた。
「料理長にはその写しを渡しておけ。私もサンドイッチではなくフレンチトーストにする」
「サヨ様もでしょうか?」
「はい」
(懐かしいな)
フレンチトーストを最後に食べたのはいつだっただろう、と思い出を遡った。
小夜にとっての、向こうの料理の記憶。
その殆どは、今は会えない弟が占めていた。
***
フレンチトーストが出来上がるには、やはり少し時間が必要だと料理長から連絡があった。
お待たせする間何か召し上がりますか、と料理長の伝言を持ってきた若い料理人が尋ねてくれるが、小夜達は全員待つことにした。
折角料理長が腕を奮ってくれるのだ。待つ時間もスパイスである。
フレイアルドは、その間の時間を無駄にしないようにと小夜を置いて、ひとり執務へと戻っていく。本当に勤勉だ。
置いていかれた小夜は目の前に座っている兄の顔を見て、昨日完成した翻訳のことを思い出した。
「兄様、応急手当の項目の翻訳が終わりました。見ていただけますか?」
「早いな。見せてくれ」
受け取った兄の目が真剣に字を追っていく。
フレイアルドもバルトリアスもそうだが、皆読むのが早い。
小夜から見れば、ラインリヒも二人に負けず劣らず速読の達人といえた。
「ーーすごく良い。きちんと翻訳できてる。サヨ、頑張ったな」
ぽん、と頭に置かれた大きな手で撫でられると嬉しいような、くすぐったいような気持ちになる。
頬のあたりがひとりでに動いてしまう。
飛び跳ねそうな自分を抑え込むため、両手を膝の上で握り合わせた。
「あ、ありがとう、ございます……」
「ほんとに良い出来だ。サヨはこっちの本を読んだことがあるのか?」
読んだというか、読み聞かせしてもらったことならある。
ずっと昔。子供の頃、フレイアルドに。
(フレイアルド様が文字を教えてくれなかったら、この翻訳は出来なかった)
小夜は執務机で黙々と書類を捌く人へと視線を向ける。
何故かは分からないけれど、急にその姿を見たくなったからだ。
兄はそれで何も言わなくても理解してくれたらしい。
「……妹をもつ兄貴って、むなしい生き物だな」
「え?」
「いーやなんでも。あとはオレが少し手直しして、フレイアルドと殿下に見てもらえば出版できる。そうだよな?」
その問い掛けは、小夜ではなくフレイアルドへと向けられていた。
羽根ペンの音が止まる。
「……私はいいが、問題は殿下だ。いつ自由に出歩けるようになるか……」
バルトリアスは現在のところ、大公の元へ避難中だ。
フレイアルドでさえ、いつそれが終わるのか予想がつかないらしい。
「国王の出方次第では出版は延期になる。全く、仕事ばかり増やしてくれる……」
ピリリとした空気がフレイアルドの背中から立ち昇っている。
今の状況はあまり良くないらしい。見たことがないほど険しいフレイアルドの表情が物語っていた。
小夜は長椅子から立ち上がると、フレイアルドの傍へ行った。
座ったままの彼の隣に立つ。
勇気を振り絞って、小夜は口を開いた。
「……あの、わたし、何も出来ないし、今も迷惑ばかりかけてますが……」
迷惑どころか、ほとんどの元凶だ。
フレイアルドは驚きの目で小夜を見上げている。
「わたしに出来ることでしたら、何でもします。いま出来ないことも出来るようになるよう頑張ります。ここでお世話になってる分、お仕事もします。だから、フレイアルド様がお一人で何もかも背負う必要はないのでは、と……」
ぎゅっとスカートを握る。
フレイアルドは、穴が開くほど小夜を見ている。
(半人前でさえないわたしから言われても、困るかもしれない)
見ていられないほど忙しい彼のために何かしたいのは偽らざる本音だ。
雑用でも何でも、出来ることはあると思いたい。
小夜が視線を揺るがせることなく真っ直ぐ見つめていると、フレイアルドはくしゃりと顔を歪め、組んだ両手にその顔を埋めた。
「ーーラインリヒ。頼む、少しだけでいい」
手の平越しに漏れた声は、非常に切実そうな響きを伴っている。
小夜は兄を振り返った。
その兄は、天を仰いでいる。掌で両目を覆っていた。
