29.エピローグ
エマヌエルという少年が北東大広場で処刑されたのは、多くの貴族にとって寝耳に水の出来事だった。
或いはあのフェイルマー侯爵を巡っての愛憎劇かと多くが行く末を注目していただけに、噂は尾ひれを纏って止まることがなかった。
(そんなことよりも、やるべきことは山程あるだろうに)
噂の飛び交う王宮の中、必死に事務仕事をする男がいた。
その身分はただの男爵。バルトリアス派に属する貧乏貴族である。
男は数年前から困窮していた。
それというのも領地を支えてきた遺物の多くが、家宝のいくつかを除き休眠したからだ。
バルトリアスの口添えによって王宮で職を得てやっと暮らしぶりは安定したが、領民に安定した生活をさせていくにはまだまだ足りない。
(励んでいれば、必ず報われる。バルトリアス殿下が王位について下されば……)
だからこそ周囲が下らない噂話に振り回される間も、必死に職務を遂行していた。
何日も家に帰れない時があっても、王太子派から仕事を押し付けられても必死に耐えた。
ーー男が国王に遺物の貸出を依頼されたのは、その最中のことであった。
***
男は薄暗い牢で、この国の絶対的な支配者に跪拝していた。
ぶるぶると全身を震わせる姿は、まるで捕食者を目の前にした獲物である。
(どうすればいい。どうしたらいいのだ)
男が牢に捕らわれて、すでに数日が経っている。
全身を殴打され、衣服は汗と血でべとりと皮膚に張り付いていた。
全ては、家宝の遺物をバルトリアスに貸し出したことから始まった。
それまで男の家で大切にされてきた遺物を突然貸して欲しいとバルトリアスが頼み込んできたのはひと月以上前のことだ。
当初は断腸の思いで断った。
請われたのは人体から失われた血液を瞬時に回復させる、オレラセアの銘入りの遺物。
戦時中幾度も王族に提供したことで最早その祝福は枯れかけている。
これ以上使えば休眠することは明らかだった。
バルトリアスが職を与えてくれた恩人だとしても、代々守ってきた家の存続と引き換えにすることはできない。
だがそれでもと、なんとバルトリアスは男に頭を下げた。
「万が一、俺が借り受けたことで休眠してしまったならば、家宝となりうる他の遺物を代わりに幾らでも卿へ渡そう。だからどうか頼む。絶対に死なせられない者がいるのだ」
いつか王位について欲しいと望む男からそのように頭を下げられれば断り切ることも出来ず、男は諦めに似た気持ちで貸し出したのである。
ところがだ。
バルトリアスに貸し出した遺物は、まるで一度も使われたことがないほど祝福に満ちて返ってきた。
「殿下、一体、一体どうしてこのような」
あり得ないことだ。
自分の目だけではとうてい信じきれないことだった。
念の為妻にも確認してもらったが、その結果は変わることがなく。
精悍な顔を曇らせた王族は、この件は他言無用であると告げた。
「仔細を知れば其方と其方の一族が危険に晒される。知らぬ方が良い。だが、この恩にはいつか必ず報いる」
詫びにと与えられた多額の金銭は、傾いていた男の家を立て直すには十分過ぎるもので。
またバルトリアスからそれ以上教えてもらえないと分かり、男とその妻は信じて沈黙していたのだ。
ーー国王自身から、件の遺物を求められるまでは。
何度目かの失神の末、冷水を浴びせられて男は目を覚ました。
そこは失神前と変わらず王宮の地下牢であった。
国王に件の遺物を要求され、なぜ祝福に満ちているのか説明を求められた時から、こうなることはある程度覚悟の上だった。
男の忠誠は国王になく、ただ一人バルトリアスに向けられている。
この数日間苛烈な責めに耐え、沈黙を貫いていた。
「しぶといことだ」
牢内には国王とその側近が一人、男を見下ろしている。
男に水を浴びせたのは、この側近だろう。
国王が男に直接声を掛けた。
「ーーこれが最後だ。どうやって祝福で満たしたのだ?」
重厚な声である。
人を従わせ、蹂躙することに慣れた声でもある。
苛烈な責めを与えられても、こちらはその方法を知らないのだから答えようがない。
「存じませぬ……ある日確認したら、突然としか言いようがなく……」
「ふむ……」
国王は白くなった頭髪と同じくらい白い髭をゆったりと撫でている。
光源の乏しい地下では、どのような表情をしているかまでは分からなかった。
国王は、隣に立つ側近に感情の見えぬ声で命じた。
「此奴の家の者、誰でも良い。妻でも娘でも構わぬ。捕らえて参れ」
「……は……?」
男は、国王が何を言っているのか理解できなかった。
妻や娘を連れてきて、どうするというのか。
「へ、陛下……何を申されます……?」
男は不敬を承知で尋ねるも、国王は一顧だにしない。
側近に早く連れてこいとだけ命じた。
国王と然程変わらない歳の側近は、あまり気乗りがしないようである。
「我が君……さりとて、家長さえ知らぬことを家の者が知っているでしょうか?」
「知らずとも良い」
疲れたような嘆息が室内に響く。
「目の前で妻子を拷問しても話さぬのなら、知らぬという此奴の言を信じてやろう」
それは、男にとって絶対に避けたいことだった。
愛する妻を、子を、目の前で拷問されるなど耐え切れるものではない。
気がつけば叫んでいた。
「ーーどうか!! どうか家の者はお赦しを!! 話します、全て……!!」
国王が纏う長衣の裾に取りつきながら、血と汗に塗れた顔を床に擦り付ける。
その心は、千々に乱れていた。
(殿下……どうか、どうかお許しを……!!)
しかし与えられたのはもちろん許しなどではなく、ただ残酷な命令だった。
「ふむ。余も暇ではない。手短に申せ」
そして男は、知る限りのことを全て語ってしまったのだった。
男が語り終えてもしばし沈黙していた国王は、おもむろに側近へ命じる。
「ーー早急に、バルトリアスを呼べ」
「畏まりました」
もはや蹲る男に興味はないと、彼らは牢を出ていく。
振り返ることすらなかった。
一人残された男は自らの不忠と、家族の無事に、ただただ涙を流していた。
これにて、二章完結です。
今後の投稿につきましては活動報告をご覧下さい。
ここまでお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。
また三章でお会いできることを願っております。




