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揺り椅子の女神  作者: 白岡 みどり
三章

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02.明星


 小夜が一の鐘よりも早く目覚めたのは、本当にたまたまだった。


 まだ部屋は暗く、屋敷そのものが眠っているかのようにひっそりとしている。


 使用人の多くは一の鐘で起きて二の鐘から三の鐘の間に主人を起こすから、この時間はみなゆっくり眠っているのだろう。


 小夜は一人、物音を立てぬように寝台から起き上がった。

 

 窓辺へと近寄り、分厚いカーテンを開ける。空には雲一つなく、明けの星がぽつんと輝いていた。


 季節は真夏を少し過ぎたところだ。

 小夜がこの世界へ来てもう二か月ほどになる。

 改めて考えると怒涛の日々だった。


(そうちゃんは、元気かな)


 一人残してきた弟のことはずっと気掛かりだった。しかし小夜の前には課題が山積みでゆっくり想いを馳せることも難しい。


 課題の一つはもちろん「かぞくの医学」の翻訳だ。

 ラインリヒからの頼みもあり、昨日までは応急処置の項目を優先的に翻訳していた。


 その原因は先日の自分の溺水事件にある。


 フレイアルドによれば溺れた小夜は大量に水を飲み、呼吸が止まっていたらしい。

 小夜を救出したフレイアルドはその状況下で医学書の内容を思い出し、気道確保と人工呼吸を施したのだという。


 もしフレイアルドが思い出してくれなければ、小夜はそのまま死んでいただろう。


(フレイアルド様は、ほんとにすごいな……)


 彼のように知識を即実践できる能力は小夜にはない。

 

 この話をフレイアルドから聞いたラインリヒは、小夜がもともと進めていた応急処置の項目だけを先に出版したい、と提案した。


「特に止血法と心肺蘇生法は早く広めたいんだ」


 兄の熱意が何から来るのか、小夜は何となく想像がついていた。けれど、それを敢えて問うことはしない。

 そして昨日、小夜はやっとその項目を翻訳し終えた。

 今日の昼間にでも兄に見てもらい、バルトリアスとフレイアルドの点検を経て印刷、出版となるだろう。


(みんな忙しいのに、申し訳ない)


 エマヌエルの処刑以降、彼等はとても忙しくしている。

 小夜に手伝えることがあれば良かったが、仔細すら教えて貰えない。


 おそらく小夜に出来ることがないのだろう。


 一抹の寂しさはあるが、その気持ちには蓋をした。

 小夜には他にもたくさんやるべきことがある。

 自分のことすらままならないのに、人を手伝うことは出来ないだろう。


 小夜の第二の課題。それは、貴族の勉強だ。


 もう十八の小夜は伯爵家の一員となっても貴族院へ通うことは出来ない。

 家庭学習でこちらの慣習や知識を詰め込んでいるのだが、これがあまり上手くいっていなかった。


 けれど伯爵家の娘として、また大公の後見を得た身としていずれ来る公の場で貴族らしく振る舞うのは最低条件。

 

 この数日はアマーリエが小夜の先生だった。けれどその両親は今日、伯爵領へ帰ってしまう。

 小夜の抱える事情もあり、その後の教師は見つかっていない。

 落ち込む小夜に、二人は伯爵領に帰り次第護衛と同様、早急に探すと約束してくれた。


 両親にも手間をかけさせて申し訳ないことである。


 そんなことをつらつらと考えていると、王都の人々を起こすように一の鐘が鳴った。

 窓の外では、あちこちの屋敷から細く白い煙が登り始めている。

 早起きの使用人達が竈門に火を入れているのだろう。


 もう寝れそうにはないしこのまま起きていようかな、と思った時だった。


 玄関の方から人の声が聞こえてきたのである。

 それも、聞き覚えのある声だ。


 小夜は寝衣の上に肩掛けを羽織ると、静かに扉を開けて部屋をそっと出た。

 廊下はまだ人気がなく、小夜の足音が響いている。


 階下が見える場所まで来て覗いてみると、正面玄関にバルトリアスの姿があった。

 既にきっちりと執事服を着込んだマルクスが対応している。


(こんな朝早くに、どうしたのかな……あ)


 小夜が覗いていることにバルトリアスが気づいた。目があってしまう。

 途端、遠目に見ても分かるほど眉間に皺を寄せたバルトリアスが階段を上がってくる。


(あわわわ……)


 逃げるにはもう遅過ぎた。

 挙動不審な小夜の前で、バルトリアスは腕を組み仁王立ちをする。


「……そこで何をしている」

「お、おはようございます……殿下……お声が聞こえたので、えっと」


 しどろもどろになる小夜は、ずり落ちそうな肩掛けを手繰り寄せた。

 夏なので寝衣は薄い布で出来ている。

 肩掛けで隠そうと必死になっていれば、呆れたような溜め息が聞こえた。


「この馬鹿者。そなたは令嬢としての自覚が薄すぎる。そんな格好で部屋の外に出てくるものではない」

「ご、ごめんなさい」

「これを着ていろ」


 渡されたのはバルトリアスが今の今まで着ていた上着だ。

 しかしそれを着なくとも部屋へ戻れば済む話である。


「あ、あの、もう部屋に戻りますので……」

「命令だ。ーー着ろ」


 ぎろりと鋭い眼光に睨まれれば小夜に選択権はない。


「はぃ……」


 有り難く上着を頂戴して羽織った。

 小夜の体よりもずっと大きな上着は、体温を纏って腰の下まで隠してくれた。

 上着からは初夏の庭園のような香りがする。


 ぶかぶかの上着に着られている小夜を前にして、バルトリアスは難しい顔をした。


「フレイアルドはまさか、今度は其方の寝室にいるのではなかろうな」

「へ? い、いません!」


 伯爵の雷が落ちて以来、もう夢を見て魘されることもなくなった小夜は一人で寝ている。

 バルトリアスは舌打ちした。


「……どこをほっつき歩いておるのだ」


 フレイアルドのことだろう。

 おそるおそる訊ねれば、バルトリアスは組んだ腕を指で叩きながら苛立ちを顕にした。


「寝台にも執務室にもおらん。こんな時間に何処へ行っているのだ、あやつは」


 小夜に聞かれても分かるはずがない。


(お出かけ……朝帰り……?)