「あぁもう……お茶一杯分。それ以上は、見過ごせない。それからお袋に顔を合わせられなくなるようなことは、やめてくれ」
「ああ」
フレイアルドの返答に溜め息を吐いた兄は、おもむろに長椅子から立ち上がった。
そしてそれまで静観していたマルクスと共に、部屋を出て行こうとする。
一度だけ小夜を振り返った兄の顔は真剣そのものだった。
「サヨ。首飾りをつけてること、忘れるなよ」
意味が分からないことを言い残して、兄と執事長は退室する。
その扉が閉まるか閉まらないかーーそのほんの僅かな時間で、フレイアルドは立ち上がり小夜を抱え上げた。
あまりの素早さに、抱き上げられたことに気付いたのは視界が高くなってからだった。
「フレイアルド、さま?」
何かに急かされるように、フレイアルドは小夜を抱えて長椅子へと移動した。そして小夜をそこへ下ろすと、何も言わず口付けをした。
「ーーんっ……」
貪るような性急な口付けは、声を上げることすら、許してくれない。
背中と頭に回された手は、小夜を逃す気がないようだった。
「ん……んっ……」
重なった唇から一筋の唾液が小夜の顎を伝う。
息が苦しい。
けれどーーどんなに激しくされても、抵抗したいとは思わなかった。
(あの時、みたい……)
あの時とはもちろん、運河で溺れたあとのことだ。
馬車の中でされた口付けを、小夜は忘れてなどいなかった。
でもあれは彼の怒りの発露だと思っていた。
死ぬ気はなくとも水の中へ身を投げたことに、彼は初めて小夜に対する怒りを見せたから。
彼が小夜にしたことは、仕置きの一種。そう思い込むことで小夜は自分の中の疑問全てを黙らせていたのだ。
口付けも、その後のことも、それ以上の意味はないのだと自分に言い聞かせていた。
なら彼は、今度も怒っているのだろうか。
そうではないような気がした。
永遠のようにも一瞬のようにも感じる時間のあと、小夜の唇を一際強く吸い上げて解放するフレイアルド。
影を落としたその顔は、自嘲と後悔に塗れていた。
「……自分が、心底嫌になります」
長椅子にそっと横たえられた小夜は息を整えながらその顔を見上げていた。
小夜の上に跨るフレイアルドの体温は服越しでも熱い。その指が何度も何度も、小夜の髪を根本から毛先に向かって梳く。
フレイアルドは、口元だけで笑っていた。
「こんな醜いーー獣のような男が怖ければ、伯爵家へ逃げ込んで下さい」
「……え……?」
唐突な提案にうまく返事ができなかった。
小夜が返事をしないせいか、フレイアルドの自嘲めいた笑みは更に深まっていく。
「ずっと帰ってこなくても、貴女を責めたりはしませんから」
「それはーー」
ーーそれは、自分に出ていけという意味なのか。
小夜が問おうとした、その矢先。
フレイアルドが、小夜の首に顔を近づけた。
「ーーっひぅ」
彼の舌が、ぬるりと首飾りの下を這う。
まるで鎖が邪魔だと言わんばかりに、退かせるように舌が動き回る。
(待ってーー)
今すぐにやめなければ、このまま何も考えられなくなりそうだった。
「も、もうーー」
「どうか止めてください。ーー嫌だと、思うだけでいいんです」
その言葉にはっとする。意味に気づくと瞬時に体が強張った。
(だめ、そんなことしたらーー首飾りが、反応しちゃう)
小夜は目を瞑った。何も考えないように。
フレイアルドが、痛い思いをしないように。
どんなに切迫した声が降ってきても小夜は目を開けなかった。
「……サヨ、はやく」
覆い被さる彼の言葉が、耳をすり抜けていく。
早く、早く頭を真っ白にしなくちゃーー
数えきれないほど自分に言い聞かせたその時。
執務室に、聞き慣れない音が響いた。
まるで二人への警告だった。
いつもお読み頂きありがとうございます。
明日以降、しばらく《揺り椅子の女神》の投稿を不定期とさせていただきます。
毎朝楽しみにして頂いてる方には誠に申し訳ありません。
三章は一話ずつの文量が多かったため、ストックがなくなってしまいました。未熟な作者でございます。
必ず完結するようには書いていきますので、引き続きどうかお付き合い下さいませ。




