00.プロローグ
大陸の雄、シリューシャはその厳しい気候環境にも関わらず、ここ百数十年栄華を極めていた。
国土の北と南を大河に挟まれたシリューシャは、女神が最後に住んだ地と言われるほど古い都を、そのまま王都として活用している。
その王都は中心に美麗な王宮を構え、貴族街と平民の住む下町とが小石を投げ入れた水面の如く広がっている。
近年その街が王子の名によって整備され貧民の失業率、死亡率が大きく下がったことに近隣国首脳陣は押し並べて首を傾げていた。
彼らはみな、何故塵や糞尿を集めるだけで孤児や浮浪者が減り、生まれてすぐ死ぬ赤子が減るのかが全く理解できなかったのである。
考えるのを放棄した結果、どうせ女神の遺物を使ったのだろうと安易に結論付けた。
ーーそんな素晴らしい遺物があるのならば、我々も欲しいーー
透けて見えるような欲望に駆られてシリューシャに牙を向いた隣国エブンバッハは、だがあっという間に一人の王子によって叩きのめされた。
その鮮やかな用兵術に、何故この王子が王太子ではないのかーーそう囁く声は一つや二つではなかった。
今もなお虎視眈々と近隣国からその領地と所有する遺物とを狙われ続けるシリューシャ。
その王位継承権を持つ者は、実のところ片手で数えるほどしかいない。
バルトリアスとその父たる王太子は無論、継承権をもっている。
他にはエルファバル大公とその正室が産んだ男子に継承権が認められていた。
だが一方で王太子に大勢いる側室の子には認められていない。
それは何故か。
シリューシャの王位継承権とは、王族の正室から産まれた男児にしか与えられないものだからである。
つまり側室から生まれた子、また正室から生まれた女児には認められない。
この王統を支えるはずの王太子の正室ーーバルトリアスの母は既に死去している。その死から十数年経った今でも空位のまま、埋まることがない。
今後王太子が新たに正室を迎え、もしその正室が男児を産んだとしたら、その子は勿論継承権を持つ。
王太子は女に目がない。急に正室を迎えると言い出す恐れは常にある。
その時バルトリアスの立場が大きく揺らぐことは間違いなかった。
加えて王太子の宮に数多くいる側室の誰かが繰り上がって正室になる可能性も、無いとは言い切れない。
実際側室のうち幾人かは正室にならんがため輿入れした有力貴族の令嬢だ。
バルトリアスに近しい貴族は常にこれらを懸念し、可能な限りの妨害を続けていた。
近年混沌を極める王宮では王太子の正室問題の他にも数多くの難題が山積みだったが、彼らバルトリアス派の貴族が最も不安視しているのは、国王の寿命だ。
国王は御年七十二。
いつどうなってもおかしくはない年齢である。
一方の王太子はまだ四十三。自然死を願うには、若すぎる。
もし今この時、国王が崩御するようなことがあれば、自動的に王太子が即位することとなるだろう。
王太子が即位し、シリューシャを治める。
それは多くの貴族、そして国民にとって暗黒時代の始まりになると囁かれていた。
『バルトリアスを王太子に、次期国王に』
そんな声が王宮で上がり始めたのは、バルトリアスがまだ三つか四つの頃だった。
バルトリアスは齢三つにして四書を読み、四つの時には教師と問答をこなしていた天才である。
加えて産まれながらに女神の加護が篤い、シリューシャにただ一人しかいない『女神の愛し子』でもあった。
対する王太子はといえば。
貴族院は落第すれすれの中やっと卒業する有様で、その性質は粗暴かつ残虐。
剣と弓の腕だけは確かだが、軍を率いる能はなく、政務は全て側近に任せきりだ。
また、ひどい性的倒錯者だというのは貴族の中に限らず有名な話である。
少なくない数の貴族が国王へその息子の悪行を直訴したが、国王が息子を諌めることは終ぞなかった。
直訴が聞き入れられなかった貴族達にとって、バルトリアスはこの国に与えられた最後の光明に見えただろう。
彼等が担ぎ上げる御輿として、バルトリアスは十分過ぎたのである。
幼子であったバルトリアスを王太子にと後押しする声は、日毎に膨らんでいった。
だがそれは結果として、バルトリアスとその母に不幸しか齎さなかった。
***
己の宮の執務室で、バルトリアスは棒立ちになってその報告を聞かされていた。
こんな時でも顔色を変えぬ護衛のせいで現実感が湧いてこない。
「もう一度言え。アスラン」
「……サフォルナ男爵が、国王陛下による尋問を受け、重症です」
