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揺り椅子の女神  作者: 白岡 みどり
三章

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03.熱源

 

 伯爵夫妻の長い休暇が終わってしまった。


 今朝も小夜と朝食を摂った夫妻は、これからまた数日掛けて馬車で帰還するようだ。


 空はよく晴れていて、雲ひとつない。

 小夜はフレイアルドと共に玄関で見送りをしていた。


「転移の遺物で帰らないのですか? 馬車よりも、速いのですよね?」


 二人がいなくなってしまうことが寂しくて、まだ帰らないで欲しくて、ついそう尋ねてしまった。


 俯いた拍子に黒い髪が一筋ほつれて風に流れる。


 そんな心許ない様子の小夜にアマーリエは苦笑しながら、ほつれた髪を直していく。

 それから、まだ転移の遺物は使えないことを教えてくれた。


「転移の遺物は万能のようで、そうではないの。お互いが登録しなければ使えないわ。私達が帰ったらすぐ登録しますから、そうしたら伯爵家へ帰ってらっしゃい。必ずですよ」

「……はい」


 小夜が伯爵家に向かうことを母は『帰る』と言ってくれた。

 それが嬉しくて自然と顔が緩んでゆく。

 小夜の帰る場所がそこにあるように聞こえたからだ。


「それはそうとラインリヒはどうしたのでしょう。今日帰ることは言っておいたのに……」


 確かに見送りの場に兄の姿はない。

 

「ラインリヒなら今朝方、殿下のお召しで出掛けたようです」


 フレイアルドはそう言いながら肩をすくめている。

 小夜はそれで、今朝のバルトリアスの来訪の理由をやっと知った。


(兄様を連れにきたんだ)


 借りた上着はマーサに頼んで綺麗にしてもらい、小夜の部屋に大切に保管してある。

 マーサは仰天して青くなって震えていたけれど。

 後でどうにかして返さなければならないだろう。


 伯爵はフレイアルドの説明に納得したのか大きく頷いている。

 この短期間でも伯爵がバルトリアスを尊敬し慕っていることに小夜は気が付いていた。


 かたやフレイアルドとは顔を合わせる度に睨み合っていたが。


「うむ。殿下のお召しとあらば仕方あるまい。ーーではサヨ、くれぐれも身体に気をつけるのだぞ」

「はい、父様もお身体を大切に」


 伯爵の眉が緩い弧を描く。


 小夜のために切ってくれたお髭は、滞在中に少し伸びていた。

 これから先、父のお髭が伸び切って口元が隠れたとしても、小夜はもうその表情が分かる気がした。


 父は緩んだ顔を引き締めるとフレイアルドへと一歩近づく。


「サヨは其許へ預ける。だが節度を守れん時は……分かっておるな」

「……善処いたします」


 そんな二人を見てくすりと笑うのは母だ。

 母もフレイアルドへ言いたいことがあるらしい。父の隣に立った。


「サヨをどうか頼みます。必ず守ってくださいませ」

「はい。この身に代えましても」


 伯爵の時よりもはっきりと答えたフレイアルドに夫妻は苦笑するが、咎めようとはしない。

 準備の出来た馬車に乗り込む二人は最後に小夜を抱き締めていった。


「またすぐに会えますからね」

「はい、母様」

「あの男が嫌になったら儂に言いなさい。よいな」

「と、父様……」


 そして夏の風と共に、夫妻は去っていったのだった。

 小夜の心に陽だまりを残して。


 ***


 馬車が小さくなり見えなくなっても見送りをやめられない。

 そんな小夜をフレイアルドが背後から抱き上げた。


「ひゃっ」


 フレイアルドはその左腕に小夜を座らせるように抱えると、反対の手で小夜の頬を撫でた。

 反転した体は彼を見下ろす形で固定される。


「そのような顔をしないで下さい。どんなに遅くとも四、五日でお二人は伯爵領へ到着します。きっとその日のうちに転移の登録を済ませてしまうでしょう」


 登録さえ済ませてしまえばどんな長距離でも一瞬で移動できるのだという。


 彼なりに励ましてくれているのだろう。

 けれどこの見送りの場には小夜達以外ーー手の空いていた使用人ほぼ全員が揃っているのである。

 

 誰も彼も見なかった振りをしたいのか、俯いている。

 耳を赤くして恥ずかしがっている侍女もいた。フロルだ。


(わたしだって恥ずかしい)


 両手で顔を覆えば、手の平より顔の方が熱くなっていた。


「お、降ろしてください……」

「嫌です」


 そう言い切ったのは、大変爽やかな笑顔だった。


(ああ、また、始まっちゃった……)


 最近のフレイアルドは、前にも増して綺羅綺羅した笑顔で小夜を甘やかす。

 加えて夫妻の目がないところでは、小夜に触れることが増えた。


 頬に触れたり、今のように不意に抱き上げたり。

 急に頭頂部に口付けしたり。

 鼻先が触れ合うほど顔が近づくことも、しばしばある。


「あまり陽射しに当たりすぎるのは良くありません。中へ入りましょう」


 そう言うと、周囲の生暖かい視線をものともせず、フレイアルドは本邸の中へ戻っていく。

 当然小夜は彼の腕の中だ。


「フレイアルド様、もう一人で歩けますから」


 足を怪我していた時や病み上がりの時ならば、周りだって介助の一環と思ってくれる。

 しかし今の小夜はどこも悪くない。

 屋敷の中や庭園も十二分に歩き回っているのだから。


「転んで怪我をされては敵いませんから」


 そんなことを言っていては、小夜は一生一人で歩けないではないか。


 だが小夜の反論も使用人の視線も、フレイアルドには微風(そよかぜ)のようなもの。

 