 フレイアルドとて立派な成人男性だ。

 そういう日もあるのかもしれない、と想像して胸が痛んだ。


 だがまるで小夜の頭の中を覗いていたかのように、バルトリアスがそれを否定する。


「あの男に限ってそれはない」


 何故それはない、なのか訊ねる暇などなかった。

 急に暗い顔をしたバルトリアスが小夜に一歩近づき、見下ろしてきたのである。


「それよりも……記憶が戻ったと聞いた」

「? はい、そうですね」

「そうか。では俺は其方に詫びねばならぬ」


 何のことか分からず首を傾げる。

 バルトリアスに謝られるような事が、果たしてあっただろうか。


「何かありましたっけ……?」

「ああ」


 階下でマルクス以外の使用人が動き出す気配がする。

 その気配から身を隠すように、バルトリアスは小夜の腕を取ると、身体ごと壁際に隠した。


 背中に壁、眼前にバルトリアス。

 それらに挟まれると、妙な圧迫感があった。

 バルトリアスは背が高い。その顔を見るにはかなり顎を上げなければならなかった。


 見上げた顔は、珍しく落ち込んでいるように見えた。


「あの日……俺が、きちんと其方をフレイアルドのもとまで送っていれば、其方は襲われずに済んだ」

「……殿下のせいではありませんよ?」


 どうやら彼は、小夜がエマヌエルに襲われた切っ掛けが自分だと思っているようだ。

 それは全くもって違う、と小夜はきっぱり言い切った。


「殿下に非はないと思います。そもそもわたしだって真っ直ぐ部屋に帰れば良かったのに、屋敷の中で迷いましたし……とにかく、殿下がわたしに謝る必要はありません」

「だが」


 バルトリアスはかなり強く、自分自身を責めている。きっと小夜にも責めて(なじ)って欲しいのだろう。そう感じ取り、小夜は悩んだ。


(どうしよう、殿下って責任感の塊なんだ)


 おそらくは何でもかんでも背負い込んで自滅していくタイプだ。

 こちらにはバルトリアスを責めたい気持ちなど一ミリもないというのに。


 それにバルトリアスが手配してくれた遺物のおかげで自分は一命を取り留めた、ということも両親から聞いていた。

 却ってこちらがお礼をしなければならないくらいだ。


 けれどそれでは、バルトリアスは自責の念でもっと追い詰められていくのだろう。


 許します、と口先だけで言っても伝わりそうにはない。

 それに怒っても責めてもいないのに許すとはおかしな気がした。


(なんとか、殿下がすっきりする方法を考えなきゃ)


 ぐるぐると考えを巡らせる。

 そして思いついたのは、小夜らしくない大胆な方法だった。


(……こんなことしたら、怒られるだけじゃ済まないかも)


 ーーそれでも、バルトリアスが彼自身を許してあげられるなら。


 小夜はすぅ、と息を吸い込んだ。


「殿下、失礼いたします」

「ん?」


 断りを入れた小夜は意を決すると、振り上げた右手でバルトリアスの頬をぺちり、と叩いた。

 痛みはおそらくない。

 音と衝撃だけの平手打ちである。


「……は?」


 きょとんとしたバルトリアスなど初めてだった。

 その顔に小夜は笑いを堪えきれず、つい頬を緩ませた。


「殿下を叩くなんて、これはとんでもない不敬ですよね。どうか今の不敬と殿下の失敗を、相殺して頂けませんか?」


 小夜の行動は予想外だったに違いない。


 バルトリアスは確認するように叩かれた頬に触れる。

 数秒固まったあと、くっと口角を上げ、笑った。


「相殺か。ーーなるほど、いいだろう」

「ではこの件はおしまいです」

「ああ」


 良かった。納得してもらえた。そう小夜が肩を撫で下ろしたところだった。

 不意に、バルトリアスが身を屈めて小夜の耳元に唇を近づける。


 こちらが息を呑む番だった。


「……覚えておけ。本来なら王族に手を上げた者は縛り首だ。本来なら、な」

「っ!」

 

 恐ろしい言葉と共に吐息が耳に掛かり、小夜は文字通り飛び上がった。

 バルトリアスはまだくっくっ、と笑っている。


「話は済んだ。見つからぬうちに部屋へ戻れ」

「は、はい……」


 脱兎の如く部屋に戻ろうとする背中に声が掛かる。


「ーーサヨ」


 おそるおそる振り返ると、バルトリアスが清々しい笑顔でこちらを見ていた。


「この俺を平手打ちしたこと、忘れんからな」

「ひっ……! わ、忘れて下さい……!」


 言ってから怖くなり、バルトリアスの前から逃げ出してしまった。



 上着を返し忘れたことに気がついたのは、二の鐘が鳴りマーサが来てからのことだった。



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