自らを支える脚の力が抜け、バルトリアスはどかりと椅子に腰を下ろした。
執務机に乗せられた両手の拳は震えている。
「ーーいつだ、いつのことだ!」
その声には激しい怒りを滲ませている。
手元の報告書を眺めるアスランは、主人と対照的に淡々としていた。
「正確な日付のほどは分かりませんが、エマヌエル処刑の数日後に王宮地下牢へ捕らわれ、数日間の拷問の末、牢で倒れているのを先ほど発見されたそうです」
「ふざけるな!!」
握った両手の拳を、執務机が割れるほどに叩きつけた。
「何故だ!! 男爵が一体何をした!! 何の咎で陛下はそのような愚かしいことをした!!」
喉が切れんばかりに叫んだ。
この護衛に怒鳴ったところで意味などない。
だが叫ばずにはいられなかった。
「ふざけるな……!! 男爵には、妻も幼い子もいるのだぞ……!!」
小夜の治療のため、遺物を借り受けた一人。
誰よりも真面目に仕事をする点を高く評価していた。
いずれ恩と忠義に報い、要職に就けようと思っていた男。
その男を国王が拷問した。痛めつけた。
激しい、それだけでは言い表せないほどの怒りと動揺がバルトリアスを襲う。
(一体何があったというんだ)
しかしバルトリアスには考える時間も嘆く時間も許されていない。
僅かに残った冷静な思考力を総動員した。
「ーー今すぐに男爵に面会する。あの男を失うのは俺の治世にとって大きな痛手だ。何としても生きて貰わねばならん」
「ではすぐに……」
アスランは言葉を切ると獣のように廊下の方向を見つめ、動きを止めた。
だがそれは一瞬のこと。
「殿下。来ます」
それだけ言って腰の剣を抜き払った護衛は、直後に開け放たれた扉に向かっていった。
雪崩れ込んできた男達はアスランに剣を向けられ、不意をつかれて足を止める。
執務室に侵入した男達の先頭の顔には見覚えがあった。
「陛下の近衛が俺の宮に土足で上がり込むとは。何用だ」
先頭の男は、バルトリアスの抜き身の刃のような怒気と、アスランに突きつけられた切先に息を呑む。
しかし、僅かな時間で己を立て直したのだろう。堂々と胸を張り答えた。
「陛下より、バルトリアス殿下へ詮議あるとの由。我らと共に出頭願います」
「出頭だと?」
出頭とは全く穏やかならぬ単語だ。
それではまるでこちらが罪を犯したように聞こえる。
バルトリアスはここに至り、男爵が何のために拷問されたのかやっと予想がついた。
おそらくは、小夜が行った遺物の祝福について問いただされたのだろう。
未来ある有望な臣下を巻き込んでしまったことを、痛烈に後悔した。
だが近衛達にはその内心の動揺を見せぬよう、眉間に力を込める。
「俺には国王陛下に詮議される謂れも、心当たりもない。ご下問あるならば正しき手順を踏まれるがよかろう」
「なりませぬ。国王陛下より、必ずお連れせよとのご命令です。ですのでどうか殿下、大人しく……」
一歩踏み出した近衛の首に、アスランの刃がぴたりと添えられる。
バルトリアスからはこの男の獣のような金眼は見えないが、おそらく爛々と輝いているのだろう。
添えられていた刃の腹が、首に対して直角になる。
「それ以上進めば、命の保障はしない」
「ーー貴様! 我らを国王陛下の近衛と知ってなお剣を向けるか! 捕らえてもよいのだぞ!?」
アスランは唾を飛ばす勢いで脅してくる男達に、僅かな動揺も隙も見せない。
「やってみるか?」
「ぐ、ぅ……」
この護衛の強さを噂に聞いているのだろう。近衛達は一歩、また一歩と後ずさる。
終いには扉まで戻ってしまうと、バルトリアスを憎々しげに睨んでいった。
「……ゆめゆめ、後悔なさいませぬよう」
そして彼等はそんな捨て台詞を吐いて立ち去る。
アスランが剣を下ろした。
「すぐに馬車へ。男爵に面会した後は大公閣下の元に参りましょう。落ち着くまではこの宮に戻らぬほうがよろしいかと」
「ーーそうだな」
本格的にバルトリアスが国王に拘束されてしまえば、いかな大公でも手が出せなくなる。
それは己も痛いほど承知していた。
この王宮では、何かを主張する前に、まず身の安全を確保する必要があるのだ。
バルトリアスは馬車に乗り込むと、アスランと共に朝日の中を直走る。
ふと思いつき、宮を出たところで進路を変えるよう命じた。
「侯爵邸に寄ってくれ。ラインリヒを連れて行く」
「畏まりました」
馬車が侯爵邸に着く頃、王都には一の鐘が鳴り響いていた。
お待たせいたしました。
本日より毎朝6時30分前後に一話ずつ投稿していきます。