 そのまま彼の執務室へ一緒に入っていくと、最近になって用意された一人掛けの椅子と小さ目の執務机が目に入る。


 それらの材質は執務室の他の調度品と同じだったが、椅子の座面の生地は可愛らしい花模様。

 優美な曲線を描く肘置きを備えた椅子は、フレイアルドが使うには華美で華奢だ。

 執務机もその脇には、はたして必要なのか分からない透かし彫りが施されている。

 これら執務机と椅子は小夜のために新しく製作されたのだと、誰が見ても分かる造りだった。


 フレイアルドの執務机のすぐ隣に設置された机と椅子は、腰掛ければ彼を真横から眺める形になる。

 そこへ小夜は優しく降ろされた。


「では、今日も始めましょうか」


 ***


 執務室にはフレイアルドが紙の上で滑らせる羽根ペンの音が響く。


 小夜が横たわれるほど広い机の上には、山のような資料と決裁が几帳面に積まれていた。

 積んでいくのはもちろんマルクスだ。


「マルクス。サジュ村のここ十年分の天候記録と収穫量の資料を出してくれ」

「こちらへご用意しております」


 それは小夜が伯爵家の実子として家系図にのった、次の日からだった。

 アマーリエの授業がない時間、フレイアルドは自身の執務の様子を小夜に見せるようになったのである。


『見ているだけでも構いませんから、側にいて下さい』


 そう請われ、真新しい机と椅子まで用意されては小夜に断る理由はない。

 小夜専用の執務机で医学書の翻訳をさせてもらいながら、フレイアルドが捌いていく書類の山をいくつも見送った。


 フレイアルドの業務量は、社会経験のない小夜でも分かるくらいおかしかった。


 資料を見ながら決裁に署名し、同時にマルクスへ指示をする。

 指示の間にはもう次の書類を読んでいた。

 二つもしくは三つの仕事を常に同時に捌いている。

 それも、とんでもない速さで。


「サジュ村の村長へ今年の冬は例年以上に雪が降る予想だと伝えろ。それから秋の収穫で租税を半分免じるので免じた分は村の共同備蓄に回すことを命じる。命令書はこれだ」

「はい。サジュ以東の村はどういたしますか」

「東側は然程降らないだろう。新しい肥料も入れて秋の収穫は十分なはずだ。……しかし反感を買うか」


 とんとんとん、と机を長い指が叩く。

 その数秒だけで、もう彼は結論を出したようだ。


「東側の秋の租税は変更しない。代わりに、嘆願のあった水路の整備を春から優先的に進める。昨年よりも収穫が増えているからこれで問題ないだろう。そのように通達してくれ」

「はい。人足は如何お考えですか?」

「秋に減免した村と退役者から募る。給金は積立金から出す。次」


(すごい……)


 この数日だけでフレイアルドが領地に関わるあらゆる仕事をこなしていることが分かった。


 前に見た訴状の処理だけではない。

 領地の財政、農政は元より商工業やその流通まで、その全てに指示を的確に出していく。


 瞬時に判断していくのもすごいが、際立っているのはその予測能力だった。


 フレイアルドはとても多くの資料を使う。

 過去の天候に人口、農産物の収穫量、そして物価や物流の統計結果がその代表格だ。


 それら資料をもとに、時に起こり得るトラブルを予測し回避するよう命じていく。

 冬が来たら二十六歳になると言われても到底信じられない執務能力である。

 

 手を止めてぼうっと見ていたらフレイアルドと目が合った。


「サヨ、疲れましたか?」

「ぜ、ぜんぜん疲れてません、大丈夫です!」


 彼の仕事振りを見たあとに疲れたなどと言える図太い人間はいないだろう。

 けれどフレイアルドはふっと緩んだ笑みを浮かべ、マルクスに休憩を宣言した。


「こちらへ」


 席を立つフレイアルドに促されるまま、長椅子へ移動した。

 目の前には淹れたてのお茶が用意される。


 小夜の前にだけ、料理長手製の茶菓子があった。


「すみません、執務中は多少空腹な方が集中出来るので私は茶菓子を食べないんです」


 小夜は食べて下さいね、と微笑まれる。

 そんなフレイアルドは小夜の隣に腰掛け、片手を小夜の肩に回していた。


 マルクスは、これについては止める気がないらしい。


「あ、あの、手、が」

 

 フレイアルドが近すぎて、お茶の味が分からない。

 肩に置かれていただけの掌が、少し肩に食い込む。


「私にはこれが一番の休息なんです。……駄目ですか?」

「〜〜っ!」

 

 茶器を取り落とさなかった自分を褒めたい。

 ーー本当に、最近の彼は距離感がおかしい。


 そしてフレイアルドと同じくらい、自分がおかしい。


「だめでは……ないです……」

「ではこのままで」


 前はどんなに近くても、それを恥ずかしいなんて思わなかった。

 触れていると、ただ安心していた。

 側にいると、ほっとした。


 けれどあの夜から、自分はおかしい。

 彼と星を見上げたあの夜から。


 フレイアルドの指が小夜の耳の下を(くす)ぐるように動く。


「あの、ゆ、ゆび……」

「ーーん?」


 戸惑う小夜を覗き込む顔は、蕩けるように優しい。

 彼が触れている肩、そして耳の下が熱い。

 まるでそこにも心臓があるようだ。


(ほんとに、どうしちゃったんだろう……)


 彷徨い始めた思考を遮ったのは、執務室の扉を叩く音だった。

 

 「ーーフレイアルド、いるか?」


 小夜を救ってくれた訪問者。それは紛れもなく兄だった。

 


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